28.

 西新宿、一角。


「ほ、ほんとうに大丈夫なんですか? 土竜殿」

「はてさて、はてさて」


 すっとぼけた老人の声が、街中の喧噪に紛れて桐人の耳元へと届いた。

 休日の新宿は人が多く観光客でごった返しており、駅前を通れば人集りがゾロゾロと出来てなかなか前へ進めない。

 かつんかつん、こつこつ、ぴょんぴょん――と、それぞれの個性が強くにじみ出る靴音を立てながら、二匹の妖を連れた青年は人波を懸命に掻い潜っていた。

 今日は、やけに人が多い。

 

 ――昼前。

 『ぜニーズ』を後にした桐人は、土竜に誘われるがまま人だかりの多い大通りを歩いているが、自身らが向かう先を未だ知らずにいる。

 一体、土竜はどこに向かっているのだろうか。

 

「……土竜さん。あの、どこに向かっているか聞いてもいいすか?」


 ひょこひょこと前を歩く小さな背中へと、桐人はついに声をかけた。スイスイと人の足と足の間を泳ぐ姿は水を得た魚のように実に早く――余りにも早すぎて、海藻に紛れる小魚みたくうっかりと姿を見失ってしまいそうだ。

 からかさも、よくあの片足でぴょんぴょん跳ねながら、この人混みの中ついてこれるな。

 どうでもいい思考を働かせながら、桐人は只管に歩いた。

 少年は一刻も早く自宅へ戻らなければならないというのに――このご老体は一体どこへ向かっているのか。

 確かにこの人混みは、桐人についているという監視を撒くには都合が良いかもしれないが、いまのようにただ歩いていても、桐人は監視を撒ける気がしなかった。

 訝しげに眉を顰める桐人に、土竜がふさふさの髭を揺らしながら言葉を返す。


「もちろん。片瀬殿のお宅ですよ」

「え、片瀬殿のご自宅って、この先にありましたっけ?」


 ――いや。だからお前ら、なんで俺の家を知ってるんだよ。

 ぽろりと、まるで桐人の住所を知っているような口振りで疑問をこぼした唐傘に、桐人は胡乱げな瞳を向けた。

 短くはない付き合いではあるが、桐人は一度もからかさを自宅に招いたことがない。土竜も然り。妖怪とは、人の住まいまで熟知しているものなのだろうか。

 桐人はぶるりと一種の悪寒を覚えた。


「……なぁ。俺、お前らに住所おしえたことあったっけ」

「え゛……えー、」

 

 しーんと何も答えず我が道を行く土竜とは対照的に、からかさが喉に何かが詰まったように呻いた。どことなく不審さを感じさせる傘に、桐人の顔が益々ゆがむ。


「おまえ……」「あー! ほらほら土竜殿! 早くしないと日が暮れてしまいますよ!」

「そうですかな?」


 ビルとビルで狭まれた空はまだ明るい。時計で時刻を確認すれば、日暮れが大分先であることは明白だ。

 明らかに何かを誤魔化そうとしている唐傘に、土竜はひらひらと手を振った。

 

「――もう、そろそろですな」


 そう言った土竜に、後を追っていた二人がきょとんと眼を瞬かせる。


「え?」

「片瀬殿、からかさ殿。次の角を右に曲がります。狭いですが、あの電柱と壁の間をお通りください」

「ん?」「え、」


 土竜が指した先はちょうど人混みから外れる小道だった。静かな通りへと続きそうな気配がした。

 言われたとおりに次の角を右に曲がる。途端――。


「……え、」


 通りが、一瞬で別の風景へと変わっていた、


「え、な、へ」

「――ここ……《裏新宿》か?」


 背の高い建造物に阻まれていた陽光が、桐人の視界いっぱいに溢れる。狭かった空が、遥か頭上でのびのびと広っていた。

 灰色の景色からの情緒あふれる下町への変貌に、桐人は唖然とした。すると、こちらの身体の力さえも抜けてしまいそうな、なんとも呑気な声がふわりと足元から飛んでくる。


「――いやぁ。まさか偶然に・・・も曲がった先が《ポータル》に繋がっていたとは。運よく通れて、良かった良かった」

「……土竜さん」


 未だ状況を理解できていない桐人たちの隣に、気がつけば消えたはずの土竜が静かに佇んでいた。


「監視が追いつく前に綺麗に閉じましたし、これでしばらく自由にできそうですな」

「……閉じた?」


 『通れた』、『閉じた』――まるで、裏新宿への出入り口を潜ったかのような言い方だ。

 いや。ような、じゃない。

 ――潜った・・・のか。

 

「……土竜さん、これって」

「おや? 《ポータル》は初めてですかな?」

「――ポータル……?」


 どこかで聞いたような単語に桐人は記憶を探るように方眉を上げ、からかさは驚いたように口を開いた。


「ポータルって……不規則に開いては閉じる、『裏』と『表』を繋ぐ穴のことですか?」

「さよう」


 ポータル――新宿各所に固定された出入口とは別に、偶に開くと噂される『穴』のことだ。

 驟雨しゅううのようにパッと開いては閉じる幽世への入り口を、人は『入り口』ではなく『穴』と呼んでいた。

 偶に起きる人間の神隠しも、妖の仕業以外にもこれが原因ではないのかと語るものも居るが、突発的に起こるその現象を確認したものはあまり居らず、《ポータル》は大衆の間ではあくまでも噂として留まる存在だった。


「つまり、ワームホール……みたいな?」

「そうですな。そう考えても相違ないかと」


 首を傾げる桐人の横で、からかさは何処か浮足立ったようにパタパタと傘を仰いだ。


「私、通ったのは初めてです!」

「ポータルは視覚で確認できるものではありませんしな。あれは、実際に足を踏み入れてみないと存在を認識できない」

「――それにしては、「右を曲がれ」なんて、随分と的確な指示に思えた気が」


 じとりと、疑うように桐人が土竜を見遣る。


「我々のような稼業をしているものは職種問わず横に広く、蜘蛛の巣のような繋がりを作っておりましてね。お互い捕まっては困るものも居るので、時々、情報を流していただいているんですよ」


 ひらひらと老人の小さな手が翳すのは、あの青い携帯だ。

 つまり、その携帯を使って誰かと連絡を取り、見つけた《ポータル》の情報を流してもらったということか。

 からかさは不思議そうに首を傾げた。


「でも、《ポータル》の情報なんてどうやって……穴の出現予測は普通、出来ないものでは?」

「それほど、『裏』は妖とヒトでごった返している、ということですよ」

「は、はあ……」

 

 ほほっと笑いながら何とも意味深な言葉を並べる土竜に、静かに閉口する。

 それ以上は、聞かない方が良さそうだ。


「けど、突然消えてよかったのか? 逆に監視に怪しまれたりは……」

「特に不審な動きを見せた覚えはありませんし、あれだけの人混みの中を歩けば、我々が何かをしたというよりは、監視の落ち度の方が疑われましょう」


 だから問題は無いと土竜は言った。

 夜の喧噪が消えた昼間の町を歩きながら、言葉をつづける。


「実際、片瀬殿についていた監視は陰察官でも訓練された式神でもなく、簡易に式札で作られた人形ですからな。人間がよく使う《ドローン》――それも、ちゃちな自動プログラムを仕込まれたものと同等な出来栄えだ」

「……へぇ」


 「ドローン」などと、江戸どころか原始時代を連想させる身形をした老人が近代的な言葉を使う光景がなんとも珍妙に思えて、桐人の相槌が一拍遅れる。


「あんなお粗末な物では、精々こどもの安全を見守ることしかできまい」

「つまり、俺はその子供と一緒なわけですか……」

「ほほっ」


 お粗末。子供。ちゃち。

 自身に向けられた言葉ではないのに、なんだか苦い気持ちが桐人の胸奥で込みあげる。

 桐人につけられた監視は、桐人に向けられた評価と同義だ。

 つまり、桐人は「一応監視はつけるけども、警戒するには値しない存在」であるということだ。

 喜ぶべきか、嘆くべきか。なんとも複雑な感情が入り乱れた。

 そんな桐人の気持ちを察したのだろう。ほほっと楽しそうに土竜がまた笑った。


善哉よいかな善哉よいかな

 丁度、阿神谷通りに出れたわけですし、このまま正面口から『表』に戻り、そのまま片瀬殿のご自宅へ向かいましょう」

「……そうですね」


 そう言って、邪魔な監視を撒いた二匹と一人は、何事も無かったかのように『裏新宿』を後にした。

 そして桐人の自宅へと向かう道すがら――。


「土竜さん。ちょっと、聞きたいことがあるんすけど」


 頭の片隅にふと湧いていた疑問を、桐人が口にした。


「なんですかな。問いによっては料金が発生しますが」

「……金、とるんですね」

「商売ですから」

「……じゃあ、料金が発生するようであれば答えないでください」


 まったく抜け目のない爺さんだ。

 一瞬でも気を抜いた瞬間、金を巻き取られそうで恐ろしい。目元をひくつかせながら桐人は質問した。


「裏新宿って、どこにあるんですかね」


 ――しん、と静寂が訪れた。

 人通りの少ない住宅街に、ぎぃぎぃと鳴く蝉の声だけが木霊した。

 ゆらゆらと陽炎で揺れる視界の中で、土竜が初めて桐人へと振り返る。


「……と、言いますと?」

「え、あ、いや。ポータルとか、阿神谷通りの入り口ってありますけど……その、妖の世界ってどういう風に出来てるのかなって」


 ぽかん、とからかさが呆けたような表情で桐人を見上げた。

 「何を言っているんだ、こいつは」と言っているような顔である。土竜の表情はふさふさの髭と眉毛のせいで見えない。

 なんともいたたまれない静けさに、桐人は慌てて口を捲し立てた。


「異次元にあるんだろうなぁとは思うけど、なんか、こう……ほら! 『裏』新宿って呼んでるわけだし、人の世界と同じ地形してんのかなっ、て」


 土竜は何も言わない。その沈黙がなんだか嫌で、桐人は更に言葉をつづけた。無意識か、視線がうろうろと横に泳いでいる。


「いや……その、なんていうか、当たり前だろって言われるかもしれないけど」


 なんだか喉が渇いてきた。ごくりと唾を飲みながら、乾いた咥内を潤わせる。


「人と妖の世界って似てるんだなぁって」


 からかさも珍しくだんまりと口を閉じたままだ。いつもだったら、「そりゃそうですよ!」なんて笑いながらここで口を挟んできそうなのに、彼はパチパチと目を瞬かせながら桐人を凝視していた。

 「なんだか、今日の自分は質問ばかりだ」と、桐人は何も知らない自身を少し恥ずかしく思いながら、口を動かした。


「こう、なんていうか。いつから人の世界とか、妖の世界があるのか知らないけど……世界が違うんだから、こう……姿形も生態も違うし、独特の文化みたいなのがあっても良いのに、妖とヒトって妙に似てるっつーか」


 ――妖の中には元は人だったものが居るのだ。それは当然だろう。

 からかさのように、人が作ったものや、人の想いから生まれる妖が居る。――ならば、妖は人が作ったものなのか? 『裏』とは人が作ったものなのか?


「そしたら、いつから妖の世界ってあるんだろう、みたいな?」


 妖はいつから存在していたのか。人が誕生した後か、或いは同時にか。

 隠り世と人の世界はどのように繋がっているのだろう。どのように誕生したのだろう。

 妖を見えない人が居るのはどうしてか。どうして見える人が居るのか。見える人と見えない人の違いは何か。霊力の問題? そもそも霊力って何だ? どこからそのエネルギーはどうやって生まれるのだ?

 諸説はある。だが、これと言った答えを、桐人は未だに聞いたことがなかった。

 ――一つの疑問が湧き出れば、自然と他の疑問が次々と溢れ出てくる。

 今は万葉や椿会のことを考えなければいけないのに、一つの話題として出した小さな疑問が、あっというまに桐人の中で膨れ上がっていた。

 ――これは、桐人の悪い癖だ。


「……すんません。意味、わかんないすよね」


 毎回『裏新宿』へと踏み込む度、あの阿神谷通りにある鳥居の下を潜る度、桐人は疑問に思っていた。


「ただ、『裏』と『表』って呼び方してるけど、それってどういう意味なんだろうなって」


 単に、『陰』と『陽』のようの捉え方でいいのか。


「それとも、コインの『表』と『裏』みたいな捉え方なのか。或いはもっと、別の意味でそう呼んでいるのか」


 くだらない質問だ。

 きっと誰もが鼻で笑い飛ばす疑問に違いない。腹はなぜ減るのか、海はなぜ青いのか、人はなぜ飛べないのか――そんな問いと一緒なのだろう。


「……えー。そのポータルってあるけど、その穴ってどうして開くのかなって最初に不思議に思って、そっから芋づる式に今まで抱えていた疑問がぶわぁって、出まして……」


 ははっと桐人が空笑いを零すと、からかさがはあと呆れたように溜息を吐き、やれやれと首を振った。

 その態度に多少ムッとしながら、歩みを止めず帰路につく。いたたまれない気持ちが、桐人の背中を押した。

 ――何を考えているのだろう、自分は。今はそんなアホみたいなことを考えている場合ではないのに。

 そうだ、さっさと家に戻ってぶつを回収せねば――。

 そんな風に急く気持ちに答えるように、足早に歩みを進めた。


「……ちょっと、疑問に思っただけです。はい」

「――追求者の思考ですな」

「へっ?」


 いつのまにか横に並んでいた土竜が、ぽつりと呟いた。


陰陽寮おんみょうりょうらの者も調べておりますが、隠り世の成り立ちはまだ解明されたわけではおりません。ヒト曰く、隠り世は『宇宙』や『海底』と同じように未だ謎が多い」

「そう、なんだ……」

「片瀬殿は我々を《妖し》ではなく、《実体》として捉えておられるのですな」

「はい?」


 ふっと髭をふわりと揺らしながら、小さな老人がこちらを見上げた。


「いやはや、面白い面白い」


 何が面白いのだろう。

 愉快そうに肩を揺らしながら笑う土竜に、桐人が当惑したように顔を顰めた。

 しかし土竜は気にしていないのか、こつこつと足を進めながら桐人に問い返した。


「片瀬殿、『裏新宿』以外の場所に踏み込んだことは?」

「新宿以外の、場所?」

「一度、行ってみるといい。今は新宿に捜査範囲を留めておりますが、そのうち万葉殿も他所へ行かれるでしょう」

「他所、か……」


 そうか。『裏新宿』以外にも隠り世があるのか。

 いや、そりゃそうか。

 『裏新宿』なんて名前を付けられているのだ。『裏渋谷』とか、そういう場所もあるに違いない。

 詳しい話は聞いていないが、他所から来たという妖には桐人も会ったことがあった。

 

(……あれ、まてよ)


 ふと、ある可能性が桐人の思考に浮かんだ。

 ――岸松たちが、新宿を出ている可能性だ。


(あれ、それってかなりヤバくないか?)


 それはつまり、桐人がこのまま新宿で闇雲に情報を集めても、岸松に辿り着けない可能性を差していた。 

 椿会は捜索の範囲をどこまで広げているのだろうか。

 ……否、今はそれを考えても仕方ない。

 とにかく岸松に繋がるかもしれないあの箱を回収して、それから岸松のことを此処で調べよう。岸松とやらのことをまず知るべきだ。

 そう考えて桐人はとりあえず土竜にまた別の質問を投げかけてみた。


「そういや、岸松って何の妖怪なんだ?」


 そう問いかけた桐人に土竜は、記憶の引き出しを開けながら答えようと振り返った。 


「椿会の岸松きしまつ夜須やすですか。彼は確か、隠し神の一種と呼ばれる――あら? 

 ……からかさ殿」

「……な、なんですか土竜殿。私、今、喋るのもつらいんですがっ……」


 ぜはぁぜはぁとからかさが浅い呼吸を繰り返しながら、顔を上げた。どうやら先程からやけに静かだったのは、暑さにやられていたかららしい。随分な距離を歩いていたので、体力を大分消耗してしまったのだろう。

 なぜ履いているのか――気合を入れるためなのだろうが――随分と歩きにくそうな赤いピンヒールのせいもあるのかもしれない。

 消耗しきった、汗でだらだらの顔を向けるからかさに、土竜が小首を傾げながら口を開いた。


「――片瀬殿が、おりませんよ?」


 蝉の声が響きわたる、長閑な住宅街。

 ちょっとした坂道を歩いていたはずの土竜たちの傍から――桐人の姿が跡形もなく忽然と消えていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る