26.


「……あさ、」


 白を基調とした私室。カーテンが引かれていない窓に眩しい朝日が差す。

 ぼんやりと、眼球を刺激する旭光から目を守るように瞬きをする桐人。日付を確認するために、机に飾られたカレンダーを注視した。

 六月十八日、土曜日。学校は、ない。


 固い床に下ろしていた腰をゆっくり上げれば、背中から肩へと鈍い痛みが走った。

 六時間、じっと同じ体制で座っていた弊害だ。

 昨夜から着替えそこねていた制服を脱いで、白シャツへと腕を通した。動きやすいカーゴパンツを履いたら、洗濯物を持って階下へと降りる。

 香ばしいウィンナーの匂いが階段横の扉から漂ってきた。

 先に風呂場の脱衣所へ向かい、洗濯機へと服を放り込んでから、顔を洗った。水の冷たさが汗でべたべたになってた肌を突き刺し、思考を覆っていた薄い眠気を洗い流した。ズキズキと張り付いていた眼球裏の痛みも幾分か和らいだ気がする。

 洗剤の匂いがする柔らかいタオルに顔をうずめて、それから洗面台の鏡を覗いた。

 酷い顔だ。

 僅かに充血した目に、陰鬱に残る隈。睡眠不足であることは明らかだったが、桐人は構わずウィンナーの香ばしさが漂うリビングダイニングへと移動した。


「あら、やだキリくん。どうしたの、その顔?」


 日当たりの良いキッチンカウンターから顔を覗かせる母から視線を逸らしながら、桐人は食卓に着いた。

 白い皿に並ぶ大き目のウィンナーと目玉焼き、赤いトマトで彩取られたサラダに目をやりながら、水差しからガラスコップに水を注ぐ。


「……ちょっと、考え事があって」

「あら、まあ」


 ぼそりと桐人が返した答えに、母が驚いたように声を上げた。

 少年の前の席へと腰かけて、瞬きを繰り返す。にんまりと弧を描く口元から、彼女の好奇心が伝わってきた。

 面倒くさそうな、匂いがした。


「恋のお悩みかしら」

「違います」

「ふーん」


 間髪入れずに桐人は否定をするが、母のにまにまと笑う目を見れば、何やら良からぬ想像をしていることは明白だった。

 はあ、と疲れたように桐人は溜息を吐くと急ぐように朝食を口へと掻きこむ。やるべきこと、否、考えなければならないことが沢山ある。

 今は母の揶揄いに馬鹿みたいに反応している暇もなければ、余裕もないのだ。とにかく今は食事を取って、シャワーを浴びて、頭を一度すっきりさせて、それから――。


(それから――?)


 ふっと食事を口に運んでいた手を止めた。

 

(それから、どうすれば良い?)


 頭を占めるのは昨夜のこと。

 囚われた万葉。何時の間にか居なくなっていたからかさ。土御門の言葉。そして――椿会の問題。

 

(……俺に、何が出来る?)


 何も分かっていない。今、自身が置かれている状況の判別さえもしっかりと出来ていない子供に、何が出来る。

 何時にも増して弱気な思考が桐人の中を這いずり始めた。


(今、動いて状況が更に難解になったら? そもそも先輩がああなったのは、俺に原因があるのに。俺が、この状況を作り上げたようなもんなのに――俺に、何が出来る?)


 箸を握る手がぎり、と悲鳴を上げる。思考が、何時かと同じような泥沼に浸かりそうになった時だった。


「――わたし、昔からキリくんに足りないのは押しの強さだと思うのよね」


 突飛な発言が、左耳から右耳へと突き抜けた。

 ぱちん、と弾け散った思考から頭を上げて、桐人は眼前で頬杖を突く母を呆けたように見つめた。


「……ごめん、何の話? あと、肘つきながらご飯食べない」

「ほら、キリくんって昔から自分の意見ってあんまり口にしないじゃない?」


 どっちが保護者か分からない桐人の発言をきれいに無視しながら、桐人の母は呑気に続ける。


「相手のこと考えて~、とか思っていっつも我慢したりしてるわけだけどさぁ……結局、その相手のためって、自分のためだったりするのよねぇ」


 ぎくりと、何故だか肩が強張った。母の唐突にも思える話に、当惑したように眉間に皺を寄せながら、桐人は必死に内容を噛み砕こうとする。


「……え、と」

「どんなに悩んでも結局、最後に出す答えって自分のためのものよ。最初は相手のためだと思ってても、最後に出した結論は、自分が納得できるものだから、『結論』と呼べるわけで――」

「……と、いうと」

「その『結論』を出したってことは、その『結論』に納得したということで、納得・・したということは、その結論に満足・・しているって、ことでしょ?」


 母は何が言いたいのだろう。

 何時にない静かなトーンに、桐人は彼女を凝視した。もくもくと黄金色のトーストを齧りながら、小さな唇がほだすような口調で言葉を紡いだ。


「難しいことごちゃごちゃ考えて立ち止まって、事と時間が過ぎるのを眺めるぐらいなら、行動を起こした方が良い時だってある。何をすれば良いのか、どうすれば良いのか、分からなくてジッとしてるぐらいなら、動いて頭を動かした方が良い。自分が止まったって、周りは止まらない。こっちが大人しくしたからと言って、他人が大人しくなるわけじゃない。皆、勝手に動いて、勝手に事を進めてるんだから。壁を打破したいというのなら、どこかで動かなきゃ」

「……それ、は」

「つまり何が言いたいかっていうとさ――ムラムラもやもやしたら、一遍いっぺんそこで押し倒しちゃえば良いのヨ」

「―――――――はい?」

「大丈夫。女の子って案外強引のに弱いから……特に最近はロールキャベツ系が良いみたいね」

「え、まってまって」

「ちなみにお母さんのおすすめは『言葉攻め』――」「だから、人の話を聞けぇっっっ!!」


 一瞬、耳を傾けようとした自分が馬鹿だった。珍しくも真面目な表情をする母の言葉に聞きいった自身を殴りたくなった。

 浮いた話のない息子の色恋ごとを必死に作り上げようとする母に、桐人は呆れにも似た虚無感を抱いた。


 ♢♢♢

 

 ――ともあれ。話に若干の認識の誤差はあれど、母の教えは間違っていない。

 じっとしていたって、時間は止まってくれないし、誰かが問題を解決してくれるわけでもないのだ。

 身形を整え、玄関の扉に手をかけながらスニーカーを履いた桐人は黙考した。

 

(分からないなら、まず状況の理解をするべきだ)


 至極単純で、馬鹿みたいな答えだ。だが実際、この一連の事件の全容をしっかりと理解していなければ、解決も何もあったものではないのかもしれない。

 万葉の名前を出し、彼女の存在が椿会に伝わるきっかけとなった『志戸』と『岸松』。彼らが今どこに居り、問題の『椿の毒』が何処にあるのか。

 否、そもそも何故『志戸』と『岸松』は万葉の名を知っていたのだろう。


(佐々木先輩――)


 『蟲喰い』と呼ばれる種類の妖で、だけど一般の『蟲喰い』に比べて常軌から逸している女性。

 基本的に冷めているように見えることもあれば、偶に親切に思える言動を繰り返したり、寛容にも思えたりする瞬間もあったりして――かと、思えばあの、意識も思考も全てを奪い去ってしまう、凄然とした『眼』。

 高校三年生――十七歳か、或いは十八歳として、小宮高校に在籍はしているが、本当は何歳いくつなのだろうか。阿魂みたいに長い時を生きてきたのか、或いは本当に土御門と同年代なのか――桐人は、それさえも知らない。誕生日も、好きなものも、嫌いなものも――あらゆる物質に憑依できる能力以外、桐人は佐々木万葉のことを知っているようで、何も知らないのだ。

 

(土御門たちは、どこまで知っている?)


 椿会は『東八町停』で起きた騒ぎによって、万葉の歪さ・・・に既に気づいている。

 彼らは『東八町停』と繋がりがあるからこそ、忽然と万葉が姿を消した事実を突き止めていたが、果たして陰察庁はどこまで熟知しているのか。

 

「……そもそも。何故、土御門は先輩に捜査協力の要請をしたのか」


 そこから、桐人はある種の予感を抱いていた。

 『蟲喰い』が既に『蟲喰い』としての役割を果たせなくなってしまった今、陰察庁が『蟲喰い』を殆ど当てにしていないことは桐人も薄々と勘づいていた。

 伊達に馬鹿みたいに妖との交流を広げていたわけではない。陰察庁に飼われている『蟲喰い』が殆ど全滅していることも桐人は知っていた。

 『蟲喰い』が、人員が足りないから、万葉に協力を求めたのか――いいや、違う。

 土御門は、万葉を何らかの理由で疑っているのだ。

 何を疑っているのか、何に気づいたのか、残念ながらそれは桐人にも皆目見当がつかない。しかし、想像よりも万葉がまずい状況に陥っていることは、桐人もひしひしと昨日の騒ぎを通して、肌で感じていた。


「……そもそも、普通の・・・蟲喰い・・・』って何だ?」


 ふっと、頭の片隅に仕舞っていた疑問が湧いた。

 桐人はそもそも万葉以外の『蟲喰い』に会ったことがなければ、目にしたこともないのだ。

 ――外見は? 佐々木万葉みたいに人の姿をしているのか?

 ――『蟲喰い』に共通する身体的な特徴は? 能力は?

 ――彼女たちはどこで、どうやって生まれ、何故あのような、特殊な食事・・・・・の仕方をする?


「……先輩は、元は何だったんだ・・・・・・・?」


 鬼が元は人であったと言われるように。からかさが元はただの傘であったように――『蟲喰い』の元は、何であったのか。


「……っああ、くそ!」


 違う。今はそれを考えている場合じゃない。

 思考にぽつぽつと水を差す疑問を振り払うように、桐人は頭を掻きむしった。

 こうして冷静に情報を整理しようとすればするほど、自身の無知加減が明るみになっていく。今まで、自分は何を見てきたのだろう。否、答えは自明だ。見ていない。目を逸らしていたのだ、桐人は。

 どこまで佐々木万葉という存在の謎に踏み込んで良いのか分からず、境界線の周りを彷徨し、彼女に触れることを避けた。

 佐々木万葉自身もそれを望んでいた。だからこそ、桐人はどんな疑問を抱いても一切の質問を彼女に投げかけるようなことはしなかったのだ。しかし、それは果たして正しかったのだろうか。

 否。

 否。否。否。

 ただの言い訳だ。佐々木万葉を深く知っていようがいなかろうが、そんなものは関係ない。

 桐人が知るべきは佐々木万葉が疑われる原因。土御門が彼女に目を付けた過程。そして、『裏新宿』を包んでいる問題の全容だ。

 そもそも『蟲』とは何であるのか。どのようにして、あのような進化を遂げたのか。『パラダイスシフト』は誰が作ったのか。どこから流れてきているのか。

 桐人は椿会の『裏切者』の顔さえも知らない。

 ――まず、集めるべきは『裏切者』の情報だ。

 

 ちらりと、桐人は自身の右手首を飾る赤い腕輪を一瞥した。


『手首に異常が出始めたらすぐに報告しろ。そこは自己の判断で佐々木の近くに――【裏】に近づいても構わない』


 思いもよらなかった土御門からの言葉が桐人の脳裏を過った。

 どういう腹積もりで土御門が桐人の行動の制限をしてこなかったのか、今でも分からないが、それでも何か裏があるはずだ。

 すっ、と視線を後ろに向けた。玄関口から屋内を観察するが、恐らく母以外、家には誰も居ない。

 だが、一歩――この軒下から踏み出ればどうだろうか。

 軒の影から進み出て、日光に直接当たると一気に全身を熱で蝕まれるような感覚がした。ふっと空を仰ぎながらもう一度うしろを振り返れば、なんてことない、いつも通りの家が見える。

 屋根上に、人影は無い。


 考えすぎかと思い、桐人はそのまま家を後にし、車の往来が少ない道路を歩いた。

 昨夜のあの出来事が嘘のように、日常の風景が桐人の記憶となんら差異もなく、いつもどおり広がっている。

 子妖怪たちが偶に道の隅で悪戯を繰り返す姿が視界の端を過り、その存在に気づかない人々が悠々と日常を繰り返す光景がどこまでも続きそうに見えた。


「――まってよ、あーちゃん!」


 泣きそうな男の子の声が聞こえる。

 桐人の横を小学生らしき子供たちが駆け抜けた。白いワンピースを着た少女に、その背中を鼻水を垂らしながら追いかける赤いキャップの少年。


(……どっかで、見た光景だな)


 そういえば、昔の自分もよく彼女・・の背中を追いかけていた。

 目が離せなくて、傍に居たくて、毎日毎日、飽きもせず黒髪の少女を追いかけ回していたあの頃が、今、とても懐かしく感じる。


「……あの頃から、だったっけ」

「――桐人」

「っっぅおわぁあ!!」

「ひっっ!?」


 物思いに耽っていた思考に、突然透き通るような声が滑り込んできた。

 驚愕とと共に背中をぞくりと走り上がった何とも言えない感覚に、桐人は思わず悲鳴を上げた。

 どっどっと早鐘を打つ心臓を押さえながら、諸悪の根源へと振り向く。そこには、長い黒髪を一つ結びにした幼馴染が立っていた。


「か、かや」

「び、びっくりさせないでよ」

「す、すまん」


 ――いや、びっくりさせてきたのはソッチなのだが。

 内心、そう思ったが懸命にも言葉を飲み込んだ桐人。くだらない論争を繰り広げる気にはなれなかった。

 いつにも増して覇気がない桐人の様子が気になったのだろう。幼馴染――花耶は眉尻を垂らしながら問いかけてきた。


「何かあったの? 顔色、すっごい悪いけど……」

「いや、ちょっと考えごとがあって」

「考え事?」


 そろりと視線を外す。どう答えれば良いのか分からず、「聞くな」と言外に伝えた。

 しかし花耶は腑に落ちない点があったのか、尋問を続けた。


「……それって、あの監視と何か関係があるの?」


 咄嗟に、答えを返すことが出来なかった。

 外していた視線を戻し、目の前の幼馴染へと桐人は問い返した。

 声はいつもより心なしか小さく、当惑しているようだった。


「……か、監視? って、なに?」

「気づいてないの?」


 気づいていなかった、わけではない。

 居るのだろう、と疑っていた。――が、そうか。やはり付いていた・・・・・か。

 疲れを吐き出す、というよりは胸に渦巻く不安や焦燥を述懐するように、深い溜息を吐いた。


「……いや、これで合点がいった」


 土御門の狙いが少し、見えた気がした。

 がしがしと苛立ち交じりに頭を掻いて、考えるように腰に手をつく。さて、ここからどう動こうか。

 監視を振り払う能力も、監視の目を掻い潜る自信も、生憎と桐人には無い。全く、糞みたいな話だ。

 こんな雑魚みたいな自分にまで気を配る土御門が、とても憎たらしく思えた。

 

「桐人、もしかして何か事件に巻き込まれてるの?」

「あー、いや。巻き込まれては、いないかな」


 ――半分、自業自得であると言えなくもない。

 こうなってしまった経緯に桐人の行動による要因も確実にあるので、巻き込まれたとは言えなかった。


 じっと、花耶が桐人の言葉を訝るように、桐人を見つめた。

 その視線に桐人はたじたじと後退ると、さっと手を上げた。


「じゃあ、俺、用事あるから!」

「って、あ。ちょっと、桐人!? 用事って何よ!?」

「色々!」

「答えになってない!」

 

 お茶を濁しながら立ち去ろうとする桐人を花耶が問い詰めるために呼び止めるが、桐人は構わず走り去った。


「――熱中症にならないようにな!」

「はあ!?」


 最後に予想の斜め上の気遣いまで投げかけられて、花耶は混乱で叫んだが、構わず遠く小さくなっていく白い背中に、最後には閉口した。


「……なんなのよ、それ」









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る