24.
万葉の記憶に残る『夜咲』という人物は、おだやかで愛くるしく、芯のしっかりとした少女だった。まだ遊女として、『半楼』という名で働いていた万葉付きの禿でもあった彼女は、だが、同時に裏町にはどこか不釣り合いにも見えた。少なくとも、万葉があの色町を去るまでは――。
「お蝶さま……?」
挨拶を済ませ、『お蝶』と名乗った人物はしばらく万葉を呆けたように見つめると、蛇帯に呼びかけられて困ったように苦笑した。
「――ああ、いえ。不躾にごめんなさい」
じっと万葉を凝視していたことを謝罪すると、お蝶は嫋やかに笑った。
「なぜかしら。どこかでお会いしたことがあるような気がして」
その発言に万葉は何の反応も示さず、ただ相手を見返す。
「佐々木、万葉様ですわよね?」
「ええ、そうですが」
確認するような声色に、万葉は淡々と返した。お蝶は眉尻を下げながら問いかける。
「以前にも、何処かでお会いしたことは?」
「いいえ」
――こんな美しいお方。一度、目にしたら忘れるはずがないわ。
白々しくも、万葉はそう答えた。確かに面識はあるはずなのに、正直に認めないのは様子を見るためか、或いは何か考えがあるためか。とにかく万葉は、嘘を突き通すことにした。
『夜咲』という少女は知っているが、確かに――万葉は『お蝶』という人物を知らないのだから。
♢♢♢
一方、その頃。
先ほどまで万葉たちが拘留されていた椿邸の大広間には、未だ取り残されたままの
「……で、搗山さん。こいつ、どうしやす?」
「ああ、そうさなぁ……対した情報を持ってねぇようだしなぁ」
――え、なに。この状況。
じーっと、こちらを凝視する強面の男と背丈の高い赤マフラーの男の前で、からかさは呆然としていた。
土御門春一が桐人を迎えに来たまでは良かった。万葉がこのまま椿会に残るのも、まあ、良しとは言えないが、事情が事情だ。致し方ない。
だが、これはどうだ。
何故、実質無害であるはずの自分が未だにこの危険地帯に居るのか、からかさには分からなかった。
(え、まって。まって。まって)
――平たくいうと、からかさは忘れられたのだ。
それはもうキレイさっぱりと。一片の残り粕もなく。
からかさは全員に存在を忘れられ――そうして、今、やっと邸内に戻ってきた搗山に認識をされたところだった。
「こ。これで分かりましたでしょう!? 私は本当に何も知りませぬ! どうか、片瀬殿と一緒に私の解放を――!!」
戻ってきた搗山たちに長いようで短い尋問をされたからかさは、彼らの重い視線が外れると、己の人畜無害さを必死にアピールしようとしていた。
「生憎だがそれを決めるのは、わしらだ。」
だがずっぱりと搗山に切られ、しおしおと項垂れる。
そんなからかさの様子を、搗山は耳を穿りながら観察すると、とりあえずからかさの利用価値を考えてみた。
「確かに、何の情報源にもならねぇだろうが、あの佐々木への人質にはなるんじゃねぇの」
果たしてあの女性が、搗山たちのありきたりな脅しに屈するかは謎だが、試してみる価値はあるかもしれない。そう思った搗山はひとまず下ろしていた腰を上げようとするが、横に立つ赤マフラーの男によって止められる。
「……搗山さん」
「どうした、塗り坊?」
「それ、さっき別の組員が脅してみたんですが……」
――ああ、あの傘ね。煮るなり焼くなり、好きにどうぞ。
「……一片の欠片も、興味がない顔をしていました」
「おい。おまえ、本当にあの姉ちゃんの連れか?」
「うわぁぁぁぁぁああああ!!」
からかさが泣き崩れた。
どうやら彼にとっては相当ショックなことだったらしいが、搗山にとっては案の定としか言えないものだった。
この傘には『佐々木万葉の連れ』というよりは、片瀬桐人と呼ばれたあの『少年の連れ』という表現の方がしっくり来たのだ。
(――しっかし、あの女)
長い間、『裏』で生きる者として様々な妖も人も見てきたが――。
(見事な、どす黒さだったな……)
どす黒い、というよりは深い闇――まさしく深淵というべきか。
本当に、何もない。空虚な瞳だった。
長年、ありとあらゆる人種と妖種を見てきた搗山ではあったが、あのような得体の知れない女を見たのは初めてかもしれない。
一体、どのような人生を生きればあのような眼ができるのか、搗山は知りたいようで、知りたくないような気持ちを抱いた。
「搗山さん。こいつも一応、佐々木万葉と同様に『部屋』に入れておきますか?」
「いや……佐々木の方へはお蝶様が顔を見に行っているはずだ。こいつは、一応帰しておいてやれ」
「良いんですか?」
「見たところ、この傘は本当に何の役にも立ちそうにねぇしな。気になるんなら手綱をつけときゃ良い」
陰察庁を動かすにしろ、何にしろ、『佐々木万葉』があれば、この事件の山は十分に揺らすことが出来るだろう。
塗り坊との会話で最終的にそのような判断を下した搗山は壁際に控えていた組員へ振り返ると、からかさの面倒を任せた。
「おい、お前ら。こいつを外まで案内してやれ」
「はい」
まだ下っ端なのだろう。
他の組員と比べて威圧感が左程感じられない二人組の妖は搗山の指示に従うように、からかさの背中を押した。
静かな広い廊下を二頭の妖の間に挟まれながら、唐傘は玄関へと歩みを進める。
だがしばらくするとブルりと震え上がり、からかさはビクビクと怯えたように眼前を歩く蛙頭に、声をかけた。
「……あ、あの」
「なんだ?」
「……そ、その前に、お、お手洗いをお借りしても宜しいでしょうか?」
長時間の緊張から解放された反動か、からかさは非常に大きな尿意に見舞われていた。
♢♢♢
「――はぁあああ……」
意外と近くに設置されていたらしい手洗い場に唐傘は案内されると、駆け込むようにそこへと入室した。
傘の中の構造がどのようになっているのかは不明だが、どうやら排出行為は出来るらしい。
用を済ませたからかさは丁寧に手を洗い、個室を後にしようとするが、ふと思い詰めたように立ち止まった。
『――ああ、あの傘ね。煮るなり焼くなり、好きにどうぞ』
どうやら、本当にそう言ったらしい万葉の発言を、からかさは切なさそうに思い返していた。自業自得であることを忘れているのか、或いは、覚えている上での図々しさかは定かではないが――とにかく、からかさは万葉の発言にダメージを受けていたのだ。
(――好きにしろ、とか。それ、どんな放置プレイですか……)
いや、確かに自身の今までの言動を顧みれば仕方がないことかもしれないが、それでも見捨てる、とか……この先、何があっても万葉に助けてもらえる気がしなくなった唐傘は、更に傷ついたように深く項垂れた。
先ほどは、あの蟲に寄生された《鬼》から守ってくれたというのに――。
(これから、一体わたしはどうすれば良いのか)
このまま万葉に頼まれた調査を続けるべきか、続けるとして、どう【椿会】の監視を擦り抜ければ良いのか――できれば桐人と合流して、相談したい。
とにかく今はここから出ようと、からかさは動いた。が、すぐに外でからかさを見張るように待機していた組員の話し声が聞こえてきて、立ち止まる。
「……しっかし、『
「それを言ったら、『
「志戸って、あれだよな。確か、一本角の赤鬼……うへぇ、きもちわりぃ。頭おかしいんじゃねぇの?」
「可笑しいから、御法度破って薬の売買なんてしてたんだろ? 岸松もあどけない顔して、よくやるよな……」
「ほんとに、二人とも何処で逃げ回ってんだか。特に志戸なんかもう殆ど理性も残ってねぇんじゃねぇの?」
「だったら何処かで暴れまわって
「まだ理性は残ってるってか……あれだけこの町を荒らしておいて、ふざけやがってっ。見つけたらタダじゃあ置かねぇ……」
「……」
物騒な会話に、からかさは何か引っかかる点を見つけたのか、難しい顔をした。
「……あかい、おに?」
不意に、街でからかさたちを襲った鬼の姿が脳裏に蘇る。
一本角の、赤鬼……それは、まるで。
(あの、鬼)
まるで、からかさたちを襲ったあの鬼の様だ。
あの鬼も、確かに蟲に寄生されていた。
からかさは考え込むように地面を見つめた。
(もしや、あれが志戸――?)
♢♢♢
一方、その頃。
場所を戻して、万葉が滞在している『客室』。
そこには、何故か食事を共にする『お蝶』の姿があった。
「――お味は、如何ですか?」
向かい合うように座って、箱膳を箸でつつく二人の姿は異様に見えて、どこかしっくり来るものがあった。
予想外の、異質な状況に万葉は黙々と箸を進めながら、頭を悩ませた。次いで眼前の食事をじっくりと観察してみる。
黒漆の箱膳には、艶々と光る白いお米に、きれいな焼き目がついた魚。香ばしい匂いを放つ揚げ豆腐に、丁寧に盛り付けられた色とりどりの煮物が飾られていた。
実に見目麗しく、食欲を駆り立てる光景だ。
素直に目の前の料理を称賛してみる。
「ええ、美味しいです」
「それは、良かった。うちの組はね、あんな破落戸ばかりですけれど変に器用で料理上手なの」
「――へぇ」
あれらがコレを作ったのか。それは、また随分と面白そうな話だ。
ごつい顔をした妖たちのエプロン姿を思い浮かべて、万葉は悪戯気に笑った。
そしてふと、強い視線を感じて、顔を上げる。
「……あの、私の顔に何か」
視線の主はやはり『お蝶』だった。
室内の壁際に控える蛇帯は――どこが頭部になるのかは分からないが――終始顔を伏せたままだ。
ぼんやりと此方を眺める『お蝶』に、万葉は首を傾げた。
「ああ、ごめんなさい。いえね、貴女の顔があるお方にあまりにも、そっくりで」
「ある、方ですか」
「実はね」と、懐かしむように目を細めて、お蝶が笑う。
「佐々木さんって、昔わたしが勤めていた座敷の姉さんにそっくりなの」
「へぇ……」
――であろうな。
内心ではそんな感想を抱きながら、万葉は相変わらず知らぬふりを貫き通していた。
それを露知らず、お蝶は昔話に思いを馳せている。
尋問どころか、会話が既に歓談のようなものになっている事態に、万葉は疑問を抱きながら言葉を重ねる。
果たして、お蝶は万葉の嘘に気がついているのかついていないのか。彼女が何を考えているのか、万葉には判断がつかなかったのだ。
「座敷の、ねぇさん……ですか。お蝶様は、初めからこの椿会に居たわけではないんですね」
「あら、もしかしてご存じなかった?」
俄かに驚いたように、お蝶が白い指先を口元に当てた。
「ここらでは一時期、【裏吉原】の
「それは、また随分な言い方ですね」
「事実がどうあれ、実際に私が吉原出身の女であることには、変わりありませんから」
「……」
相変わらず知らんぷりをこの話題でも突き通しているが、噂は確かに万葉の耳にも届いていた。
【椿会】の先代がある日、廓から一人の遊女を身請けし、後継者としたのは有名な話だ。当時、町の多くの妖から反感を浴びて、様々な騒動が起きていたことも知っている。
だがその騒ぎも、お蝶の手腕か、或いは別の誰かによる仕業か、何時の間にか沈下していた。組員から新しい頭領に対する反感の声さえも消えていたことには、万葉も驚いたものだ。
万葉の知る『夜咲』という少女は、芯のしっかりとした娘ではあったが、決して強いわけではなかった。
あの色町を生き抜く強かさは身に着けつつあったが、荒くれ者たちに立ち向かう度胸も、技量も無かったはずだ。
(当たり前だけど……色々あったのは、私だけじゃない)
目の前に座る『お蝶』には過去の面影はあっても、もはや万葉の知る『夜咲』ではなかった。
幼くあどけなかった少女は、嫋やかな女性へと変化していた。
だが、決して威圧感があるわけでも、緊張してしまうような粛然とした雰囲気を纏っているわけでもない。
ふと、気を抜いてしまいそうなポヤポヤとした空気を、『お蝶』と呼ばれる人物は放っていた。それこそ、どんな堅物も油断してしまいそうな……気がついたら、背中からぶすり、なんてありえるかもしれない恐ろしさが感じられるくらいには。
(……これは、正直に話すべきか。やめておくべきか)
万葉は悩んだ。
『お蝶』に自身の正体を明かしたとして、それが事態を好転させてくれるわけではない。
彼女が万葉を慕ってくれていた過去があるとしても、それは既に二百年以上も昔の話だ。昔、世話になった先輩だからといって、「はい、そうですか」と万葉の身の潔白を信じてくれるわけではない。
ましてや、相手は《会長》という重大な立場に居る者だ。少なくとも万葉が知る限り、責任感が強かった彼女が、万葉の言葉にやすやすと耳を傾けてくれる可能性は、全くと言っていい程に無かった。
(……でも、情には厚い子だったしなぁ)
どうにかこの『僥倖』となりえるかもしれない偶然をうまく利用できないかと、万葉はもんもんと考えた。
すると、万葉を思考の海から引き戻すようにお蝶が溜息を洩らした。
「……でも、佐々木さんは本当にあの『半楼ねぇさん』ではありませんのね」
吐息交じりの声は、ほっとしたような、がっかりしたような、どちらとも取れるものだった。
「……その『半楼ねぇさん』というのは、お蝶さんと随分と仲がよろしかったようですね」
「そうねぇ。私はあの方付きの禿でしたから、それは随分とお世話になったわ」
「へぇ」と万葉は再度白々しい相槌を打った。
やはりというか、『お蝶』のこの反応は万葉が『半楼』では無かったことをガッカリしているように思えた。
この《縁》を、どうにか大きな一手として使えないか、万葉は再び思案に暮れる。
そんな万葉の内心など露知らず、お蝶は呑気にお茶のお代わりをしていた。どうやら、急須の中身が切れたらしい。
「あら、お茶が切れてしまったわ。蛇帯、お茶のお代わりお願いできるかしら?」
「はい、ただいま」
そう言って、蛇帯は二人を置いて、急須の中身を交換するために部屋を後にした。襖は室内で異変が起きても直ぐに分かるように開けっ放しにし、他の組員も護衛の様に端に座って控えている。
「――でも、本当に良かったわ」
ふっと、お蝶が心底安心したように言葉を紡いだ。
緩やかな空気を漂わせる彼女へ、万葉は再び食事から視線を戻す。
「『蟲喰い』で、同じ顔をしているから、まさかと思ったのだけれど……人違いのようで、本当に良かった」
(……まあ、そうでしょうね)
久しぶりに会えた元上司が、「不審者」として目の前に現れたら誰だって戸惑うし、困るだろう。しかも、街を脅かしている容疑者の可能性もあるのだ。
それが、自身が昔慕っていた相手だったら、猶更かもしれない。
さて、本当にどうしたものかと万葉は嘆息を吐きたくなった。
そんな、気を抜いた一瞬の隙に、室内に爆弾が投下される。
「もし、本当に『ねぇさん』だったら私――立場を忘れて、お客様のど
「……は、」
ざわりと、殺気が一瞬、万葉の背を這った。
思考が一拍停止する。
そうして、表面で笑顔を保ったまま、万葉は内心で己に問うた。
――あれ……何か、物騒になっていないか?
なにやら雲行きが、更に怪しくなってきた気がする。
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