6.

 三週間ぶりに佐々木万葉が登校したからと言って、別に何かが起きるわけではない。

 何故なら万葉は毎日学校に居たということになっているのだから。だから誰も騒がないし注目もしない。


 既に『片瀬桐人』と『風間菜々美』という餌があるから、皆の興味は自然と其方へ行くだろう。

 ついでに付け足すのなら、しばらく休んでいた土御門春一も今日復帰している。ならば何の話題性もない地味な女より、彼奴の方へと人が集まるのも道理。

 つまり、万葉は「いつも通り」なのだ。

 いつも通りの日常。誰とも関わらない静かな時間。あの少年と過ごした時間がまるで嘘のように、以前と変わらない時を彼女は過ごせている。


 授業も何事もなくいつものように進み、終わる。監視か威嚇か、鬱陶しい視線が時折、万葉に突き刺さりはしたが、これといった変化はない。

 土御門からなんらかの聞き込みをされることを危惧していたが、そんなこともなく放課後のチャイムは鳴り、万葉はいつも通り図書館へと顔を出すことが出来ていた。


 好きな本を取って、カウンター席で読み耽る。そんな平穏な佐々木万葉の日常が始まる――はずだった。

 だった、のだが。


「――ねぇ、これは何かしら?」


 にっこりと笑う女の視線の先――其処にはと、が鎮座していた。



 ♢  ♢


 遡ること三十分ほど前――午後三時十五分。

 授業が終わり、部活がある勝久と風間とそれなりにじゃれて別れた桐人は、一人図書館へと向かおうとしていた。

 帰宅部であるはずのいつもの桐人なら既に帰路を辿っているはずなのだが、今回は寄り道をしようと足を進めたのだ。

 あと二週間で期末テストが始まるのである。三週間も学校を休んでしまった桐人は、友人からノートだけではなく、教師からも周囲に追いつくための課題とプリントをいくつか用意されていた。おまけに「読んだら代わりに図書館に返しといてくれ」と押し付けられた参考書付きだ。やっと平和な日常に戻れたかと思ったらこの始末。入院生活からやっと解放された少年にとっては実に憂鬱なことである。

 家で勉強をしても良いが人の気配もなく、どことなく緊張感のある図書館でノートを広げたほうが集中できるだろう。本を返したついでに其処でしばらく時間を過ごすのも良い。ただ一つ、懸念があるとすれば――「図書館の君」と呼ばれている佐々木万葉がいるかもしれないことである。


 桐人自身には特に他意はない、つもりなのだろう。図書館の本を返すという正当な理由もある。だがその実、昨日の佐々木万葉の様子が彼の頭からこびりついて離れなかったらしい。

 実際問題、土御門の目もあるので熱りが冷めるまで彼女と接触しないほうが良いのだが、それでも桐人は足を進めていた。けど、迷ってもいる。彼女に会うつもりはないが、それでも彼女に忌避される可能性だってあるのだ。それほど自身が厄介ごとになっている自覚はあった。

 ……けど、ちょっとだけ。ほんの少しの好奇心が、彼女の昨日のあの笑顔の意図を確かめたいと疼いている。

 だって、太陽のような笑顔を浮かべていたんだぞ。あのひねくれにひねくれた女性が。「ビッチ」と女の子に第一声をかました女性が。今まで冷たい笑みと悪魔のような笑みしか浮かべてこなかった女性が。

 嫌な予感しかしない。だが、このままこの気持ち悪い違和感を無視することもできない。

 会って話はしない。居なかったら居なかったでそれで良い。ただちょっと様子を確かめてあとは自分の勉学に励むだけである。

 そう自分に言い聞かせて数十秒、ピタリと桐人の足が止まった。


(うん――やっぱり、やめよう)


 図書館の入り口を前にして、くるりと方向転換した。

 先のことを想像してみたがやはり良い予感はしないし、怖いので会うのは遠慮しておこう。万葉が当番ではない日を風間に確かめてから向かった方が良い。彼女に会っても絶対に良いことはない。自分の精神を削られる、だけな気がする。

 万葉と過ごした短い期間の間で培われた勘に従って、桐人は最後の最後で彼女との接触を避けることにした。触らぬ神に祟りなしだ。


 「怖気づいた」ともいえるその決断を決行するように桐人は昇降口へと向かおうとした。瞬間――。


「かったっせどのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

「……」


 開かれた廊下の窓の向こうから、出来れば聞きたくなかった雄叫びが桐人の耳元まで届いた。

 遠くに土埃を上げる赤い影が見える。なんの感慨もなく少年はとりあえず目の前の窓を閉めた。が、それは何の足止めにもならず、相手は一メートルほどもう一つの離れた窓から飛び込み、そのまま廊下の壁に激突した。


「……」

「っ……」


 無言。能面のような顔で少年は顔を打ち付けて床に転がる傘を黙って見つめた。ふるふると身悶えながら赤い物体がのっそりと起き上がる。とたん、ソレが急激なスピードで桐人へと突進しようと飛び跳ねた――ちょうどその時。よほど唐傘が立てた音がうるさかったのだろう。誰かが注意をしようと、図書館から出てきた。


 だがそれよりも先に綺麗に磨かれたばかりの廊下と新調された革靴が災いして、唐傘がコケるように床を滑った。勢いよくクルクルと滑る唐傘。その遠心力で二つの腕輪が奴の腕から離れる。

 フリスビーのように宙を飛ぶ腕輪が一人の少年とその背後の影へと向かう。それを条件反射で掴もうとする二人。


 ――


 唐傘の手から離れた拍子に開いた金具が、彼らの腕に触れた途端に閉じた。

 赤い紋様が二人の腕に浮かび、糸のようなものが二つの腕輪を手錠のように繋ぐ光景が桐人には確かに見えた。


「――え?」

「――は?」


 ――そうして、状況は冒頭の台詞に戻る。佐々木万葉の太陽のような笑み付きで。

 




 

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