5.
はあ、はあ、はあ。
何処ともしれぬ薄暗い空間で、一つの影が背中に汗を掻きながら屈みこんでいた。
ふるふると震えるその人物の呼吸は荒く、興奮状態にあるのがよくわかる。
はあ、はあ、はあ。
赤い傘に飾られた一つ目は暗闇の中で血走っていた。
「――こ、これで、私も玉子さんと、」
――白魚のような手に乗る二つの真っ赤な腕輪。真紅の円は光ることもなく、只々静かに其処に座っていた。
♢ ♢
ぱちりと、万葉の意識が闇から浮上した。
目を開いた先には白い天井と丸い照明。カーテンの隙間からは微かな日差しが差し込んでいた。
「夢、か……」
ここ最近は本当に夢をよく見る。それも、過去の記憶ばかり。
はあ、と彼女の薄紅色の口から小さな吐息が憂うように溢れでた。顔に落ちる髪を搔き上げる仕草はどこか艶めかしい。
すっと音もなく万葉は立ち上がり、洗面所へと向かった。歯を磨き、顔を洗い、身支度を整える。異形であるはずのその姿は普通の人間となんら変わりなかった。
そうして白い制服に身を包み、仕上げに臼淵の眼鏡をかければ『物静かな少女』の出来上がりだ。
ソファの横に置きっぱなしだった黒い鞄を拾い上げ、居間から玄関へと向かう。が、ほんの一瞬なにかを思い出したように立ち止まると、すぐに居間と繋がっているキッチンカウンターへと足をのばす。
朝の日課、もとい朝食のようなものである野菜ジュースを飲み忘れていたのだ。
紫色の紙パックを冷蔵庫から取り出し、静かにストローで全てを飲みきる。その時間、およそ一分。
飲み終わった紙パックからストローを抜き、襟を解いてパタリとそれを平べったく潰した。空気の抜けた容器を「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」に分けられたゴミ箱へと捨てる。
今度こそ万葉は玄関に鍵をかけて、部屋を出た。燦々と輝く太陽が外界を照らしている。誰もいないマンションの廊下を歩き、エレベーターを使って七階から一階へと降りる。毎朝ホールで掃除をしている管理人の姿はまだ見えない。万葉にとっては結構なことだ。朝は誰とも話す気にはなれない。
そのままエントランスを通り過ぎ、どこかジメジメとしているアスファルトへと足を踏み出した。
カンカンカン。少し歩けば踏切の音が聞こえた。
駅へ向かう途中にある其処を万葉は一度も横切ったことがない。
音につられて其方を見る。誰もいない路線と道路。もうじき電車が通過するのだろう。
カンカンカン。耳障りな音。胸を騒がすような、なにかを予期させるような音。嫌な音。
万葉は其処を渡らない。彼女が向かう先は小宮高校。探し求めた鍵が眠っているかもしれない場所。
――さあ、三週間ぶりの学校だ。
♢ ♢
一方。
同時刻、というよりはもう少し遅めの十二時半。万葉や桐人たちがそれぞれ学校で日々を謳歌している間、一本の赤い傘がこれから一世一代の大勝負に出ようとしていた。
「お、落ち着けー。落ち着けー。大丈夫だ。大丈夫だ、私は」
「——何が大丈夫なんですかい?」
「うっふぉぉぉぉぉおおおお!?」
北府中の一角。「卵屋」の看板が飾られた店から凡そ一メートル離れた道の角で、赤い傘こと『からかさ』は何に対して緊張しているのか、大袈裟な動作で深呼吸を繰り返しながら、胸らしきところを押さえていた。
その明らかに不審者としか思えない背中に、白い鉢巻を頭に巻いた『たぬま』が声をかける。
「び、びびびび、びっくりさせないでくださいよ、たぬま殿!」
「はぁ、そりゃ、すいやせん……で、こんなところで何してたんですかい? からかささん」
「べべ、べつに何も……!」
「——玉子さん」
ボン、とからかさの真っ赤な顔が爆発した。どうやらたぬまは奴の目的を既に読み取っていたらしい。赤い傘の一本足を流し見ると、珍しくもヒールではなく黒い革靴を履いていた。しおしおとからかさは縮こまると、ゆっくりと震える唇を動かした。
「そ、その……今日はこれを」
「ほぅ。随分と綺麗な腕輪ですね。その赤いのは漆ですか?」
「ぺ、ペアもので……これを一度つけたカップルは、永遠に結ばれるらしいです」
「へぇ……」
生まれた時から赤面した姿でいるからかさはテレテレと身体をくねらせながら、その両手に収まる赤い腕輪を眺めた。
「うまくいくといいですね……プロポーズ」
「ぷ、プロポーズ……!?」
「あれ、違いやしたか? てっきり指輪の代わりにその腕輪を用意したのかと」
「あ、い、いや……! たまたま、骨董屋で見つけたものでですね。そんな大したものでは……! た、ただ玉子さんに似合うかと」
「なるほど」
「た、たぬま殿は何故ここに?」
「最近、作った新メニューでね。ちょいと卵屋に相談があって来たんでさあ」
「な、なるほど」
「……」
「……」
「いかねぇんですかい?」
「へ!? い、いや……その、えと」
「早くしねぇと、店が混み始めて、玉子さんと話せなくなりやすよ」
「……っ」
「
「そ、そうですよね……わかりました!
「変態」と書いて男と読むたぬまの言葉に、あっさりと素直にコクコクと頷くからかさ。いつにも増して圧のあるその意気込みように「本気なんだな」と、何故か微笑ましい気分でたぬまはからかさにエールを送ってやった。ぐっと、からかさに向けて拳を掲げると、了解したように付けまつ毛のない一つ目が釣り上がる。
そのままからかさは若草色の暖簾がかかった店へと歩みを進めた。戦地へと向かうようなその勇ましい姿を、鉢巻を頭に巻いた狸が陰からソッと見守る。
どくりどくり。あるのかさえも分からない赤い傘の心臓が耳元まで聞こえてきそうなほど、強い鼓動を刻んでいる。目指す先は、丸い形をした影。球体のような身体に白いエプロンを纏った妖――玉子さんだ。
ごくり。緊張で乾いた口内をからかさは唾で潤した。そしてすっと、息を吸ってそのまま飲み込む。
――いけ。と、狸が赤い傘の背後で鋭い
そのメッセージが届いたのか、赤い傘がカッと目を吊り上げながら声を張り上げた。
「た、たまこさっ――!」
心なしか上ずってしまった声が溢れでた、その一寸先——ひらりと裾の長い布がからかさの目の端で靡いた。
「やぁ、玉子さん。今日の日替わりランチは何かな?」
「あら、
ぴしり、と空気に亀裂が走るような音をたぬまは、確かに聞いた気がした。卵屋の入り口で呆然と立ち尽くす、からかさ。その視線の先には真っ白な球体に絡みつくように纏わりつく、
「……」
「か、からかささん」
唖然。ただその一言に尽きる。
淡い恋心どころか、言葉さえも失ってしまったように思える傘を、たぬまはハラハラと見守った。
「お、落ち着いてくだせぇ、からかささん。まだ決まったわけではありやせん。捕食するかのように蛇帯は玉子さんに絡みついてますし、玉子さんも相手を許していやすが――所詮はピラッピラの布切れ。アレは蛇のような肉食類ではなく、蛇のようにただ動いて喋るだけの帯です。服です。物体です。どんなに足掻いたって化け狸の玉子さんの、服にしかなれやせん」
「……」
一生懸命にからかさを慰めようと言葉を紡ぐたぬまではあるが、その言葉の数々が彼奴にとどめを刺していることに気づいていない。……随分とテンパっているようだ。
不意に、からかさが口を開く。
「たぬまさん――わたしは、傘です」
「へ、へぇ……」
あ、しまった。と肩を跳ねるたぬま。からかさはその佗しそうな背中を向けながら言葉を続けた。
「それも、現代の洋傘のような洒落た模様も無ければ、触り心地の良い布地もない、紙と竹で出来た番傘です」
「へぇ……」
「重いです」
「へぇ……」
「心も身体も」
「――うん」
我知らず「重い」という単語に力強く同意してしまった化け狸を、きっと誰も責めることはできないだろう。
からかさの、ふっくらと艶のある唇が、小さく震えた。
「……っそれでも、」
ポロリと、一滴の雫が大地へと伝い落ちる。
「それでもっ……わたしは、どんな冷たい雨からも彼女を守る傘になれたら、とっ」
「からかささん……」
「ふっっ……ぅ」
鳴咽が漏れる。ボロボロと泣きながら、からかさは俯いた。
うっうっうっとヒクつきながら、店の前に佇む背中が崩れ落ちるように曲がる――そして、
「——っか、」
ぶわりと——傘が拡った。
「かたせどのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「からかささん!!」
野太い雄叫びは卵屋の中にまで轟き、驚いた玉子が振り向くのだが、そんなことなど梅雨知らず、からかさはそのまま何処かへと猛突進していった。
この後、彼が何処へ向かったかなど、最早聞かずとも分かるだろう。
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