4.すみませんでした。

 事件から、半月。


 蟲を取り除かれた朽木はあのまま気を失い、陰察庁おんさつちょうという組織に一時的に保護されていた。無理やり蟲を剥した拍子にか、或いは土御門に何か術を施されたのか、憑りつかれていた間の朽木の記憶は曖昧となっているようだった。土御門により、あの妖事件は無かったことにされている。


 半壊していたはずの図書館も陰察庁の力か、誰にも気づかれることなく翌日には元通りになっていた。と言っても外観は直ったように見えて、実際は何ヵ所かはやはり作業が間に合わなかったのか、古くなっていた本棚が幾つか壊れたという理由で二日ほど出入り禁止になっていたが。


 何も覚えていない様子の朽木は事件前と変わらない健康的な日常を過ごしているそうで、顔に以前あったような陰りは無い。

 その代わり――。


(あの下種野郎が務めてた学校の評判はガタ落ちだけどね……)


 校庭の長椅子の上に腰かけながら、パサリと新聞紙を投げ捨てた。

 紙面一杯にはどこぞの腐れた党の政治家と、その息子の写真が載っている。


 あの最低野郎の教師はつい最近、懲戒免職になった。

 理由は言わずもがな、彼奴が過去に起こした行為が露見したことにある。


 そのお蔭でマスコミが奴が務めていた学校まで押し掛け、先週は大騒ぎになっていたようだ。生徒たちの保護者からも問い合わせが殺到し、校長は監督不届きとのことで辞職することになり、学年主任も減給。

 同じ新宿区の学校だったということもあり、彼方此方で我が校の生徒たちにとって格好の話題となっている。


(……意外と早かったな)


 一つ断っておくと、私は何もしていない。

 あの教師を断罪するのに必要な写真や記録は全て、こっそりと朽木に渡しはしたが、それをどうするかを決めたのは彼女だし、行動を起こしたのも彼女だ。


 優秀な探偵に化けて彼女の前に現れた時、最初は警戒をされていたが演技の賜物か、或いはそれほどに彼女が復讐の好機を渇望していたからか、写真一枚を見せれば、なんの躊躇いもなく食いついてきた。

 あまりにもスムーズに事が進んでしまったもので、若干、彼女の警戒心のなさに不安を抱きはしたが。

 上手い話には裏がある、と疑いはしなかったのだろうか……。


 眉間の皺を解すように揉みながら、朽木の顔を思い出そうとしてみれば、探偵として初めて顔を合わせた時の光景が、ありありと脳裏に浮かんできた。


(協力してもらった万屋のモグラ爺に依頼料をぼったくられたから、その分の証拠品の報酬料を脅し取るために、わざわざ変装してまで直接、接触したはいいけど……ああも必死な顔で食いつかれるとなぁ)


 結局、タダ働きをしてしまった。


 朽木が以前提出しようとした妹の遺書は、どういう訳か警察に提出する前にいつの間にか手元から消えていたらしい。他にも証拠になりそうなものを渡そうとしたが、証言も全て信憑性が弱いとして、簡単に葬られてしまったようだ。


 だが今回私が用意したものは、懇意にしている万屋があの手この手を使って、あの教師に罪を自白させた時の音声記録と、奴が隠し持っていた趣味の悪い動画という、誤魔化しようのない証拠だったので、すんなりと事を運べた。

 念のためにコピーを朽木の手元に残しておいて、警察に提出してしまえば其処からはもうあっという間だ。


(っと……噂をすれば)


 座っている長椅子の隣、校庭と並ぶ渡り廊下を歩いてくる朽木が見えた。そんな彼女を目にして、ソワソワしだす何人かの生徒が視界に映る。


 情報はどこからでも漏れるものだ。以前から朽木のことを詳しく知る生徒の仕業か、彼女の妹のことを少なからず噂する者がいた。黙って耳を傾けていれば、勝手な憶測を立て、果てには『朽木の妹の方があの教師を誘惑したのではないか』と疑いを漏らす、心無い者の声さえも聞こえてきた。


 けれど朽木は俯くことなく、前を向いて歩いている。

 転校をする、という話もあったそうだが、彼女はこのままこの高校を卒業するようだ。決して晴れやかとは言えないが、それでも凛として『何かと戦っている』朽木は堂々としているように見えた。


(まったく……逞しいのか、神経が図太いのか)


 けど凄いな、と尊敬の念のようなものを抱くと同時に、笑いのような吐息が漏れた。

 こちらへ近づいてくる朽木とその友人たちに背を向け、黙って高校を囲むフェンスを眺めていれば、背後の渡り廊下から彼女たちの声が聞こえてくる。


「ふみ、そう言えば例の探偵さん。見つかったの?」

「うーうん、全く……連絡も全然つかなくてさ。事務所にも行ってみたんだけど、いつの間にか無くなってて」

「なんか、不思議な話だね。何だったんだろうね、その探偵さん」

「というか、ちょっと不気味じゃない?」


 『急に居なくなるとかって、怖いよね』とか『まあ、確かにちょっと怪しかったし』、と言う会話が段々と遠ざかってゆく。予想通りというか、やはり報酬を貰う事なく突然消えた探偵のことを気味悪がっているようだ。

 現実は小説やドラマのようにはいかない。人間、不可解なことに会えばまず恐れる物だ。


 「まあ、しょうがないか」と二度目の溜息を溢し、そうして大分彼女たちとの距離が開いた時、微かな声が耳元まで流れ着いた。


 ――……でも、お礼、言っとけば良かったな。


 予想外の言葉に僅かに目を見開く。

 俄かに信じがたい彼女の発言をゆっくりと噛み砕きながら、組んだ足の上に肘をついた。


(いや、なんというか……)


 ――こちらこそ、殴ってすみませんでした。


 今更ながらに申し訳なさを覚えた……というよりは罰が悪くなり、掌に顎を乗せる。


 そもそも礼を言われる筋合いはない。単に気に入らないことがあったから私は行動したまでで、別に彼女のために動いたわけではないのだ。


 協力したのは、私自身があの下郎を少なからず嫌っていたのもあるし、彼女の復讐劇に水を差し、結局は私が無茶苦茶にした詫びもある。

 それに事件に巻き込まれた迷惑料は情報料なども含めて、実は既にあの講師から二、三年分の寿命を吸うことで収めていた。


(全ては、唯の自己満足でしかないのに)


 『善』などというものは存在しない。結局優しさは自己満足に繋がるから、人間は他人に優しくするのだ。


 あの時、確かに私は朽木に賛同したし、あの復讐心も悪とは断言できなかった。だが、それでも彼女の邪魔をしてしまった理由は正直な事を言うと、私が心のどこかで朽木に対しても身勝手な苛立ちを覚えていたからだ。


(家族、か……)


 沢良宜花耶が口にした『家族が悲しむ』という言葉を、ふと思い出す。

 あの時の私は沢良宜に反感を抱いていたが、同時に家族を『手放そうとした』朽木にも苛立ちを抱いていたのかもれない。


 正直な話、私が失った『もの』を、喉から手が出るほど取り戻したかった『もの』を、自分から手放そうとした彼女にふとした苛立ちを無意識に覚えてしまった。


 『まだ、残っているのに、どうして手放そうとするのか』と――。


(後から、考えてみると……本当に勝手だな)


 私は彼女に一切の優しさをかけてなどいない。私にとってやる価値があったから、やったのだ。

 だから感謝されることなど何一つ無い。


(しかし……本当にやっちゃったな)


 空を仰げば、今日も晴天。

 我ながら、あの時の自分に呆れてしまう。

 一生、沢良宜らとは関わらないでいるつもりでいたのに、結局一時の感情で事件に介入し、好き勝手やらかしてしまった自分はとんだ阿呆だ。

 放っておけば良かったものを、自分も他人のことを言えない。これではまるで、子供だ。


(だから、最低とか言われるんだろうな……というか、我ながら大人げない)


 まあ、だからと言って気にしてもしょうがないし、気にはしないが。

 無茶苦茶と言われようが、最低だと罵られようが、誰が傷つこうが、結局のところ、私の知ったことではない。


「ああ……面倒臭い」


 色々なことを芋づる式に思い出していると、不意に沢良宜たちのことを思い出して憂鬱になった。直接関わることはないが、度々、土御門には牽制もどきをされるし、沢良宜に極稀に出くわすと睨まれるし、阿魂は……まあ、相変わらず私のことなど眼中にない。


「……もういっそ、学校をやめるか」


 痛む頭を悩ませながら、苦肉の策を立てようとしていた時、ふと小さな妖気を感じた。

 なにやら物珍しく感じて、興味本位で足を進めてみる。芝生の上を歩いて行けば、妖気の出処でどころは体育館裏で、気配を消して相手の死角となっている壁の後ろから、そっと覗いてみた。


(……あ、)


 見覚えのある黒いボサボサ頭に、耳心地の良い声。

 肩幅の広い少年の背中の向こうには、少し古びた『傘』が見えた。


「うあーあ……思いっきし靴擦れしてんじゃねーかよ。ピンヒールなんて履くから……」

「何を言いますかな、片瀬殿。ヒールは足を美しく見せるための必須アイテムですぞ」

「……いや、つかお前、雄だろ」

「まあまあ。片瀬殿だって、そんな悪い気はしないくせに。ほれ、この美脚。傘から覗くチラリズム。この下がどうなっているのか、見たいとは……」

「ヒール折るぞ」

「ひィっ! そんなご無体な……!」


 なんだ、この光景は。

 なにやらバサバサの付け睫毛に、濃いアイラインが——親骨のせいか——少し歪になっている傘、――もとい――『からかさ小僧』。女も羨ましがりそうな一本足をしたそのは、赤いラメのピンヒールを、若い少年自らの手で脱がされていた。


 何か、見てはいけないものを見た気分だ。

 絆創膏を傷だらけの華奢な素足に張ろうとする少年。触れられるたびに、あられもない声を上げる傘。


(……、何かに巻き込まれたのか)


 異様な光景に呆れと共に、見覚えのある少年に同情の念を覚えた。

 そうやってボサッと見つめていたためか、こちらに気付いたからかさ小僧が声を上げる。


「むっ……片瀬殿」

「あ?」


 傘の野太い声に反応するように、少年がこちらへと振り向いた。

 すると切れ長の瞳が僅かに丸くなり、顔にあどけなさが増す。


「……あ」


 驚いたように口を開ける少年に、苦笑交じりに謝る。


「ごめんなさい。お邪魔したみたいで」

「は? ……お邪魔って」


 ちらり、と傘へと視線を促すと少年——片瀬桐人も奴へと視線を戻した。

 乱れたような格好をして器用に全身をくねらせる、からかさ小僧。情事の後を匂わせるような吐息と、一つしかない眼を熱っぽく見せる彼奴に片瀬は顔を青くし、こちらへと叫んだ。


「違う!」

「何を言いますか、片瀬殿。先程はあんなに優しく触れて……」

「お前は黙ってろ!」


 否定の声を上げる片瀬に、傘は憂いに満ちた息を溢した。芝生の上で身体をしならせる傘は悲しそうに、慌てふためく片瀬に視線を寄越し、次に私へと流すと途端に目を見開かせた。


「……あれ?」

「何か?」


 たらり、とそのろくろから冷汗が垂れるのが見える。


「長髪、眼鏡……ご婦人、まさか……」

「……」


 人の特徴を何故かわざわざ口にする傘は、何かを確認しているようだ。

 段々と先程の片瀬以上に青ざめる奴に、私は不信感を抱く。


「蟲喰い……?」


 その単語に思わず口がヒクつきそうになったが、必死に堪えて莞爾として笑ってやった。


「……そうですが、何か?」

「ひィィィィィィィィィィィっ!!」

「あ、こら! からかさ!」


 『食われる』などと悲鳴を上げながら素足で、ケンケン跳ねながら逃げ去る傘。

 目の前の少年が可哀想なほどに狼狽し、申し訳なさそうな顔でこちらへと謝罪してきた。


「本当にすみません。その、今のは……」


 もごもごと気不味そうに視線を逸らしながら、口を濁らす片瀬。

 大方、沢良宜含む彼らが私のことで何やら話し合い、偶々そこに居合わせたからかさ小僧が話を聞いてしまったのだろう。しかし、まさか『長髪』と『眼鏡』だけで自分だと判断されるとは、これ如何に。


「あの……本当にすみませんでした」

「いいえ」


 ガバリと頭まで下げてきた片瀬に、僅かに引きながらも許してやる。

 けれど、やはり釈然としなくて一瞬黙り込み。そして、丁度いいからと、この際ずっと抱いていた疑問を口にしてみた。


「ねえ、聞いて良いかしら?」

「はい?」


 質問をされるとは思っていなかったのだろう。微かに首を傾げながら、片瀬は小さく頷いた。


「なんで、あの時庇ってくれたの?」

「え……ああ、陣で囲われそうになった時」


 「あの時」と聞かれて一瞬疑問符を浮かべたが、直ぐに私の言ってることを理解したのか、少年が納得したように口を開く。が、その答えはどこか歯切れの悪いものだった。


「いや……なんでって言われても、その、何もされてないのに、あれは無いかなって……」

「あら、でもこれから何かをするかもしれないわよ?」


 一瞬、納得して。次に「甘いな」と思った。

 助けてもらっておきながら言うのもなんだが、土御門の判断は正解だ。どんなに小さな綻びでも、それは見逃してもいけないし、少しでも危険性を感じたのなら即座に排除すべきだ。いつ、どこで、何が起きるか。妖が相手の場合、尚更わからないのだから。


 まあ、それを言ったら自分の首を絞めることになってしまうのだが……この少年に対しては借りもある。


 あくまで私が今まで観察してきた限りではあるが——片瀬桐人はよく沢良宜に巻き込まれてるせいか、妖にすっかり慣れてしまっている節がある。だから先ほどもあのからかさ小僧を何やら助けていたし、他の妖にも声をかけられれば不用意に応えてしまう。


 ある意味、危険だ。陰陽師や多少の霊力を持つ人間だったならまだ良いが、片瀬桐人はその片鱗さえもない。全ての妖が『悪』だとは一概に言えないが、やはり妖は妖なので簡単に信用してはならない。


 片瀬が着ている制服のポケットにしまってあるのか——呪符の気配がする。

 見たところ、土御門から一応護身用の札をもらっているが、所詮は素人。しかも霊力の使えない人間でも使える護符だ。効力などタカが知れている。小者には効くが、片瀬が出くわす妖が全て子妖怪とは限らない。私のように、正体を偽る者だっている。


 理屈では、片瀬も今迄の経験もあって、そのことは理解しているのだろうけど、実際にこうして私と二人っきりの状態になっても平気な顔をしているので、安易に脅かしてみる。


「……何かをしようと企んでいる人が、敵を怪しませる発言をするのは可笑しいと思います」

「貴方程度の人間なら、いつでも喰らえるから」

「蟲喰いは、人間を喰わないと聞いてますけど……」


 やっと警戒心を抱くようになったらしい片瀬は、眉を顰めながら私を見返した。


「本当にそう思う……?」


 くすりと怪しい笑みを零すと、一瞬顔を強張らせた彼を見て、直ぐに肩を竦ませる。


「……なんてね。ごめんなさい、驚いた?」

「いえ……」


 冷や汗をかく彼は疲れた様な顔をした。それほど今の私は怖かったのだろうか。


 とりあえず、もう用はないと足を一歩引いた。先程の会話を片瀬が土御門たちに喋るとは思わないが、「念のため何時でも逃げられる準備を帰ったらしよう」と先のことを考える。

 だがそんな私の思考を打ち消すかのように、片瀬が口を開いた。


「あの、俺も聞いて良いですか?」

「……何かしら?」

「なんで、あの時、急にあんな考えを変えるようなことをしたんですか?」


 『考えを変えるようなこと』というのは、恐らく朽木を唐突に襲った件だろう。

 もっともな質問だな、と他人事のような思考が走る。

 要は沢良宜にあんなことを言ったくせに、何故朽木を止めたのか、と聞きたいのだろう。別に教えても良いが、その前に「少年」と、口を開く。


「なんか誤解しているようだけど、沢良宜花耶が言ったことはまあ、正論だと思っているし、一度も間違ってると言った覚えはないわよ」

「……は?」

「私は朽木文子の想いを勝手に推し量って、否定するな、と言ったの」


 そんな言葉を返すと、片瀬が呆けた顔をした。


「……いや、でも。朽木さんには『あの先生を殺したい、どうしようもない理由がある』とか言って……」

「だから、殺して良いとは言ってないわよ。まあ、あの教師は殺されてもしょうがないと思うけど」


 あっけらかんと悪びれもなく言ってやると、ひくりと彼が口を引き攣らせた。


「言ってること……無茶苦茶じゃないっすか……?」

「まあね……でも、ああもキレイごとで色んなこと否定されるとねぇ、こっちも否定したくなるというか……まあ、あれよ。それで、『キレイごと言ってんじゃねーぞ、ビッチが』って言いたくなったわけ」


 ニッコリと笑みを作りながら、言葉を返してやる。


 自分でも説明不足で支離滅裂としているのが分かるが、他に言い様がない。気のせいか、片瀬が引いているように見える。そんな顔を前にすると、ふと相手を弄りたいというか、更に困らせたいという気持ちが湧き上がってきて、面白半分意地悪半分で口を滑らせた。


「じゃあ、片瀬くん。例えばだけど、沢良宜さんが朽木さんの妹のようになったとします」

「え、」

「もし、そうなったらさ、君、間違いなくあの教師を殺してやりたいと思うでしょう?」

「……」

「それでさ、妖に魂を売ってまで頑張ったってのに、突然、赤の他人である部外者に邪魔されて、そんなことをしたって意味ないだの、虚しいだけだの、言われてさ、自分の行為全否定されたらさ、どう思う?」


 言われて、腹立たない?

 最後はあえて無言でこの質問をせず、黙ったままの彼をただ見つめる。にまにまと、意地悪な顔をして笑う自分がいた。

 だが唐突にこんな質問を投げかけられた片瀬は、私の意表を突くような言葉を吐く。


「……先輩は、花耶——沢良宜のこと、たぶん、嫌いなんですよね」

「は?」


 予想だにしなかった返答に間抜けにも口を開いてしまう。


「……確かにあいつは、考えなしっつーか、目の前のことしか考えないところがあって……無神経な発言とか、する時もあります」


 「あ、この子そう思ってたんだ」と頭の片隅で呟く自分が居た。でも何かが違うような気がして、黙って彼の言葉に耳を傾けてみる。


「実際、それで偶にちょっと……いや、かなり余計なことをしたりして、それで事態を悪化させ……しそうになったりして、でも結局何とかなってるから、そのせいで自覚が……ああ、いや、うん。駄目だ」


 恐らく沢良宜を弁護しようとしているのだが、逆に彼女を貶していることに気付いたらしい片瀬は額をおさえながら、唸りだした。


「俺はそういう目に遭ったことが無いから、実際にどんな気持ちになるのか、遭ってみないと分からないと思う。けど想像してみて、もし俺も、その復讐の邪魔をされて、頭ごなしにああいうことを言われたら『ふざけんな』って思います。

 花耶のやったことは間違っていない、けど、朽木さんがどんな思いで復讐を決断したのかとか、彼女からその復讐の機会を奪ってしまったら彼女がどんな想いをするのか、勝手に決めつけずに、考えてあげるべきだった。

 朽木さんを止めた後先のことも、考えていなかったし。そんなつもりはなかったんだろうけど、花耶は朽木さんの想いを『軽く』取りすぎていた。先輩はそれに対して、怒ってたんですよね?」

「……そうね」


 意外に的を射ている返答をくれた片瀬に、肯定の意を示す。


 先程から話を聞いていれば、私と同じような意見を抱いているようだが、やはり何かが違う気がした。私の質問の意図を理解した彼は答えをくれた後、何かを言いたそうに口を開けたり開いたりするので、黙って待ってみる。だが一向に動きそうにないので、痺れを切らして彼に喋るように促す。


「何か言いたいことがあるなら、聞くけど」


 すると、片瀬は言葉を探すように視線を泳がし、やがて吹っ切れたように真っ直ぐこちらと視線を合わせてきた。


「じゃあ、言わせてもらいますけど……先輩、キレイごとキレイごとって……前もキレイごとで回れるほど世界は単純じゃない、って言いましたよね」


 そういえばそんな事も言ったような気がすると、頷く。

 片瀬は悩むように眉を顰めると、「どう言ったら良いのか分からないけど」と頭の掻き毟って前置きをしながら、語りだした。


「……あの鈍さに怒りを覚える時もあるけど、それでも『あいつがいて良かった』って思ったりする人もいます。

 花耶は確かに鈍いけどさ、その分、自分が誰かに何をされても、相手が反省の意を見せたら簡単に許せたりして、受け入れることさえもする。

 誰かを助けるために何時だって全力投球だし、身体を張ってる。朽木さんの時だって、無神経なこと言っちまったし、後先考えてなかったけど、アレはアレで必死に彼女を助けようとしてたんだ。

 まあ、その……悪く言えば馬鹿で、良く言えば純粋なわけでして」

「……」

「花耶は先輩が前言ったような、キレイごとだらけの人間で、それが詭弁に聞こえる時もある。けど、そのキレイごとで救われる人間だっています。

 この世はキレイごとで回れるほど単純じゃないけど……俺はそんなキレイごとがあっても良いと、思う……います」


 静かに返される言葉は、冷たい水のように私の脳内を浸水していった。

 どこか歯切れの悪い喋り方をしていたが、最後には何かが吹っ切れたのか、片瀬が勢いよく話し出した。


「とにかく、誰かを助ける時って、それこそ先輩が言うように『賢い』方が良いんだろうけど、俺はああいう馬鹿も必要だと思ってます。

 賢い奴って、多分馬鹿より色々と考えたりするから、迷ったりすることもあって、行動に移すのに時間がかかりすぎたりするから……」


 そうやって自分の意見を口にしながら、片瀬は再び居心地悪そうに身動ぎをしだした。

 その様子を黙って観察していると、彼は更に言い募るように口を開く。


「……それと、さっきの先輩の言い分からすると、ちょっと分かんねーことがあるんすけど。先輩だって、なんで朽木さんの気持ちをそんなに解ってたんなら、あんな無理やり力奪うようなことしたんですか? 俺は、あんたのやったことも、どうかと思う」


 まあ、そうだわな。

 確かにその通りだが、だからどうした、と正直に思う。

 朽木の憎しみは理解できるが、それは私の知ったことではない。

 片瀬の質問の後に、少しの間をあけると、正直に答える。


「気に食わなかったから」


 私の言葉を理解できなかったのであろう片瀬は、虚を突かれたように、間抜けにも口を開いたまま、固まった。


「……は?」

「それとこれは別って話よ。彼女の気持ちはわかるけど、こっちにはこっちの事情ならぬ私情があるって話」


我ながら身勝手な理由に、引いたのか、信じられないのか、思い切り口を引き攣らせる片瀬を感慨なく見守る。


「何か?」

「……いえ、」


 つい、と視線を逸らせる片瀬の頬に冷汗が流れる。今ので相当引かれたな、と他人事のように分析する自分がいた。

 だがそんなことはどうでも良いと、先ほどの片瀬の言葉を一つ訂正する。


「あと、片瀬くん。あなた、何か勘違いしてるみたいだけど、私、沢良宜さんのこと『嫌い』じゃないわよ」

「え?」


 そう、私は沢良宜花耶のことが『嫌い』なのではない。

 不思議そうな顔をする片瀬に、優しく微笑みながら、親切にも教えてやる。


「生理的に受け付けないだけ」


 少年の面差しから表情が消えた。日が傾き始めたのだろうか、奴の顔に影が掛かる。どこか悲壮感漂う姿だった。

 その様子にどことなく満足感を覚えながら、私はもういい加減そろそろ帰ろうと鞄を取りに教室に向かう。

 だがもう一つだけ、言い足りないことがあって、彼へと振り返った。


「ああ、それともう一つ。貴方の言いたいことは解ったし、まあそうだな、と私も思う……けど、」


 ひたり、と緊張した面持ちの片瀬と視線を合わせて目を細める。


 その時の私は、自分でもどんな表情をしていたのか正直わからない。だけど、こちらを見る片瀬はどこか怯えたような、白い顔をしていた。ごくりと彼の喉が上下する。

 その音を聞き流しながら、私は今、最も言いたいことを口にした。


「無知が罪であることには、変わりない」


 瞬間、片瀬は痛いところを突かれたと言うような顔をして何かを言おうと唇を震わせる。

 だけどもうこれ以上、耳を傾ける気が失せて、私はそのまま学校を後にした。


 沢良宜花耶は確かに正義感の強い女だ。彼女のやっていることは別に間違ってなどいないし、彼女がいつだって誰かのために一生懸命戦っているのは知っている。だが、同時に彼女が無自覚に誰かを傷つけたことがあることも知っている。


 片瀬の言いたいことは解る。だが私からしてみれば、そんなもの、『だから、どうした?』という話だ。

 憎しみを、復讐心を抑えられたら、誰だって苦労はしない。どんなに時が過ぎようとも、どこにも追いやれない、消せない感情はあるのだ。


 たとえ誰であろうと、復讐を『無意味』と称し、安易にその憎しみを『簡単なもの』として片付けようとした者を、私は決して許さない。


 鈍感だからと、純粋だからといって、片付けてなるものか――。

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