12.

「……そう。随分と大変な目に遭ったのね」


 東八町亭の個室。

 其処で万葉は、桐人から、彼の身に起きた全てを聞いていた。


 座卓を四体の妖と一人の少年が囲む。

 万葉と相対するように座る少年、桐人。その真剣な面差しに、万葉は頬杖をつきながら問いかけた。


「それで、私に手を貸せって?」


 言われなくとも桐人が何を望んでいるのかなんて万葉には分かっている。

 だが、生憎だがその願いを彼女が叶えてやることはない。


「無理よ。話を聞く限りじゃ、その菜々美ちゃんは助からない。随分と形状が変化しているようだしね」


 というのは、半分嘘で半分本当だ。万葉なら蟲だけを食べて、少女を切り離すことが出来るかもしれない。最も、食した後。菜々美の肉体が元の形状に戻るかは分からないが。


 肉体の巨大化。骨格の変化。それほど身体が膨張しているのなら中身は滅茶苦茶になっているはずだ。伸びた肌も、内臓ももしかしたら中で潰れているか、膨れ上がり過ぎて破裂している可能性だってある。

 肌の色が完全に変化しているというのなら、尚更だ。


 それを一つ一つ、至極丁寧に相手にも解りやすく説明してやったのだが、どうやら少年に諦める気はないらしい。

 それどころか、何か策を練っているようにも見えた。


「ここからは……あくまで、俺の推論ですが」


 少年が、口を開く。


「あの黒っぽい蛇の身体は、菜々美ちゃんのものではないと、思います」

「……え?」


 先程の話と一転。皆の考えを覆すような言葉を、桐人は口にした。


「ど、どういうことですか片瀬殿? だ、だってあの化け物の顔は菜々美殿のものだったのでしょう?」

「……」


 『化け物の顔』。そのからかさの一言で万葉は何かに気づいたのか、眉を顰めた。

 酒をちびちびと未だに煽っていた土竜も片眉を上げながら、疑問を口にする。


「そういえば、そこまで肉体が変形していたのに……よく彼女と認識できましたなぁ」

「いえ、だから顔が彼女の顔でして」

「それにしたって随分と変形していたでしょうに」

「え……?」


 瞬間、桐人はずっと求めていた確信を、やっと今、得れた気がした。

 やはり、そうだ。己の中で立てていた仮説が見る見る現実味を帯びていくような気がした。


「そこなんだよ、からかさ」

「え……?」

「身体はあんなに変形していたのに……菜々美ちゃんの顔だけは綺麗なままだったんだ」


 土御門春一は彼女の姿を監視カメラでしか確認していなかったから気づけなかったのだろう。カメラの映像と裸眼で視るのでは全然違う。カメラには映らなかったものを桐人は確認していたのだ。そして、気づいた。ある、一つの違和感に。


 何故もっと早くに気付かなかったのだろうと桐人は己を罵りたくなったが、今はそんなことをしている場合では無い。


「そもそも、俺は菜々美ちゃんの姿をあの事件が起こる少し前に確認している。もし、もしも俺の幻覚じゃなければ、菜々美ちゃんはまだ……人間の形をしていたんだ。触手も何も生えていなかった」

「それは可笑しいですなぁ」


 老人の言葉に桐人はこくりと頷いた。

 反して、からかさとたぬまは困惑してるようだった。


「え? え?」

「あの、すいやせん片瀬さん。あっしには話が……」

「前に、陰察庁の鑑識官から聞いたことがあるんだ」


 あの、女医のような格好をした鑑識官……確か、名前は出雲といったか。

 彼女は言っていた。人間に寄生した蟲が侵食を始めるのに少なくとも一週間はかかり。侵食をし始めてから、寄生主の身体が完全に変形するには少なくとも一時間は掛かると――。


 目の錯覚だったのかもしれない。だが府中刑務所へと向かう途中、桐人が目にした彼女は間違いなく人間の姿をしていたのだ。

 だけど、一時間も経たないうちに再会した風間菜々美の身体は、異様なほどに変形していた。


「朽木さんが陰察庁に保護されたあと。陰察官の人たちが彼女の身体を検査してる間に、一回蟲に関するファイルを見せたもらったことがあるんだ」


 陰察庁の一角。診察室のような場所で――桐人は朽木の診察が終わるのを待っている間、興味本位でデスクの上に放置されていた書類に目を通していた。

 カルテと思しき紙の束に、乱雑に並べられた何枚もの写真。其処には見るにも耐えない異形の姿が幾つも映っていた。


『――ああ、それね。蟲に寄生されてた被害者よ。朽木さん以外にももう一件、あってね』


 それを聞いた時、「助からなかったのか」と被害者に同情の念を覚えたと同時に、朽木が助かったことに、桐人は安堵した。

 けれど、まず最初に桐人が受けたのは衝撃だった。人間とは、これほど醜くなれるのか、と。

 原型も何も無い。顔も手も足も、写真に写る被害者たちは、全てが変形してしまっていた。


『朽木さんも。蟲のタイプは違ったけど、そうなってたかもねー。蟲に完全に侵食された人間は本当に跡形もなく身体が変形しちゃうから』


 あの鑑識官は確かにそう言っていた。蟲に完全に侵食された人間は跡形もなく変形すると。


「それなのに菜々美ちゃんの顔は白く、元のままだった」


 そもそも根本から可笑しかったのだ。

 あれほど肉体が変形していながら、なぜ顔は元のまま保たれていた?


 彼女の顔はあの化け物の頭部に埋もれていた。そう、『埋もれていた』のだ。あの肉の塊に。

 可笑しいだろう。あそこまで頭部も膨れていたのに何故、顔は無事なのだ? 普通、顔もそのまま一緒に変形しないか? 

 そんな疑問を抱いた時、桐人は初めて突拍子もない発想に行き着いたのだ。


「あの化け物は別の人のもので。本当は、菜々美ちゃんはその身体にただ飲み込まれているだけ、というか……埋まっているだけなんじゃないかな。その、合体するみたいに……」

「飲み込まれるとは……何故?」


 からかさは混乱した。桐人の話は以前聞いていたものと――土御門春一が話していたものと全く違うのだ。

 もし、あれが風間菜々美の身体でないのだとしたら、なぜ彼女の顔がそこにある? なぜ彼女はそこに埋まっていた?


 からかさがその疑問を露にした時、桐人は歯切れ悪く答えた。


「その、パ、パワーアップに、とか……」

「……」


 もごもごと口籠る桐人に、万葉は呆れたように溜息を吐いた。


「小説や漫画の読み過ぎね」

「っ……」


 つまり、あれだ。桐人は、あの『蟲』が他の蟲を飲み込み――或いは仲間と合体することで力を増していっていると言うのだ。

 白けた視線を送る万葉に、桐人はグッと息を飲んだ。だが、めげない。


「けど、今思い返せば思い返すほど可笑しいんだよ……菜々美ちゃんの顔以外に、あの身体の下には別の手足が埋まっていた」

「それは彼女の手足が、顔と同じように限界を留めて残っていたのでしょう?」

「女の子の手にしてはゴツゴツしてたんだ!」


 そうだ。あの手は女性のものではなかった。記憶にある彼女の手より一回り大きく、武骨なもので――桐人には、男の手に見えたのだ。


 あれは、菜々美とは別の人間のものではないのか? 彼女とはまた別に、飲み込まれた人間が居るのではないのか?


「それに、阿魂があの化け物の後を追おうとした時、別の蟲がタイミング良く飛びかかってきたんだ」


 あと少し、阿魂の手が奴へと届きそうな時にタイミングよく別の蟲が現れた。まるで、あの化け物を守るかのように――。

 桐人はそのことに関しても引っ掛かりを覚えていた。あの『化け物』は、実はこの事件に関して重要なカギを握っているのではないか?


 この蟲事件の一連は繋がっている。そしてその繋がりには、きっと何か大きな意味があるのだ。

 大量の蟲が発生された意味。それを使って誰が何をしようとしているのか。桐人は、その核心に触れようとしていた。


「ありえない話ではないですな……」

「土竜殿?」


 ぼそりと溢された呟きに、からかさが反応した。

 目の前の老人が思考へと耽るように腕を組む。


「その昔――二百年ほど前ですかな。村が三つほど潰された事件がありましてな」


 まだ土龍が若かった頃。日本全国を旅していた時、彼は一つの噂を耳にしたことがあった。


「何でも、それが下級の妖であるはずの『蟲』の仕業だと言われていたのですよ。蟲を退治したと言う僧侶の話によると大きな蟲が一体。そこに集うように他の小さな蟲が群がり、徐々に一体化して成長を促していたのだとか」


 ――正しく、女王蜂へと栄養を届ける働き蜂。


 蟲と対峙したその僧侶は、その光景を見て、ぞっとしたと言う。

 幸い、『蟲』が手に負えぬほど成長する前に倒せたというが、あのまま成長させていたら村どころか国一つ潰されていたのではないかと、男は恐れるように言った。

 あの『蟲』がなんなのかは分からない。だが決して成長をさせてはいけないと、僧侶は語っていた。

 最も、『蟲』が仲間と同化して成長するなどと言う馬鹿げた話を、誰も信じてはいなかったが。


「もしかしたら、本当に存在していたのかもしれませんねぇ……その成長する蟲。似たような話が呪術としてもありますし」

蠱毒こどくか……」

「あれは『蟲』ではなく、普通の虫を使うものでしたがな」


 思い出したように、万葉は吐息を漏らす。


 古代中国において、広く用いられていたとされる呪術。どのくらい昔から用いられていたかは定かではないが、殷・周時代の甲骨文字から蠱毒の痕跡は読み取られている。


 例えば古文書『隋書』にはこんな記述がある――「五月五日に百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせ、最後の一種に残ったものを留める。蛇であれば蛇蠱、虱であれば虱蠱である。これを行って人を殺す」


 要は壺などの閉じた空間に、ありとあらゆる百種の虫を閉じ込め、共食いさせ、最後に生き残った者を呪詛の媒体に用いると言う、なんともえぐい呪術だ。


 なるほど。確かに桐人の仮説はそれと何となく似ているし、もし本当にそうだったとしたら大変だ。蟲がお互いを喰らい合うことで、どういう結果を招くのかは知らないが、嫌な予感しかしない。


(だとしても、陰察庁もそれほど馬鹿じゃない)


 あの組織なら、ソレに逸早く気づいて、解決の目途を立てているだろう。もちろん――飲み込まれたその『蟲』を始末することで。


(まあ、その前に『神の欠片』は回収するだろうけど……蟲に成長されたら堪らないから、形振り構わず一息で滅するんだろうな)


 そしたら、風間菜々美も否応なく一緒に消されるだろう。

 そんな残酷な予想を立てながら、万葉は桐人へと問いかけた。


「それで。もしも事が君のその推測通りだったとして……どうするつもりなのかしら?」

「まだ間に合うかもしない。風間菜々美をあの化け物から引き離します」

「どうやって?」


 そもそも風間菜々美には、『その化け物』とは別の『蟲』が寄生しているのだ。

 随分と時間が経っているようだし、結構な範囲まで侵食されているはずだ。助かる可能性は限りなく低い。


 それが無くとも、菜々美がどういう風にその化け物とくっついているのか分からないのだ。

 もしかしたら『蠱毒』のように喰われているのかもしれないし、桐人の願い通りその肉体にただ埋まって、栄養だのなんだのを提供しているだけなのかもしれない。しかし、埋まっていたとして――。


「顔だけが無事なのは知っているけど。埋まっている身体がどうなっているのか、君、知らないんでしょう?」

「……っ」


 痛い指摘に桐人は唇を噛んだ。


「無事じゃないかもしれないわよ。最悪の場合、君が思っているように埋まってるだけじゃなく、既に同化しているかも」

「……」

「それに彼女自身、顔が黒ずみ始めていたのでしょう?」

「それは……」

「それはその『化け物』とは別に、彼女自身に寄生していた蟲が侵食を始めた証拠。もう結構な時間が経っている。大分侵食されているはずよ」


 万葉の言葉に、桐人の顔が段々と歪んでいく。

 それを、からかさとたぬまがオロオロと見守っていたが、そんな二人の困った様子など露知らず、桐人は黙って思考した。


 瞼の裏を過るのは、少女――菜々美の顔。

 万葉の言うとおり、彼女の肌は少しずつ黒ずみはじめていた。朽木文子の時と同じだ。


 最悪なことに、あれから随分と時間が経っている。

 それだけじゃない。桐人の話はあくまで唯の推測でしかなく、寧ろ突拍子のない話なのだ。本当にそうなのかもしれないし、実際には違うのかもしれない。

 もしかしたら、もう既に遅いのかもしれない。


「……それでも」


 それでも桐人は思考する。諦めたくない。何もせずに終わりたくない。何故なら。


「可能性は、ゼロじゃない」


 少年の黒い眼が、目の前の女を真っ直ぐに射抜いた。


「佐々木先輩にこんなことを頼むは筋違いだと分かっています。それでもお願いしたいんです」


 そう言って、桐人は、ゆっくりと頭を下げてゆく。


「お願いします。俺に、手を貸してください……風間菜々美さんの蟲を、取り除いてあげてください」


 万葉へ向けられた黒い旋毛頭。

 それを万葉は感慨無く見つめると、面倒くさそうに口を開いた。


「無理よ」


 その無情な言葉に、少年は思わず顔を上げる。


「私はただの蟲喰い。蟲を取り除く妖怪では無く、喰らう妖怪よ。そんな状態になっている彼女から綺麗に蟲を取り除くなんて無理。彼女ごと喰らうのがオチだわ」

「土御門先輩は、蟲喰いは人間を喰らえないと言ってました」

「喰らえないではなく、喰わないのよ。人間は不味いから、口にしないだけ。だから、其処まで変形している蟲は普通、後で気持ち悪くなるから喰わないのよ。陰察庁もそんな形状の『蟲』に『蟲喰い』は使っていなかったでしょう?」


 だから無理だ、と万葉はその言葉を再三繰り返した。


 言われてみて、府中刑務所で見た光景を桐人は再度思い出してみる。確かに、大分変形した蟲共を始末するために、陰察官たちは『蟲喰い』ではなく自分の獲物を使っていた。

 万葉の言っていることは、おそらく本当なのだろう。


 それでも、桐人は知っている。


「土御門先輩が、貴方を警戒していました」

「……」


 朽木文子の事件以来、春一は時々、万葉を警戒するような目でいた。おまけに牽制もどきを一度していたのを桐人は知っている。


「そりゃあ、蟲喰いだからね。警戒はするでしょう」

「あの人は、唯の妖に警戒はしない。下級の妖なら尚更、気に止めもしない」


 何故なら、土御門春一にとってそのような妖など、取るに取らない存在だからだ。

 例え、背中を取られたって困ることはない。それほどに、彼は陰陽師として実力を誇っているのだから。


 だからこそ、本来ならば、佐々木万葉はそのまま無視されるはずだった。

 だけど、春一はそうはしなかった。彼は万葉を警戒していた。薄らとではあるが、彼女を疑っていたのだ。

 佐々木万葉は――。


「佐々木先輩。あんた――本当は、普通の蟲喰いとは違うんじゃないのか?」


 それは確信の色を帯びた目。


 この短期間で、桐人は薄々と勘付いていた。

 彼女は、普通とは何かが違う。


「朽木さんを助ける時だってそうだった。あんた、朽木さんがあと少しで手遅れになることに気づいてて、あそこで割り込んだんじゃないのか?」

「……」


 思い出すのは、鑑識官の言葉。

 あと少しで手遅れになると言った出雲の言葉は、桐人の記憶に強くこびりついていた。


 何故、佐々木万葉はあのタイミングで飛び出したのだろう? 何故、前触れもなくいきなり朽木文子に手を出すような真似をしたのだろう? 


 彼女の余りにも早急すぎた行動の理由は、朽木文子の状態に気づいていたことにあるのではないか?

 だとして。一目でそれに気づくことは、普通の蟲喰いに出来ることなのか?


 緊張感が漂う密室――からかさとたぬまは重い空気にただ黙って耐え、土竜は平然と酒を口にした。

 万葉は相変わらず能面を被ったような顔で、黙って桐人を見つめている。


 ごくりと、桐人は唾を飲んだ。


「頼む……いや、頼みます佐々木先輩。手を、貸してください」


 再度、頭を深く下げる。

 それに習うように、からかさとたぬまも桐人の隣に並んで、頭を垂れた。


「あっしからもお願いしやす! このご恩は必ずお返ししやす。だから、どうか片瀬さんにお手を!」

「わ、私からもお願いします!」


 三つの旋毛(若干一名はろくろ頭だが)が万葉へと向く。

 数秒の間。

 それらをじっくりと眺めた後、万葉は莞爾として笑った。


「いやよ」


 迷いも何もありゃしない。すっぱりとした、ある意味、小気味良い返事だった。

 それを耳にした瞬間、からかさが憤怒したように立ちあがる。今にも座卓の上に足を乗せそうな勢いだ。


「なっ……貴方は鬼ですか!? いとけない少年がこんなにもお願いしているのですぞ! 何の罪もない少女の命がかかっているというのに、貴方には血も涙も無いのか!?」

「からかささん! 落ち着いてください!」


 暴れ出すからかさを、隣に座っていたたぬまが必死に抑える。

 そんな二人の様子を、白けたような顔で眺めると、万葉は知らず溜息を漏らした。


「確かに風間くんにも妹さんにも、同情はするわ。だけど、それとこれとは話が別。そんな面倒事に頭を突っ込みたくない」


 大量発生した蟲に、動き回る陰察官。大層なことになっているであろう現場に、人の注目が集まって居ること間違いなし。

 おまけに桐人が救いたいと言う少女の傍には沢良宜花耶も居るそうではないか。


 別に結果的に彼女を助けることになっても、それは良い。生理的に受け付けないからと言って相手を潰すほど万葉は子供ではない。


 問題は其処に居る女を救出しようと、陰察官が集まっていることだ。


 彼らが見ている前で、風間菜々美をあの化け物から救い出す芸当なんてしてみろ。

 警戒対象として捕獲されるに決まっている。普通の蟲に出来ない事を成し遂げるのだから。

 その後、どんな研究や実験を施そうと奴らがしてくるか……想像するだけで、万葉は吐き気を覚えた。


 捕まらない自信はあるが、それで生活の安寧が失われることは、分かっている。

 よって却下だ。風間たちには申し訳ないと思うが、たった一人の少女のために、万葉は自分を犠牲にする気は毛頭ない。


「そ、そこをなんとか……」


 食い下がるたぬまに万葉はしつこいと切り捨てた。


「君たちを助けて私に何のメリットがある?」

「お礼なら、幾らでも……!」

「いらん。私が欲しいのは面倒のない生活だけだ」


 弱弱しく項垂れる狸に容赦はない。良いからさっさと諦めろよ、と万葉は吐き捨てたくなった。

 どんなに食い下がっても、それは不毛な努力にしかならない。彼女が桐人の願いを聞き入れることは永遠にないのだから。


 メリットがあるどころか、デメリットしかない面倒事を起こす気など、万葉にはさらさら無い。


「大体、なぜ私にそれを頼むわけ?」

「それは……」


 ひたりと冷たい双眸を向けられた桐人は、ぎくりと硬直した。


「私が菜々美さんを助けることで、沢良宜花耶も結果的に助けることになるのよね?」

「はい……」


 その通りだ。風間菜々美をあの化け物から引き離すにしても、まず奴を倒す必要があるだろう。そうなれば必然的に沢良宜花耶を助けることになる。

 本当は、万葉としては、別に彼女を助けてやっても構わないのだが、桐人は自分が『それ』を嫌がっていると思っているらしいので、それを利用させてもらうことにした。


「私が彼女を生理的に受けつけないのを知っていて、それをお願いするんだ?」

「それは……」


 突きつけられた刃に桐人は逡巡した。しまった。何も言い返せない。

 口を堅く結ぶ桐人の隣で、からかさが顔を真っ赤にして吼える。


「別に良いではないですか! そのぐらいしてやったって! 貴方は自分がっモゴ!」


 咄嗟に奴の口を抑えるたぬま。これ以上、万葉の神経を逆なでてはいけないと、思った上での判断だった。


「というわけで悪いけど、他を当たって。私には何もしてあげれないから……ごめんなさいね」


 最後に軽く謝罪をして、席を立つ。


 「あ」と焦ったように声を上げながらたぬまたちが万葉を見るが、無関心を決め込む。円らな瞳が縋るような目で此方を仰視していようが、万葉には知ったことではない。


 ほろ酔い気分が台無しだ。やはり少年の話など気まぐれに聞かずにあのまま帰れば良かった、と万葉は僅かに後悔した。

 先程、忘れてしまった眼鏡を今度こそ片手に持って、襖を開けようと、引き手に手をかける。


 途端、鈍い音が背後で響いた。


 ごん、と床が殴られたような震動が足元まで伝わり、万葉は思わず後ろを振り返る。


「か、片瀬殿……!?」


 少年が、その額を床に擦りつけていた。

 土下座だ。


 なんとも無様というか、情けない姿である。

 まるで物乞いをする乞食のようだと、万葉は嘆息を吐いた。


「……わからないわね」


 何故、そこまで必死になるのか。


「君だって分かっているのでしょう? 彼女を助けられる可能性はどの道ゼロパーセントに等しい。大体、彼女の蟲を取り除くって言ったって、まずその『化け物』から引き剥がす必要があるのに。君、それどうやってやるつもり? 陰察庁は手を貸してくれやしないわよ」


 最もな指摘をしてやれば、桐人は頭を下げたまま口を開いた。


「……自信はないけど、花耶が飲み込まれる時、胴体が突然口のように開いたんだ。多分菜々美ちゃんがあんな風になったのと、それが関係あるんだと思う。だから、一か八か。花耶みたいに中に入って……」

「馬鹿なの?」


 阿保だ。真の阿呆だ。


 ああは否定したが、桐人の推理は意外と良い線まで行ってた気がしたので、意外と頭が回る子なんだなと、実は万葉は感心をしていた。が、結局は唯の買い被りだったらしい。

 切羽詰まっているのは分かるが、その計画はあまりにも無謀すぎる。


「下手したら、死ぬわよ」 

「っ……」

「大体、いつも彼女の傍に居るあの赤鬼」


 史上最強の男とまで謳われた鬼の名を出すと、桐人の指がピクリと反応を示した。

 「これは、間違いなく何かあったな」と万葉は他人事のように思いながら、己の推測を口にした。


「彼も沢良宜花耶を助けるために躍起になっているんでしょう? 噂じゃあ、随分と短気な戦闘狂らしいから、邪魔でもしたら貴方、殺されるんじゃない?」


 あの鬼のことだ。例え何の罪の無い少女があの化け物の一部になっていたとしても、構わず殺すだろう。


 あの鬼に女を傷つける趣味は無いが、基本的に邪魔なものはゴミのように切り捨てる男だ。

 沢良宜花耶を救出するためならば、手っ取り早く化け物の腹を掻っ捌いて殺すのだろう。

 アレは興味を持ったもの以外ならば簡単に切り捨てる。邪魔をすれば呆気なく殺されるに違いない。


 桐人もそれを痛いほど理解しているのだろう。

 顔が見えなくとも、僅かに強張った背中を見れば簡単に察せた。


「死んだら終わりよ。それで良いの?」


 悪いことは言わない。やめておけ。

 安易にそう言ってみたが、どうやらそんな言葉は通用しないらしい。


「……確かに、死ぬのは嫌だ」


 か細い声が、万葉の耳元まで流れ着いた。


「正直、言って本当はめちゃくちゃ怖いし。逃げ出したい」


 少年の本音が零れる。

 それを耳にした隣のからかさたちが、息を飲む。けれど、桐人はかまわず続けた。


「情けないとも思うし、あんたに頼るのは間違ってるってわかってる……解ってるんだ。自分が今、すっげぇ身勝手なことをしてんのは」


 本当に身勝手だ。身勝手な話だ。


 周りを散々引っ掻き回して、反省もせず、自分は此処にいる。

 他人を巻き込んではいけないと、迷惑を掛けてはいけないと言い聞かせたばかりなのに、他に方法が見つからず、ずるくも万葉に頼っている。

 彼女は関係ない。自分たちを助ける義理さえも持っていない。

 知り合いであってもそれ以上ではない。見ず知らずに近い関係だ。それを自分は無視して彼女に頼ろうとしている。


 からかさやたぬまに助けられて、結局最後には全部してもらって。今度は別の人に身勝手な頼みごとをしている。情けない話だ。


 彼女が嫌がっていると分かっているのに。彼女が嫌がると分かっているのに、自分は浅ましくもこんな最低な手段へと踏み出そうとしている。


 軽蔑すべき行為だ。反吐の出るやり方だ。それしか自分はしていない。それしか自分は出来ない。


(それでも……)


 ――ぎしりと、床が悲鳴を上げた。

 万葉がそっと下を見れば、少年の指先が畳に食い込んでいた。

 力むように、何かに耐えるように、ふるふると桐人の身体は震えていた。


「あんたには申し訳ない。それでも……俺は、諦めたくないんだ。今、此処で諦めたら……俺は」


 例え死ぬかもしれなくとも。

 恐怖で身が竦んでも。最低だと罵られ、軽蔑されようとも。自分は賭けたい、どんなに小さな可能性にでも賭けたい。


 もし、このまま、風間菜々美が死んだら――。


「後で、死にたくなる……!」


 それは揶揄か、真か。


 だが、少年の心からの言葉であることには変わりなかった。


 会って間もない他人に、何故そこまで思ったのかは分からない。

 だけど、彼女が死んだ後のことを考えれば。風間の気持ちを考えれば。どうしようもないほどに悔やみ、自分が許せなくなるのは分かっていた。


 今でさえ、こんなに胸が苦しく、痛いのだ。

 全てが駄目になった時の苦しみなんて、測り知れない。


 ――それは本当に、身勝手な話だった。



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