31.
歴史を遡ること凡そ三六〇年前――一六九八年。
信州高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として、『内藤新宿』という名を賜るまで、
「しかし、昔からこの辺りに沼があったという記録はない」
そもそも、
「沼」とは湖の小さくて、浅いもの。或いは、泥土が多い、水深五メートル以下の水域を表す。
「けど、知ってる?」
白い指先で畳みに『沼』の漢字を描きながら、万葉は意図の読めない説明を続けた。
「――『沼』とは流れる水を表す「氵」に、「刀」と「口」を合わせた
この「刀」と「口」は、神秘の力を持つ刀を捧げながら、祈りを唱えて神まねきをする
なんとも興味深い話ではないかと、万葉はゆったりと笑った。
対して、搗山はさしたる興味も見せることなく、大きな欠伸を漏らして、非常につまらなさそうな表情で、「あー」と呻り声を上げた。
「つまり、なんだ……お前は『心臓』とやらを昔、椿会が神招きのためにこの新宿のどこかに埋めたと言いたいのか」
自分で口にしておきながら、なんとも馬鹿らしく感じたのだろう。
男の右頬は僅かに歪んでいた。
「そもそも、『心臓』を捧げて神招きをするたって、いつの時代の話だよ。神に願ったところで、神域は作れても、霊地を作ることなんざ出来ねぇと思うがな」
「では、何故この地帯は『沼』と呼ばれていたの?」
「そんなもん、俺が知るか。どっかの誰かが適当にそう呼んで、そこから徐々に広まっていったんだろうよ」
「その『誰か』とは?」
「……だから、そんなもん」「一見、なんの関連性も見えない呼称が広まるには、それ相応の影響力を持った『何か』が必要とされる」
たいした水源も沼地も見当たらなかったこの一帯を『沼』と呼ばせる発端は何であったのか。
有情無情の魑魅魍魎が跋扈する景色が、まるで混沌とした『泥沼』のようであったことから、揶揄するようになったのか。
無い話ではない。
けど、実際の事の始まりは其処ではない。始まりは、もっと別のところにある。
「『沼』は――隠語だ」
かり、と畳みに漢字を描いていた華奢な指が、核心を抉るように地に爪を立てた。
「夥しい数の魑魅魍魎を引き寄せてしまうほどの、異常な霊子で満ちた地。その異常な量の霊子を循環させる、何千何百何億もの層を織りなすほどの霊脈。そして、その霊脈の形成を保ち、霊子を産み続ける心臓部」
その心臓部が『何』なのか。
どこにあるのか。
嘯く男の仮面を剥ぎ取る勢いで、琥珀色の双眸が炯々として相手を射貫いた。
「お前たちが最初に、その心臓部を差す隠語として、『沼』という言葉を使っていたんだ」
客室に差していた陽が僅かに陰ると同時に、襖の合間から畳へと伸びていた光が僅かに引き、搗山の瞳が黒く塗り潰れる。
退屈を示していた男の頬は、緩んだままだ。
静寂に満ちた空間で、搗山は何も答えなかった。否、答えられなかった、というべきか。
その沈黙を肯定と取り、赤い唇が言葉を紬ぎ続ける。
「ご大層に何百年にも渡ってあんたたちが、秘して守り続けた『椿の毒』」
遠回しな揺さぶりはこれで、もう最後。
いい加減、無意味かつ非生産的な言葉遊びはやめようではないか、と万葉はとどめの言葉を吐き捨てた。
「箱に保管するわけでもなく、札で包むわけでもなく、瓶に入れていることを考えて……中身は容器に仕舞っておかないと、広がってしまうもの――普通に考えて、液体か、粒体かな」
無言。
ここまで来ても、搗山は口を開く気になれないらしい。
万葉の瞳に僅かな苛立ちが滲む。
諍いごとが好きそうな面をしているくせに、あからさまな挑発には全く乗ってくれやしない。とんだ見かけ倒しの張りぼてだ。
はあ、と深い溜息を吐いて、額にかかる髪を掻き上げる。
「椿の毒とは、何か………とか、そんなことはどうでもいいんだよ」
そう。そんなことは最早どうでも良いことだ。
答えは瞭然としている。問題はそこではないのだ。
「一番の問題は――」
何時からかこの地に根付き、何百年にも渡ってこの地を守り続けたという『椿会』。
その椿会が抱える最大の秘密といわれる『椿の毒』――そして、それは瓶に納められた何かであるという不確かな噂。
何かを表すための、椿会の間で交わされていた隠語であったはずが、この地帯を示す呼称となった――『沼』。
そして、『椿の毒』を盗んだという椿会の裏切り者――『パラダイスシフト』の売人。
これだけの材料が集まれば、もう十分だ。
答えは殆ど見えている。
『椿の毒』、『沼』、『パラダイスシフト』。
「なぁ、」と、ころころ代わる万葉の口調に、鋭利なものが混じり始めた。
一瞬の静寂。
岩石のような武骨な顔を叩き割らんと、その温容には不釣り合いな唸り声を上げる。
「どこから、あれを持ち出した?」
搗山は、やはり答えなかった。
胡座をかいた膝に頬杖を立てたまま、ただただ、静かに万葉を眺めている。まるで、一枚の絵画を微細に観察するように。
ただ、じっと、平静に。
「――してる暇なんて無いわよ、この薄野呂どもが」
その台詞を皮切りに、ずしりと、何かが落ちる気配がした。
♢♢♢
「――してる暇なんて無いわよ、この薄野呂どもが」
その瞬間、こそりと室内の様子を伺っていた蛇帯は、金縛りにあったかのように動けなくなった。
『どこから、あれを持ち出した?』
それは、まるで『それ』が何であるのか、熟知しているような口調だった。
二〇〇年に渡りこの組織に属し、見栄も衒いもなく言葉通りに近侍し、幹部とはいかずとも聡将の側勤めとなった
ひっそりと縁側の隅から、障子に映る二つの人影を注視した。
外部からの報告を急ぎ搗山に伝えようとしたところで、するりと鼓膜へ滑り込んだ思いも寄らぬ話題、そして――全身に伸しかかる圧力。
これは、佐々木万葉による『霊力』の威圧だ。
衣の端を揺らすことさえも叶えられず、蛇帯はじっと室内の会話に耳を傾けた。
「お前達はなんのために、此所に居る?」
更なる問いを重ねた万葉の声は穏やかで、なんだか酷く異質に聞こえた。
「裏新宿を荒らす破落戸どもを取り締まり、『隠り世』に伸びる薄汚い人の手を
この女は一体なにを聞きたいのだろう。
人の顔を持たない蛇帯は、ゆらりと訝しげに帯の端を揺らした。
搗山は答えない。
万葉は続ける。
「質問の仕方を変えようか」
一瞬の空白。
「椿会は一体、どうやって、どういう経緯で此所を治めた?」
紡ぎ出された質問は、やはり不可解なものだった。
――が。
「ふっ、」
誰かが吹き出す音がした。
笑ったのは搗山か――否。違う。
ころころと鈴が鳴るような、否、いやらしく啼く猫のような声は、男の笑い方ではない。
くふふと、あははと、笑い転げるのは佐々木万葉だ。
障子に映る華奢な体付きをした影が、くつくつと肩を揺らしている。
突然に笑い出した万葉に呆気に取られたのか、搗山は依然と黙ったままだ。
はあ、と深く息を吐いて万葉は俯いていた顔を上げた。
「もう、いいや」
雰囲気が、また一転した。
それは、何に対する諦めだろうか。
先ほどから彼女の態度に一貫性が無い。まるで、壊れた人形のようだ。
蛇帯が疑問を抱いたその瞬間、万葉は投げやり気味に別の問いを重ねた。
「白い女を見かけたことはあるか?」
「おんなぁ?」
素っ頓狂な声を搗山が初めて上げた。
調子を崩されたように、肩から羽織が僅かに擦れ落ちている。
「多分、新宿のどこかに居るはずだから探して」
「ねぇちゃん、あんた本当に唐突だな。なんだい、藪から棒に」
「少なくともそいつも『椿の毒』を狙っているはずよ」
緩んでいた空気に、再び緊張の糸を張り詰める。
「あれは、狡猾な女だ」
天井を仰ぎながら溜息を吐く姿は、口にするのも嫌という万葉の感情を表しているようで、彼女がその『白い女』を嫌悪をしていることははっきりと見て取れた。
「人畜無害そうな可憐な面をしているが、中身はぶっ飛んでる」
ぶっ飛んでいる、というのは頭がいかれているということなのか。
どちらにしても佐々木万葉にそう言わせる程の女だ。碌でもないことは火を見るより明らかである。
実際、万葉が続けて放った言葉はとんでもないものだった。
「蟲怪奇事件を起こしたのも多分、そいつ。実行はしてなくても事件が起きるように犯人を唆しはしてるはずよ」
はあ、と搗山が心底疲れたように溜息を吐き、米神を押さえた。
「――よく、知っているんだな。その白い女とやらを」
やはり、何か知っているのではないかと暗に意味を含めるが、万葉は答えない。
そんな疑心はどこ吹く風とばかりに、笑った。
「――ところで、そこの白帯は何か緊急の用があって来たんじゃないの?」
襖を顎で刺す万葉の仕草に、蛇帯がびくりと微かに揺れる。
さっと、無骨な手が襖を開けた。搗山だ。
ただ一言、「なにがあった」とだけ問い、蛇帯を睨む。
佐々木万葉の存在を一瞬だけ気にするが、「女にも知らせよ」という『蝶』の言付けを思い出し、蛇帯は大人しく搗山の質問に応えた。
「申し上げます――薬事法違反と公務執行妨害の容疑で岸松と――昨夜の少年、片瀬桐人が今し方陰察庁に捕まりました」
ひねくれもの 苗字 名前 @Myouji_Namae
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