ひねくれもの
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佐々木万葉は語る、
0.天命二年、春。『裏吉原』にて。
――ざわざわざわ。
――くすくすくす。
耳障りな女の吐息や、男の乱暴な声が、耳元へと流れ着く。
妓楼の二階から下を覗き見れば、軒先で戯れる妖共が見えた。
黒い着流しを着た一つ角の青鬼に、その広い肩に凭れかかる
紅い提灯で照らされた夜の『裏町』は、今日も
聞きたくもない噂話を吹聴しながら、ひとの嘆きも、荒れ狂う心情も置き去りにして、彼等はいつだって悦に浸っている。
「——ねぇ、聞いた?」
「——酒呑童子だろ?」
「——あれ、本当に死んだの?」
「——土御門と相討ちだろ?」
「——女を取り合って死んだんだって?」
「——ぶはははは! マジかよ! 天下の酒呑童子も落ちぶれたもんだなぁ!!」
「——いやはや、天下の酒呑童子もこんな間抜けな幕引きをしては」
「——しかし、豪傑の酒呑童子とあの土御門が女を取り合うとは」
「——どこの女だ?」
「——たしか、土御門の宗家と……名は」
「——ああ、異能の姫君か。あれは確か、土御門と婚姻関係にあったはずでは?」
「——酒呑童子の横恋慕か。酒と女癖の悪さもあそこまで行くと、天晴だな」
「——あら? 相手があの姫君であるならば、あのお方が求めていたのは血肉では?」
「——酒呑童子がか? そんなもの無くとも、あれほどの力があれば……」
ぼんやりとした思考のまま耳にする話はここ最近、隠り世を賑わしている噂だ。
じくじくと疼痛を訴える胸を押さえながら、私はその聞き飽きたはずの噂話に馬鹿みたいに耳を傾けていた。
「ねぇさん」
不意に、鈴を転がすような声が鼓膜を打った。
重い頭を上げて振り返れば、しゃなりと髪に挿していた大きな簪が音を立てる。柳のように視界の端で揺れる飾りを鬱陶しく思いながら、私は今し方、「ねえさん」と声をかけてきた禿に微笑みかけた。
「――どうしたの、夜咲?」
華やかな菊模様の赤い打掛で飾られた私と反し、控え目な色を纏った夜咲は静かに咎めるように、けれど何処か気遣わしげに顔を歪めていた。
「今夜は冷えます。早く中へ」
「……そうね、ありがとう」
重い足を引きずる。
小さな背中に従い、鉛のようにずっしりとした褄を取って廊下を歩きだせば、青鬼たちの先ほどの会話が耳奥で何度も蘇り、木霊しはじめた。
脳裏に、『赤い男』の影が過る。
――いつもどおりだった。
いつもどおり、ふらりと座敷に現れて、酒を仰いで、こちらを見向きもせず、あの男はそのまま居なくなった。
文字通り、私はあの男にとって、ただの話し相手でしかなかったのだろう。
随分と長い付き合いになると思っていたが、途方もない、長い時を生きてきた『鬼』にとって、私は所詮もの珍しい一時の暇潰しでしかなかったようだ。
「さようなら」も「またな」の言葉さえくれなかった。
『——女を取り合って死んだんだって?』
くすくすと笑う毛倡妓の、あの言葉。
嘲笑うように蘇った言葉が、じくりと胸を突き刺す。
しかし胸を蝕む痛みとは別に、あっさりと事実を受け入れる理性が胸中にあったのも確かだ。
初めから、分かっていたのだ。
あの男にとって、私はただの青臭い女で、退屈を紛らわす
とうに、理解をしていた。
じくじくと疼痛を訴える胸をそっと撫でる。
――失恋、しちゃったな。
胸中でそんな言葉を呟き、ふっと、自嘲を零しそうになった。
「
何かを感じたのだろう。後ろをしずしずとついて歩いていた夜咲が眉尻を下げながら、もう一度、今度は私の源氏名を使って呼びかけてきた。
あどけない顔の眉間には、一本の深い皺が寄っている。
「ねぇさん、今日はやはりお釈さまに話して……」
「大丈夫だよ、ありがとう」
「けど――、」
「温かいお茶をお願いしてもいい? 夜咲の言う通り、今日は寒いわ」
何かを言われる前に、矢継ぎ早に続けた。
暗に一人になりたいと言っているのだ。幼い夜咲にも、きっとその意味は伝わっているだろう。
一瞬、私から離れることを逡巡したようだが、ぐっと口を引き結ぶと心得たように一礼をしてくれた。
遠ざかる小さな背中を横目に、奥の部屋の襖を開けば、ほんのりと温かい空気が、冷えた頬を癒してくれた。
化粧を直そうかと鏡台の前に腰を下ろすと、青白い顔をした若い女の顔が鏡に映る。
未だどこか幼い顔を視界に収めながら、ぽつりと呟いた。
「……ひどい顔。夜咲が心配するわけだ」
未練がましく思い出す、赤い背中。
本当に恐ろしく気まぐれで、横暴で、常識など何処かへ置いてきてしまった傍若無人な男ではあったけれども。
それでも、私にとっては唯一の拠り所だった。この暗く、空虚な、未知で溢れた世界へ放り込まれ、置き去りにされた私にとって唯一の光だったのだ。
——けど、それももうお終いにしなければ。
鏡に映る自身を憎むように睨み、次いで、強く目を瞑った。
暗闇が、視界を覆った。
刹那、足場が崩れるような心地がして、何かに縋るように鏡台の横へと手を伸ばす。
白い指先が箪笥に触れる。決して誰にも触れることを許さなかった箱を開ければ、白と青の、この時代にあるはずのない制服が姿を現した。
そっと、その懐かしい衣を愛おしむように撫でる。
普段着る着物とは全く違う手触りの服。長年、着ることのなかったそれを抱きしめてみる。
頬に触れる紺色のリボンからは懐かしい匂いが香ったような気がして、心臓をぎゅっと締めつけるような痛みが胸に広がった。
「だいじょうぶ」
――灰色の校舎。友達と歩いた通学路。「万葉」と名を呼んでくれた家族。
空へと聳えるビル群を、街中を走る電車を、耳障りな電子音を、あの時代のすべてを、私は何一つ忘れてない。
「――必ず、戻ってみせる」
心の中心に何時だってあるのは、色恋ごとでもなければ、仕事のことでもない。
嘆いている暇なんてない。立ち止まっている余裕など、どこにも無いのだ。必ず、この赤格子の街から出ることを――誓ったのだ。
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