3.

 六月十四日――佐々木万葉が復学する前日。

 とある自宅にて。


 勉強机に箪笥、寝台、本棚と必要最低限のものしか置かれていない殺風景な部屋に、少年の寝息が響く。読みかけなのか、ページの折れた雑誌が寝台の上に転がっており、少年の寝相に従ってはその白いページに皺を寄せていた。

 寝台の横に鎮座する丸い時計の針がちくたくと時間を刻み、かちかちと音を立てながら「十二」の刻を差した。

 ——じりりり。小さな金槌が鐘を小刻みに打つ音が室内に木霊し、少年の眉間に縦皺が寄る。


「っ……」


 ごろりと仰向けの姿勢から右へと転がり、寝台の下へと少年が手を伸ばす。ぱちりと冷たい金属に指先が触れれば、うるさかった音が止んだ。

 目を瞑ったまま手さぐりで時計を弄ると、自然とアラームを止めるスイッチに指が行き着き、かちりと時計の背中に生えた出っ張りを押せば、静けさが今度こそ部屋を覆った。


 少年は名残惜しそうに枕に顔を埋めながら唸ると、諦めたように部屋に刺す強い日差しへ目を向けた。


「……」


 清々しい程の晴天だった。

 のそりと身体を起こし、床へと足を下ろす。がしがしと頭を掻けば、くわりと欠伸が漏れた。


「……学校」


 こうして少年――片瀬桐人の日常は始まりを迎える。

 



 ♢


 階下からソーセージの焼ける音と芳ばしい香りが漂ってくる。おそらく母が朝食の用意をしてくれているのだろう。

 白シャツのボタンを留めながら桐人は思考した。


 今日は久しぶりの学校だ。皆はどうしているだろうか。見舞いに来てくれた風間の話によるとやはり事件について様々な噂が飛び舞っているようだが、自分もその的に入っているのかと思うと、ほんの少しの不安と好奇心が心中で渦巻き、桐人は息を吐いた。


 なんにしても、学校へは行かねばなるまい。今まで休んでしまったツケもあるのだから。

 重い足を引きずりながら鞄を手にし、階下へと下りる。


「はよう」


 リビングと台所を隔てる暖簾をくぐりながら、調理台の前で忙しなく動きまわる小さな背中へと声をかける。


「——あら、おはよう。今日はちゃんと自分で起きれたのね」


 ぱちりと大きな瞳を瞬かせながら振り向いたのは桐人の母だ。


「もうちょっとで、ご飯できるからね」

「あー、じゃあ箸とか出しとくよ」

「ありがとう、助かるわ〜」

「ん……って、母さん。また、やったのか」


 呆れたように溜息を零す桐人が見つめる先は洗面台の横。そこには折れた包丁が鎮座していた。


「だってぇ、人参があまりにも固かったから」

「……とか言って、またなんか変なこと考えてうっかり力加減間違えたんじゃねぇの?」

「うん」

「あっさり認めちゃったよこの人」


 悪びれることなくさらりと肯定する母に桐人は脱力したように肩を落とした。

 だがこれこそが彼女の通常運転なので気にせずそのまま朝飯の支度を続けた。しかし桐人の母は何か気になることがあるのか、じっと食卓に皿を並べる息子の背中を見つめていた。


「桐人くんさ」

「んー?」

「なんか昨日、私が帰ってきたとき騒いでなかった?」

「……」


 ぴたりと少年の指先が不自然にも動きを止めた。

 いつか来るだろうと恐れていた質問をついに投げかけられて、桐人は一瞬だけ思考を飛ばす。


「——うん。ちょっと、蚊が」

「蚊?」

「うん」

「エッチな本じゃなくて?」

「……は?」


 誤魔化すはずが奇襲をかけられ、桐人は己の耳を疑った。そして次の瞬間、ミサイルが直撃したような衝撃に見舞われる。


「SとM」

「……」


 だんまりと桐人は口を閉じた。思考が心臓の鼓動と共に停止したのだ。

 オニキスのような黒い瞳が桐人をじっと見つめている。そこには少年を責める色も嘲笑う気配もなく、あるのは木漏れ日のような暖かい眼差しだけだ。


 くらりと頭が揺れた。


 ——っせんぱあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁい!!


 少年の精神世界に雷が怒号と共に落ちる。

 一番面倒くさい人に、一番面倒くさいものを見つけられてしまった。「いつの間に……!」と、勝手にデリケートなお年頃の息子の鞄を漁った母親を前に、桐人は狼狽した。


「違うよ。違うからね。恥ずかしいものを見られてしまった純情な青少年の定番な言い訳を口にしてるようだけど違うからね。断じて違うからね。ただの手違いで俺の私物に紛れ込んでただけからね、あのピンクモンスターは」

「桐人くん。大丈夫よ、お母さんはちゃんとわかってるから」

「絶対に違ううう! 絶対に俺の言ってることと違うことを考えてるううう!!」


 ぐっと拳を握りながら力強く頷く母に桐人は叫ぶ。憐れ、桐人。こうして少年は思わぬところから奇襲を食らってしまったのであった。


「——だぁああ! もういいよ! いってきます!」

「あ、まって桐人くん。お弁当! あと……はい、朝食のサンドイッチ。歩きながら食べちゃ駄目よ。ちゃんと学校に着いてから食べなさいね」

「……ありがとうございます」


 母の視線と和ましい空気に耐えきれず、鞄を掴んで玄関へと逃走を図る桐人。その一足前に母親に引き止められ、弁当と共にタッパに詰められた朝食を渡されて、難しそうな顔を作りながら礼を述べた。——なんだろう、このやりきれなさは。

 黒い靴に足を突っ込んで、扉のドアノブを掴む。


「じゃあ、いってきまー……」


 家を後にしながら「いってきます」の言葉を言おうとして、桐人の唇は不自然に止まった。視線の先で不意にある人物を捉えてしまったからだーー。




 ♢

 

(ーーなんだ、この空気)


 晴天下、じりじりと焼け焦げるアスファルトの上を歩きながら桐人は自問した。三週間ぶりとなる学校。その道のりとなる通学路を共にするのは、先日どことなく様子の可笑しかった幼馴染だ。

 

「……」

「……」


 かつりかつり。たった一言の会話も無く、アスファルトを踏む靴底の音だけが鳴り響く。


 なんだ、この空気は。同じ質問を桐人は心の内で繰り返した。

 まったくもって分からない。何故、自分たちはこんな殺伐とした空気の中を歩いているのだろうか。

 隣を歩く花耶は以前として無表情だ。そんな感情の灯っていない顔を桐人は過去に一度も見たことはなく、末恐ろしく感じた。


 ——俺、なんかしたっけ?


 いくら思い返してみてもそんな記憶はない。確かに朽木の件で喧嘩はしたがそれも先日のお見舞いで許してくれたはずだ——多分。


(つか、阿魂どこ行った?)


 いつもいらない時には居るくせに、いる時は居ない鬼に桐人は半ば八つ当たりのような苛立ちを覚えた。常に人を足蹴にする鬼が今、ものすごく恋しかった。こんな時、奴が居ればこの殺伐とした空気も少しは霞むのに。


「……」

「……」


 長い沈黙の末、ついに耐えきれなくなったのか桐人が口を開こうとした——途端。犬の唸り声のような音が聞こえた。


「……」

「……ごめん、朝なにも食わずに出てきたから」


 言わずもがな、音の根源は桐人の腹からだった。


「なにも食べてないの?」

「いや、まあ……朝のサンドイッチをタッパに詰めてもらってきたけど」


 歩きながら食べるのはちょっと気がひけると、言外に伝える桐人に花耶は少し思案した様子を見せると、鞄の前ポケットを漁った。


「はい」

「え?」


 スッと差し出された掌には青い包装紙に包まれた飴だ。


「お腹は膨らまないけど、少しは空腹も紛れるでしょ?」

「あ、ありがとう……」


 不意打ちの親切に少したじろぎながらも有難くその飴を頂いた。コロリと口の中で溶け出す味は桐人の好物である苺味だ。

 「あ、うまい」と呟きながら隣を横目に見ればこちらをじっと見つめる花耶の顔が視界に映り、桐人はギョッと口を開いた。


「な、なに……」

「……」

「え、なになになに。俺、なんかしたって、——っうわ!?」


 じーっと目を細めながら距離を縮めてくる顔から桐人は離れようと後ろへと下がる。が、運悪く犬の糞を踏んでしまい、悲鳴をあげた。瞬間、少女の紅い唇からぷっと息が噴き出る。


「あははははは!」

「いや、笑いごとじゃないよコレ!? え、ちょっ、マジでどうしようコレ。クッセェんだけど……」


 突然に笑い出した幼馴染に、桐人は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 そんな桐人には構わず、花耶は相変わらず可笑しそうにお腹を抱えている。


「い、いや……ごめっ。桐人はやっぱり桐人だなって」

「……あー、そうですか」


 この事故を機に二人の空気は柔らかくなるのだが、果たして喜んでいいのか分からない桐人であった。



 ♢


「じゃあね桐人、また後で」

「おう」


 いつものように下駄箱の前で別れる花耶と桐人。さっきの不自然な態度はなんのその、多少のぎこちなさは感じたが以前のような陽気な笑顔で互いに手を軽く振った。

 ふっと、桐人の口から吐息が溢れる。

 生徒で賑わう廊下に、窓から差す太陽の光。聞き耳を立てれば「宿題を忘れた」というような、平和な会話ばかり。


 ——長閑だ。


 あの怒涛の一日がまるで嘘だったかのようなこの暖かな雰囲気。その意心地の良い空気に桐人は口を緩ませた。だが、これで全てが元通りになったわけではない。


 一歩、二年の校舎へと足を踏み入れればチラチラと寄越される視線を桐人は感じた。教室へ向かって歩いているうちに段々と慣れてはくるが、どことなく肩がソワソワとしてしまう。


「——ほら、あれが例の事件に巻き込まれたっていう」

「——あぁ、あの子か。見たことあるかも」


 予想通りというか、やはり桐人のことは風間の妹と共に、学年中に広まっていたようだ。だが、人の噂も七十五日。時が経てば、皆忘れてゆくだろう。

 

(そういや、菜々美ちゃんは大丈夫だったかな?)


 ふと、風間の妹の顔を頭によぎらせながら、既に開いている教室の扉を桐人は潜った——瞬間。


「どわっ!」

「おー! 桐人! この人気者め!」


 不意に誰かが彼の背中に飛びついた。


「人気者ってなんだよ! つか、おんもっ! 重い! 降りろ、勝久かつひさ!」


 怒鳴りながら桐人が振り向けば、「悪い悪い」と苦笑しながら茶髪頭の少年が彼の背中から降りた。


「いやぁ、便所から帰ってみれば仰天ビックリ。ずっと病院住まいだった桐人くんが居るじゃねーか。聞いてねーぞ。お前、今日復帰だったのかよ」


 おちゃらけた様子で肩を組んでくる青年——勝久を桐人は疲れたように見上げた。そんな彼を助けるように誰かが横槍を入れる。


「……言ったぞ、主に俺が」 

「風間!」


 教室の入り口を塞ぐように立つ二人に近づく影を見れば、紙パックのぶどうジュースを片手に持つ風間が其処に居た。

 見慣れた顔にホッと安堵する桐人。そんな彼を横に、やたらとテンションの高い勝久と朝独特の気怠さに見舞われた風間の言葉の応酬が始まる。


「あれ、言ったっけ?」

「昨日LINEで言ったろ。お前、偶に俺のメッセージ無視するよな」

「ソレは言ったとは言わない。書いたというのだ」

「一緒だ、タコ。報せたことには変わりねーだろーが」

「あいだ!」


 無駄に真剣な表情で自分の言葉を否定する勝久の頭を、思わずといった風に風間が叩いた。


「つか、片瀬。体もう大丈夫なん?」

「あ、そうだよ! お前もう良いのかよ!?」


 ふと思い出したように尋ねる風間に続いて勝久も心配そうに桐人を見た。


「あ、おう。この通り」


 「ほら」と軽く腕を回す桐人の姿を見て、風間たちはホッと安心したように息を吐いた。


「そっか、良かった……その、誘拐されて、ぜんち三週間だったんだろ? お前が事件に巻き込まれたって聞いて、結構ハラハラしてたんだぞ、俺も」

「良く言うよ、勝久。一回も見舞いに行かなかったくせに」

「いやいや、しょーがねーだろ? 部活があったんだからさ」

「俺もあったぞ。部活」

「……」


 風間の指摘を前に勝久はだんまりとを口を閉じた。あまりの正論にぐうの音も出ないらしい。そこにトドメを刺すように桐人が余計な一言を付け加える。


「まあまあ、別にいいよ。勝久に来られたって、なんか怪我を悪化させられそうだし……」

「ひどっ!?」

「ああ、確かに一理ある」


 もっともな発言に風間も納得したように頷いた。途端、勝久は黒板の下へと移動して「の」の字を書き始めた。


「ところで、風間。菜々美ちゃんは?」

勝久おれのことは無視スルー!?」

「ああ、まあ他所のクラスの視線はあるみてーだけど良いクラスメートに恵まれたみたいで割とピンピンしてるよ」

「そっか、良かった……」

「ねえ、勝久おれの扱い酷くない!?」


 本格的に自分のことを忘れ始めている桐人たちに勝久は悲壮感を漂わせながら泣き喚きはじめ、まるでソレに呼応するかのように学校のチャイムが鳴る。


「——はーい、全員席についてー」

「——せんせーい、うるさいのが居るんですけどー」

「——だとよ、勝久ー。しばらく廊下に立ってなさい」

「やっぱり皆、俺に対する扱い酷くない!?」


 六月十四日——『日常』という幕が新たに上がる。

 

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