24.

 一方、その頃。


「っ……!」


 酸に焼かれるような痛みが桐人の腕を走った。

 腕だけでなく顔から足まで。肉塊に埋もれている桐人の身体はどこもしかしこも鋭い痛みで蝕まれていた。

 やっとの思いで避けた顔は、肉と肉の間に出来た隙間に挟まるだけ。その隙間も僅かな広さしかなく、呼吸さえも満足にできない。空気が少ない此処では鼻だけで息をするにも限界がある。

 どうする? 口で呼吸を繰り返すか?

 いや、だが此処で口を開けば、蟲の胃酸が咥内に侵入する恐れがある。


 湿気と高熱が篭もった狭間で、桐人は酸素を求めるようにもがいていた。


 頼みの綱である万葉をこの肉壁に突き立ててから、既に数分は経過している。掴んでいたはずの柄は心なしか針のような細さまで縮み、今にも桐人の掌から離れてしまいそうだった。なのに、彼女からの返事が無ければ、動く気配も無い。

 絶体絶命。縁起の悪い文字が桐人の脳を占めた。そんな時だった。


(先、輩……?)


 手の内に収まっていたはずの太刀が心なしか、桐人から離れていっているような気がした。


 少しずつ、少しずつ彼女が少年の手から外れてゆく。その刹那。桐人は言い様のない不安と予感を覚えた。


 ――『蟲』が彼女を飲み込もうとしている。


 それは勘としか言えなかった。

 だが、桐人は己の腕を包む肉塊から異様な圧迫感を感じたのだ。柄を握る桐人の掌ごと彼女を取り込もうとするかのように、纏わりつく柔らかい肉。

 蠢くソレは、確かに桐人から彼女を引きはがそうとしていた。


「……っ!」


 その行為に強い怒りと嫌悪感を覚えて、此処から抜けようと足掻く。

 だがその行為は全身を襲う痛みを悪化させるだけで、現状の打破には繋がらなかった。

 余計に暴れてしまったことで、元から少なくなっていた酸素が底を尽きはじめ、頭さえも上手く回らなくなりはじめた。

 意識が混沌としだし、次第に身体を一ミリも動かせなくなる。


(くしょう……が)


 瞼が重くなってきた。呼吸も浅くなっている。

 全てを食いつくさんとばかりに己を圧迫する肉膜の中で、桐人の意識は暗澹へと落ちかけていた。


(からかさ、たぬまさん……)


 数刻前まで行動を共にしていた妖たちの顔が脳裏を過る。赤い傘頭に、しゅっとしているようなしていないような体系の化け狸。

 これは走馬灯というやつだろうか。昨日のことから、数年前のことまで――様々な記憶がビデオテープのように蘇る。

 横暴な赤鬼に、涼しげな目元の青年。小さな子妖怪たちに、母や近所の住民。


(かや……)


 艶やかな黒髪に紅い網紐を靡かせる少女が映った。

 その姿に息が詰まるような切なさを覚え、次に別の影が重なって見えた。


(おれ、何か忘れて……)


 次に浮かんだ学校という風景に、ふと違和感を覚える。

 何かを、忘れている気がした。


 《それ》は、とても大事なことのような気がしてならず、桐人はそのまま流されそうになった思考を止めた。

 なんだっけ、と朦朧とした意識の中で必死にその糸を手繰り寄せようとする。

 そして――。


「……っ!」


 ある少女と並んで歩く友人の背中が瞼の裏に映った。


 ――風間だ。


(そうだ、おれっ……!)


 その記憶を引き金に、沈んでいた意識が現実へと引きずり上げられる。

 何故か忘れてしまっていた当初の目的を思い出して、桐人は一瞬にして目が覚めたような気がした。


(なんで、わすれて……!)


 大事なことを頭からすっぽ抜かせていた自分に、衝撃を覚えると同時に、激しい怒りが沸いた。


(阿保か……!!)


 馬鹿か、自分は。何故、こんな大事なことを忘れていたのか。

 この絶望的な状況のせいか。人生の崖っぷちに立たされていたためか。助かろうと必死に頭を働かせた結果、風間菜々美のことを忘れてしまったのならば、それは最低なことだ。

 いや。生命の危機に遭っているのだから、仕方がないといえば仕方がないのかもしれないが、それにしたって之は無いだろう。

 自己中心的な目的のために色んな人たちを巻き込んだというのに。それを忘れてしまうなんて、無責任にも程がある。


「っ……せんぱい!」


 次に――万葉のことを思い出して、桐人は咄嗟に左手に注意を向けた。胃酸のことなど構わずに声を張り上げる。

 だが、返事はない。気づいていないのだろうか。

 僅かに彼女の柄が、桐人の手から離れ掛かっている。


「……っの、」


 何も考えずに激情に駆られるがまま、桐人は必死に腕を伸ばした。酸で手が火傷しようが、最早知ったことではない。

 柔く、弾力のある肉の僅かな隙間に無理やり指先を突っ込ませ、再び柄を強く握ろうともがく。


 爪で守られていたはずの指先は既に剥き出しになっているのだろう。痛みが強すぎるのか――感覚さえも無くなりはじめた手を、更に奥へと突き進めた。

 ざらざらとした絹の感触を見つける。そのまま伸ばした指先を折り曲げて、糸のような細いを強く握りしめた。


「はっ、はっ、はっ」


 無理に身体を動かしたせいか。異常な疲れが桐人の全身を襲い、浅かった呼吸が更に乱れる。


 苦しい――酸素。酸素が欲しい。


 狭まった空間から必死に酸素を取り込もうと、桐人は口を開けた。唇がヒリヒリと痛む。胃酸にやられてしまったのかもしれない。

 全身が熱い。外も内側も、灼熱の太陽に曝されているかのようだ。だが、此処で泣きごとを言っても仕方がない。文句も弱音も、全て終わった後に吐き出そう。


 募る焦燥感の中で桐人は、とにかく万葉をこの肉塊から自分の元へと引き戻そうと腕を動かした。


(考えろ、考えろ! この壁をどうにかする手があるはずだ!)


 見えない霊脈。己を包む肉壁。離れ掛かっている佐々木万葉。

 桐人はありとあらゆる現状を一つ一つ確認し、全ての事柄に思考を走らせた。

 肉壁に埋まる人間たち。恐らく今も霊力を吸収されているのだろう。万葉はどうなのだろうか。自分は体力を削られると同時に酸で焼かれているのだが、指先に触れている柄が溶かされているような感触はない、気がする。いや、だが確実に先程と比べて細くなっている気が……。 

 視界が肉で埋まっているので、実際に何がどうなっているのかは分からない。実に不自由だ。


(胃酸……)


 ふと、桐人はあることに気がついた。

 そういえば自分たちはこうして火傷を負っているのに、この肉壁は傷一つない。


(胃粘液……そうだ。膜だ)


 生物学の授業で習ったことを思い出す。

 人間の胃に張られている胃粘膜いねんまく

 強酸性の胃液が胃を自ら消化してしまわないのは、胃が粘膜で覆われているからであり、胃液と消化酵素のコントロールが常に行われているからだ。


(こいつも、同じ作りをしているのか?)


 人間の粘膜は約一ミリメートルほどの厚さで、滑らかで柔らかく、ベルベットの皮をしているのだが、こいつはどうだろう。

 上皮、粘膜固有層、粘膜筋板で構成されている膜は、蟲のサイズからしてそう簡単に破れそうには見えないが。


(けど、先輩は斬れた……)


 斬れたとして、どうなのだろう。数分前のことを桐人は思い返す。実際に刀身を肉に突き刺した時、この壁はどんな反応をしていた?


(――萎縮、してた)


 確証はない。人間の記憶ほど頼りにならないものはない。己の願望や希望的観測で記憶を脚色はしてしまうのはよくあることだ。


 だが、今はこれしかない。


 伸ばされた右腕を、己を挟む肉に食い込ませるように折り曲げ、指先を立てる。

 もう大分前から、形振り構っている場合ではなかったのだ。腹を括りなおした桐人は右腕にグッと力を入れ、次に左手から柄もどきが滑り抜けぬよう、きつく握りしめた。


「っふ、ぅ……!」


 大太刀を己の元へと引き戻すように、強く引く。

 引きながらも、桐人は思考を止めなかった。


(……こいつが、俺と先輩を引きはがそうとしているのはなんでだ?)


 危険だと気づいたから? だから、引き剥がそうとしている?

 ――馬鹿馬鹿しい。

 佐々木万葉はともかく、桐人は唯の人間だ。吸い取れるほどの霊力も持っちゃいない。

 危険だと思うならば、二人共、酸で溶かしてしまえば良いのだ。出来ようとも出来なくとも、万葉たちを壊そうと躍起になれば良い。だが、蟲がそうしようとしているようには見えない。

 この肉は――《胃》は、ただ、万葉を壁へと引きずり込もうとしているだけだ。


(――そうだ)


 ――としているのだ。


 桐人を彼女から引き離そうとしているのではない。としているのだ。

 だがそのためには、傷口を開けている万葉が邪魔だ。だから壁の中へと彼女を引きずりこもうとした。完全に傷口を塞ぎ、――《炎症》という不測の事態を免れるために。

 いや、もしかしたら既に炎症を起こしているのかもしれない。

 炎症など、自己回復できる蟲にとってはなんてことはないことのなのだろう。だが内部の――しかも延々と酸が分泌される個所は? 


 そもそもこの肉は――《胃》は、何故、急激に動き出した? 霊脈を途切られて身の危険を感じたから? 内部に侵入した外敵を始末するため? それとも回復するための膨大な栄養が必要になったから?


(……いいや、違う)


 一つの答えを、桐人は見つけた気がした。


 ――此処は、蟲の急所だ。


 蟲は胃酸の分泌を、食事の消化と栄養の吸収のために必要だから、止めることはできない。栄養を吸収できなければ、この蟲はもう自己修復することができないのだ。


 けれど、万葉が開けている傷は、胃を守る胃粘膜に支障を与えている。外敵や餌の消化を行うはずの胃酸が、胃自体を傷つけているのだ。

 自己修復しようにも、万葉が邪魔で塞がらない傷に酸は侵入しつづけ、今も胃を焼きつづけているのだろう。


 この肉壁の動きは、蟲の防衛本能によるものだ。

 人間の身体と同じように、蟲の身体も本能的に命を危険を察知して、こうして動いている。《胃》としての働きを果たしているこの肉塊が、こうも執拗に万葉にこだわっているのは、万葉が空けている傷口が――今、蟲の命を脅かしているからだ。


(だったら……)


 もっともっと。この大太刀が作っている傷口を、広くしてやれば良い。

 それがどのような結果を招くのかは分からない。果たして本当に自身の推測が正しいのかも分からない。

 これで蟲に多大な影響を与えられるなんて、桐人は思っていない。

 だけど、其処に可能性があるのならば――やるしかない。




♢  ♢


 とにかく、この肉塊から抜け出そうと、万葉は『大きな一口』で、蟲の一部を喰らった。

 喰らうと同時に覚えたのは、腕を伸ばしているかのような感覚。

 挟まる肉塊から脱出するように空洞へと飛び出た先に――万葉が突いたのは、なんとも気味の悪い《心臓》だった。


 蔦のように血脈を伸ばし、王者のように空洞の中央に鎮座するソレは――見てて、実に不愉快だった。

 貫かれても尚、蛭のような触手を伸ばしては、節操も無く『時』を吸おうとするその姿勢は非常に図々しく、汚らわしい。


(危機一髪。喰われてないわね……)


 肉塊に囚われた少女――花耶の様子を万葉は確認した。所々火傷を負っているようだが、致命傷は無さそうだ。

 意識も無いが、しっかりと呼吸をしている。大丈夫、死んでいない。


(で。こいつは、と……)


 現状を確かめようと万葉は視界を凝らし、糸先から『心臓』の中を探ってみた。

 本当はに流れる『時』ごと全てを、今すぐにでも喰らうべきなのだろうが、そうする前にこの『心臓』が実際には何なのかを調べる必要が、万葉にはあった。

 それに既に覚悟は出来ているものの、やはり『時』のは避けたい。蟲を駆除する方法が他にあるのなら、そちらの方が断然いい。


 じっくりと、『心臓』の内部とその血流を万葉は観察した。すると、血流の中に漂う『何か』を見つける。

 怯えているのか、挑発しているのか――悠々と泳ぐのようなソレに神経を尖らせる。


(こんな、《デカ物の主》が、コレか……)


 濁った乳白色をした殻……のような、なんとも頼りない甲羅を纏う小さな身体。

 人間の人差し指で呆気なく潰せるであろう《生物》を見て、万葉はつい笑ってしまいそうになった。

 万葉を見ているのか見ていないのか。そもそも、存在に気づいているのかさえも分からないほど、表情の無い『蟲』。


 恐らくこれが、この巨大な蚯蚓の『頭部』なのだろう。


 まったく、随分と小さな脳味噌をしていたものだ。これなら、あの知性どころか理性の欠片も無い破壊行動にも納得がいく。

 『蟲』のまさかの実態を、万葉は鼻で笑い飛ばしたくなった。


 恐らく、この蟲に『思考能力』は無い。

 あるとすれば、生存本能――『餌』があれば食らいつき、『栄養』を吸収し、怪我をすればその『栄養』を使って回復する生理現象だけだ。

 まさに獣……いや、虫だ。


 自分たちを翻弄していたのが、こんな小さな虫ケラだったと陰察官たちが知れば、一体どんな顔をするだろうか。

 そんなどうでも良い事を考えながら、万葉はこの『司令塔』のようになっている『心臓』とそれを操る蟲を観察した。

 心臓の中で循環しているのは血に含まれた大量の霊子。

 他者から霊力を吸い続けていたのは、この『蟲』ではなく、『心臓』自身に思えた。


(意思さえも、持っていないのか……)


 以前と力を吸い続けようとしているようだが、目の前の『蟲』から殺意は感じられなかった。

 『心臓』が運んでは与えてくる『栄養』をただ口にして成長することしか脳のないの機械。

 まるで物心がつく前の、生まれたての赤ん坊のようだ。


(でもこれで、はっきりした……)


 霊力にただ反応して動き続けるこの『蟲』は、どう考えても、自然に生まれた存在ではない。『心臓』はこの蟲のものではなく、誰かに改造されて付け加えられたものだ。


 ――間違いなく、この事件には黒幕が居る。


(もう少し、調べたいけど……)


 この『心臓』はどこから来たのか。誰のものなのか。どういう経緯を持って生まれたのか。

 此処まで身に覚えのある要素が集まると、万葉はこの事件を、もはや他人事と片付けることが出来なかった。

 もう少し、このまま詳しく調査したいところだが――。


『どうしたものか……』


 こうしている間にも被害は着々と広がり続けている。

 桐人には「《力》だけは貸す」と約束したが、「助けてやる」とは言っていない。

 万葉は、自らリスクを犯してまで人命救助に勤しむ気にはなれなかった。「助ける」のは桐人の仕事だ。

 だが此処まで来て奴を見捨てるのも、些か目覚めが悪い。

 ……いや。どの道、此処から抜け出すためにこの蟲を喰らう気ではいたが。

 だが、今すぐに食事を始めなければ、助けられる人間も助けられなくなるかもしれないし……。

 「本当にどうしようか」と、万葉はちらりと周囲のへと視線を滑らせた。その直後――かちりと、何かが万葉に触れた。


『っ……しまっ!』


 ――油断した!


 触れられた個所を万葉が振り返ってみれば、を吸収しようと蠢く肉壁。万葉が貫いた箇所だ。

 ぎちぎちと限界まで引き延ばした万葉の身体が悲鳴を上げている。例え、壊れても自己回復は出来るし、『時』を喰らえば良いのだが……問題が、一つあった。


『ほんと、ふざけてる』


 ふざけすぎていて、笑い出したくなるほどだ。

 ——眼前に広がる光景に、万葉は頭が痛くなった。


 肉壁にある紋様が浮かび上がっていた――術式だ。

 『心臓』が害されれば発動するように仕組まれていたのか、身体の動きを封じるように蠢くと雁字搦めにを見て、万葉は舌打ちした。


(……最悪だ)


 最低だ。最悪だ。全くもって最低最悪の一日だ。

 首。腕。脚。胴体。全身を鎖で縛られるような感覚が万葉を蝕む。触手のようながギリギリと身体全身を締め付けた。


 ――『心臓』を調べるなどと悠長なことを考えている場合では無かったのだ。

 この空洞に侵入した瞬間に。『心臓』を貫いた時に、全て終わらすべきだった。ぬかった。


(っ動けない、)


 術を発動している壁に映る陣は、きのえきのとの文字が刻まれた円。羅針盤にも見える陣の針が差すのは卯の刻――『縛り』に特化した術式だ。

 底無しの量を誇る、蟲の霊力を糧に発動している術は流石に強力である。

 『時』を喰らうことはおろか、万葉は身体を動かすことさえも出来ずにいた。


(また……!)


 じわりと、霊子を食われる感覚が万葉を襲った。だが抵抗しようにもできない。

 ああ、最悪だ。繰り返すようだが、今日は本当に最低最悪の日だ。

 悪臭漂う血肉に埋もれて。霊力を食われて。『縛』られて。そしてまた霊力を食われている。


 ぴしり、とまた何かが壊れる不吉な音が、万葉のを揺らす。

 流石の万葉も、身に危険を感じていた。

 これは早々にどうにかしなければならない。だが、どうすれば良いか分からない。

 単純にあの肉壁に描かれた陣事体をほんの少しでも崩せれば、この忌々しい《手》は解けるのだが、残念ながら万葉は動くことも、『時』も喰らう事も出来ない。

 当然、片瀬桐人は現れない。あの胃腸らしき肉に埋もれたままのはずだ。完全にアウトだ。


(無理やり破るしかないのか……)


 身体の形状を変えようと万葉は、意識を己の《表面》へと集中させた。

 そうして、ハリネズミのように棘を身体から生やそうとするが、全身を包む《手》に阻まれて出来ない。まるで身体を鉄でコーティングされたような気分だ。

 万葉を覆う『縛り』の式は固い。だが破れないわけではない。

 殻を突き破ろうと万葉は《棘》を、より鋭く、強く、押し出そうとした。

 途端、ぴしりとの音が重なった。


 その不協和音に、万葉の息が一瞬、詰まった。


 音の元は二つ。罅の入った白き紋様。そして――黒い糸に走る亀裂。つまり、だ。

 流石に、無茶をし過ぎた。

 一応、こういう事態も万葉は想定していたが、実際に現実に起きてしまうと、いよいよ不安を隠せなくなった。

 このまま無理矢理【術】を破れば、万葉も無傷では済まないのだろう。

 鼓膜を揺らした三つの音は、やはり不吉の予兆だった。


(……あれ、まって)


 ――音が、三つ?


 はた、と万葉は我に返った。

 音が三つとはどういうことだ?

 ――一つは、身体を蝕む紋様から。

 ――もう一つは、万葉自身から。

 ――では、最後の一つは?


(っ……)


 ある違和感を感じた万葉は、思わず陣が描かれた肉壁を振り返った。


(なに、)


 万葉の視界に映ったのは、自身が貫いた壁に広がる黒い、――染み。先ほどまでは無かったはずの、そのを、万葉は注視した。

 どうやら《染み》の原因は、万葉が開けた穴から来ているようだ。

 しゅう、と微かな音と共に、僅かな痛みが万葉の身体に走った。――之は、


(――酸だ)


 肉壁に広がる染みの正体は《炎症》。開いた穴に流れる酸が、肉を焼いているのだ。


(……なんで)


 万葉は困惑した。何故。どうして。何処から。

 そんな疑問が、頭に渦巻いた時だった。ぐい、と強い力でに身体を引っ張られる感覚がした。


(――まさか、)


 万葉の脳裏に、一人の少年の顔が脳裏を過った。

 冗談だろう、と信じられない気持ちで視線を壁へと這わせる。


 それは奇跡に近い――いや、片瀬桐人の捨て身の馬鹿力と、重なった偶然により起きた奇跡だ。


 桐人が、蟲の《胃》の中で形振り構わず広げた《傷口》は、異常なまでの大きさと、深さへと悪化していた。

 腕一本を犠牲にして桐人が作った穴は、一メートル以上の深さを越えなかったものの、胃酸を送り込むには十分な大きさだった。

 そして《万葉》という《太刀》が突き立てられていたのは、図らずも桐人よりも斜め下の位置――彼女が作った道は、液体がには十分な傾斜をしていたのだ。

 しかし、たったそれだけの要素で、遥か遠くにいる万葉の元へと、胃酸が届くわけが無い。

 では、どうやって其処まで酸が通達したのか。答えは簡単だ。


 ――桐人が攻撃したあの《胃》は文字通り、蟲の弱点だったのだ。


 あの肉壁には、捕獲した人間から吸収した栄養を運ぶため、幾多もの霊脈と共に頸動脈のようなものが張り巡らされていた。その、何千何百本の動脈の――そのうちの一本を、図らずも万葉の糸は肉壁ごと貫いていたのだ。

 其処へ、止めを刺すように、知らず知らずのうちに動脈へと伸びていた桐人の手によって、胃酸がに直接してしまった。

 肉壁に出来た、下に続くような穴を伝い、動脈に辿り着いてしまった酸。を、破損と再生を繰り返しながら、一滴一滴、着実に身体中へと運ぶ動脈。――《胃酸》が伝ったは、万葉が開けた穴と繋がっていた。

 偶然にも万葉は、肉壁と一緒に――桐人の傍に張られた動脈と、《心臓》の傍に位置する動脈を――のだ。


 塞がらない傷口から、桐人の手によって延々と送り込まれる胃酸。そして流れる血液に奇跡的に混じった酸はにも、『心臓』が存在するその空間――傍を通る動脈の穴から、じわじわと壁を焼いていたのだ。


 まさに、百分の一の奇跡。


 自己再生が追いつかない速度で酸は肉を焼き続け、炎症を起こし、広がっていった。そうして、その範囲は徐々に万葉の元まで届き、今、彼女の目の前で肉壁を焼いている。


(――嘘でしょう)


 を知らない万葉は、現実を疑った。


 ありえない。

 万葉には今の桐人の状況を把握することは出来ないし、彼が何をしたかなんて想像もつかない。だが、どう考えても少年が位置する場所から、まで影響を及ばすことは不可能だった。


 じわりじわりと、万葉の目の前でが広がってゆく。それは、彼女を縛る陣まで到達し、その円を僅かに焦がしていた。


 ――ぱきり、と何かが壊れる音がした。


 陣が、崩れたのだ。


『……っ』


 万葉の全身を蝕んでいた紋様が薄らぎ、消え始める。どんなに強固な術でも、その陣に傷一つでも入ってしまえば脆く呆気なく崩れてしまう。


 なぜ。どうして。どうやって。未だに様々な疑問が万葉の頭を占めるが、今はこうしている場合ではない。


 ――これは、チャンスなのだ。


 それを機に万葉は躊躇することなく、蟲を喰らう体制を取った。

 考えるのも全部後回しだ。今は蟲を滅することが先決。


 万葉は、を食わねばならないのだ。


(……多いな)


 見ずとも気配だけで分かる。

 通常の許容量を大幅に超える『時』の量に、万葉は目を覆いたくなった。

 『心臓』を見た瞬間から、巨大な肉体を巡る『時』全てを喰らわないと、蟲が止まらないことはもう既に理解していた。

 『心臓』を破壊しても『蟲』を滅しても、無駄な労力で終わることは目に見えている。

 事実、万葉が貫いたはずの心臓は今にも再生をしようと血脈から『時』を吸収していた。

 巨体を循環している『時』を除去して、この『心臓』事体を空にした上で、肉体から切りはなさないと、この『化け物』は本当の意味で死なないのだろう。


 万葉は、まるで自分の『同胞』と相対しているかのような錯覚に陥りそうになって、実に不愉快な気分を味わっていた。

 覚悟はしていたはずなのだが、実際に現実を前にすると自然と彼女の気分は重くなった。


 蟲に流れる膨大な『時』の量と比べれば、万葉の器はあまりにも、小さい。

 小さな《器》に無理に『時』を収めようとしても収まりきらず、横から溢れ出ることは間違いないだろうし、下手をすれば万葉の精神状態を犯しかねない。

 いや。それ以前に、それだけ膨大な量を一体どうやって喰らえば良いといいのか、万葉は迷った。

 食すのに、軽く一年はかかる量なのだ。

 こんな無謀なチャレンジ、万葉は過去に一度だって試みたことさえもない。

 本当に、厄介なことにものだ。


 面倒くさいことに、問題はまだあった。

 『時』を根こそぎ吸収してしまえば蟲は滅せるが、同時に囚われた人間たちも死ぬことになる。


(……仕方ない、か)


 先のことを思考して、「仕方がない」と、万葉は内心、溜息を吐いた。

 とにかく、『時酔い』にならないことを祈るばかりだ。


 心の準備を整えて、万葉はまず糸状の形態を保っている身体を確認した。それから視界を一度、遮断。そうすれば、自然と意識を身体の形状へと集中できる。


 身体の構成を組みなおすために、万葉はとりあえず『心臓』を貫いている糸先へと分子を集めた。

 少しずつ少しずつ。『心臓』を刺す黒い糸先が膨らんでゆく。


 ぷくりぷくり。黒糸に結び目のような丸い膨らみが形成されはじめた。

 風船のように面積を増すは『心臓』の中で成長を続ける。

 黒い塊は砲丸のように硬く、輝きを放たない表面は何処までも深い深い闇を連想させる色へと豹変しつづけた。

 黒い塊のはずが、宙に開いた穴にも見える。


 そんな、万葉が変容しつづける様子を、『心臓』という殻の中に漂う白い蟲は、ジッと見つめていた。


 蟲の視界に映る、黒玉の中に渦巻くのは『時』か『霊力』か。どちらにしてもソレは蟲にとっては『ご馳走』だった。

 白い甲殻が自然とがぱりと口を開く。裂けた咥内には視覚できないほどの小さな歯の羅列が並んでいる。

 蟲は、白い光の糸を其処から伸ばした。

 ふわりふわり。淡い光の糸が黒玉へと接近する。

 さらりと、白い先端が黒々とした表面を――撫でた。その刹那。


『――誰が食べていいって言った?』


 黒玉が爆発した。


 何前何百本の鋭い針糸が内部から心臓を突き刺し、破壊する。

 《蟲》は無力な魚のように串刺しにされ、『心臓』を内包していた肉塊の空洞は黒い糸によって弾けた。


 爆発した黒玉がハリネズミのように棘を生やし、蜘蛛の巣のように糸を伸ばす。


(これで、いい)


 「一先ずこれで準備は出来た」と万葉は身体の力を抜いた。

 貫いた蟲はもう動けない。『心臓』もこれで、自分の手中に収まる。


(あとは――喰らうだけだ)


 これで蟲の『時』を根こそぎ喰らう準備は整った。あとは心の準備を整えるだけだ。

 準備が整った万葉の中に恐怖という感情は無い。

 だが、だるいとは思っていた。万葉にとって『食事』は生きる上で必要な行為だが、好きなわけではない。むしろ、面倒臭いと日ごろ常々思っていた。

 何より、人の『時』に至っては、苦手だ。相手の感情や記憶が流れ込むことが稀にあるその行為は、ふと自分が別人になったような錯覚を万葉に覚えさせるもので、なんとも形容のしがたい不快さで心を苛むのだ。


 だが、こうなってしまっては仕方がない。万葉は既に桐人と約束してしまったのだ。

 正直、反故にしてしまいたい気持ちもあるが、それは流石に無責任にも思えたので、万葉はなんとか耐えた。


 もう、後戻りはできない。


 今は人型でない故に深呼吸はできないが、万葉は鼓動を落ち着かせる自分を想像して。視界を閉じた。


 万葉の脳裏に映るのは『流れ』――人が築いてきた時間。生の源とも言われる『さだ』。

 今、万葉の眼前で、蟲に囚われた人間たちの『時』が光の粒となって、川のような広大な流れを作っていた。

 偉大で。壮観で。触れ難い神秘の輝きを放つその景色に、万葉は知らず息を飲んだ。


 ――ああ、本当に酔いそう。


 だが、いくらその偉観な光景に圧倒されようとも、胸に渦巻く憂鬱さを忘れることは出来なかった。

 膨大な量の粒子に、万葉は瞼が半分まで垂れ下がる心地がした。

 これを全部喰らうのかと想像するだけで、眩暈がする。

 だが、やるしかない。

 怖気づく己を叱咤して、さきほど伸ばした自身の糸先へと感覚を研ぎ澄ませる。

 最初の一口を、万葉は喰らった。


『……っ』


 『食事』を始めた瞬間、早速喰らったことを後悔し始めていた。


 張り巡らせた糸から『時』を吸収し始めた途端に、点々と見え始める人の『灯』。

 蟲に囚われた人間全ての気配が万葉の脳へと直撃し、夥しい程の人の気配に万葉は混乱しそうになったのだ。

 胃から吐き気が競りあがってくる。頭の中を、鐘のような衝撃が猛追してきているかのようで、理性を手放してしまいたくなる。


(っうるさい……!)


 声が聞こえたわけではない。だが魂の声か、人の『記憶』か、喧しいと思ってしまうほどの『何か』が、万葉の頭の中でざわついていた。

 暗い暗い海底で、激流に流されているかのような心地がした。

 抗う術も力も無く、ただただ流されるしかない、莫大な『時』の渦の中で、自分を見失ってしまいそうな恐怖に万葉は屈してしまいそうになる。


 ――『命』の数が多すぎるのだ。

 こんな大量の『時』を取り込んで、冷静で居られるわけがない。考えただけでも、万葉は頭が可笑しくなりそうだった。


 どこかにある、万葉の心臓を得体の知れない浮遊感が襲っている。

 もう何が何だか、分からない。

 動くことも出来ず、そのまま他人の『時』の流れの中で、迷子になってしまいそうな時だった。


 ――誰かに手を引かれたような気がした。


 ふと、万葉は振り返る。

 其処には誰も居ない。だけど、この手の感触は覚えている。

 此処に来る前から、ずっと万葉を掴んでいた手だ。


 ――『今、此処で諦めたら……後で死にたくなる……!』


 必死に食らいついてくる少年の声が、万葉の耳奥で蘇った。

 瞬間、視界が開き、現実へと意識を引き戻される。


 見ずとも、万葉には分かった。狭まる肉壁に潰されそうになりながらも、必死に抗っているであろう少年の姿が。

 ぎゅうっと、糸先を通して彼の熱い体温が伝わってくる。

 何が何でも離さない。現状を打開しようとしているそんな彼の意思を読み取って、万葉は、ふと笑いが込み上げてきた。


(まだ、放してなかったのか)


 もし人型に戻っていたならば、万葉の口から、呆れを含んだ吐息が零れていたことだろう。


 未だに莫大な『時』の流れの中に居ながらも、意外な『命綱』のお蔭で、万葉は自分を見失えそうにない。

 手を貸してやっているつもりが。逆に助けられたような気がして、釈然としない気持ちを覚えた。


 けどそんな情けなさに蓋をして、万葉は、目の前の問題へと再び向き合う。

 流れ込む人の感情、記憶、意思。膨大な数の『命の灯』を前に、今度こそ大きな大きな『一口』を開けた。


『――いただきます』


 一息だ。

 一息で全てを吸い込もうと、全身の力を抜く。


 まずは、『蟲』の本体。それから『心臓』。そして自身が貫いている肉塊。

 其処らにある『時』を喰らい続ければ、自然と『蟲』の全身を循環していた『時』は、全て万葉の元へと終着する。


 唯、只管に、食事を続ければ、いずれ『蟲』の『時』は底を尽くのだ。

 考える必要はなかった。

 唯、一心不乱に食らい続けていたら、気がついた時には事が終わっていた。


 見えざる淡い光の激流が、黒い糸を伝って、その根元である万葉の体内へと終着していく。

 『時』を根こそぎ奪われた部位から生気が消え、ドクドクと伝わっていた心臓の鼓動も徐々に引いていった。

 機能が途絶えた肉壁が毒に汚染されたかのように、赤から透き通るような薄紫色へと変色してゆく。


 数分。いや、一秒にも満たなかったかもしれない。


 今にも爆発しそうな勢いでバクバクと鼓動を刻んでいた心臓が、色を失うと同時に停止した。

 そうして、静寂が空間を支配したのも束の間。

 ぴしり、ぴしり。蚯蚓の中心部から、その器の先まで、罅が入ったかのような音が彼方此方から響きはじめた。

 幾多もの亀裂が内部に走り渡り、そして――『蟲』だったものが硝子のように弾け散る。


 瞬間、《地》が揺れるような衝撃が空間を襲う。

 囚われていた人間が霊脈から解放され、彼等が形成していた蚯蚓の肉体も崩壊を始めた。

 パラパラと肉壁の皮が剥がれ落ち、囚われていた人の姿が露わになってゆく。

 もし、万葉が人の形態へと戻っていたなら、に胡乱気な眼差しを向けていたことだろう。


 骨格が浮き出るほどに痩せこけた頬に、干乾びたようにも見える身体。骨と皮しかないその姿は百を超えた老人か、ミイラのようだ。

 文字通りを失ったその姿は、万葉が再生を許すことなく『蟲』を滅するために、『時』を根こそぎ喰らった結果だった。

 ちらほらと彼方此方で万葉の餌食になった人間たちの姿が視界に映る。恐らく、蟲に囚われていた人間すべてが同じ姿をしていることだろう。


(……きも、ちわるい)


 崩壊の気配が強くなり始める空間の中、万葉は強い嘔吐感を覚えた。


 全身をザワザワと何かが這っているような感覚が覆う。いや、寧ろ、身体の内側で何かが暴れ回っていると形容すれば良いのか。

 突然の大きな不調のため、万葉がまず神経を使う糸状の形態を解こうと全身の力を抜いた時だった。


 ぐい、と何かに引っ張られた。


『ちょっと……っ!』


 肉壁から突き出ていた万葉の身体が再び中へと逆戻りし、強力な力で壁の向こう側へと、ずりずり引きずりぬかれてゆく。

 その衝動で緩んだ糸の形状が崩れ、万葉は慌てて刀身へと戻ろうとした。

 だが、そうしている間にもズルズルとの部分を引っ張られ、先程の不調と胃を襲っていた吐き気が胸へと競りあがってゆく。


 誰だ。と柄を包む強いぬくもりを振り返らずとも万葉は事の元凶を察し、暴言を吐きたくなった。


 自身を蝕む不快感に耐えながら、取りあえずこの肉塊から引きずり出されるのを待つ。

 するとスポリと刀身の先端が肉から抜け、先程の空間と比べれば幾分か澄んだ空気に、万葉は内心ほっとした。

 そして湿り気と熱を失った空気に感動するも、一瞬で終わり――少年の驚いた間抜け顔が、万葉の視界に映った。


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