25.
蟲の呪縛から解放された桐人の顔は、ところどころ火傷のような痕を負っていた。
顔に限らず、首から腕まで。制服もボロボロだ。
指先もあるはずの爪が無く、なんとも悲惨な状態になっている。そんな自身の状態に、本人は気づいているのか気づいていないのか――桐人は目を白黒させながら、周囲を見渡していた。
「――えっ? え?」
だが、それも無理もないだろう。
蟲に何か異変が起きたかと思えば、突然大きな揺れが地を襲い、迫っていたはずの肉塊が機能を停止させたのだから。
気がつけば纏わり付いていた肉塊も萎縮し、徐々に熱を失い始めていた。
とにかく状況を把握しようと目を凝らし、桐人は周囲を確認する。途端、頭から血の気が引いていった。
「ひっ……!?」
ある物を見つけてしまい、引き攣った悲鳴が漏れる。
肉塊に埋まっていた人間の身体が何体も浮き彫りになっていたのだ。眼前から足元。背後までもが、『人だったもの』で囲まれていた。
視界に映るそれらは干乾び、見え隠れする面持ちはどれも生気を失っている。
――死体の壁だ。
現実味の無い。テレビの画面越しに見ているかのような感覚で、桐人は現前に広がる光景を呆然と仰視した。
『――ぅぷっ……』
うめき声にも似たソレを鼓膜が不意に拾い、桐人は下を向く。
すると、自分の膝の上に転がる太刀に気づいて、慌ててそれを拾い上げた。
「先輩……! これ、一体どうなってるんですか!?」
混乱する頭で必死に状況を把握しようと、万葉を問い詰める。
本当に訳が分からない。
蟲の内部が機能を停止したかと思えば、生気を失い、更に囚われていた人間までもが似たような状態になっていた。
蟲はどうなったのだ。
この人たちは何故、こんな惨い姿になっているのだ。
疑問は次から次へと溢れては、沈み、深い深い闇を残す。
まさか、この人間たちは霊気を全て吸い尽くされて、栄養として蟲の糧にされ、力尽きて死んでしまったのか。――この蟲に囚われた人間、全員。
ばくばくと桐人の心臓が、音を打ち鳴らす。今にも破裂するのではないかという程の、激しく大きな心音だ。
答えを。早く、答えを。願わくば、己の望む答えを。
急く気持ちで桐人は、目の前の大太刀を一心に見つめる。
そういえば、先ほどから何やらカタカタと震えているようだが、何かあったのだろうか。
気のせいか――刀身が鈍く光っては、暗い色に戻ったりと、点滅を繰り返していた。
その様子がまた、桐人の不安を余計に助長させる。
せ、せんぱい。と、頼りなくか細い声が零れる。
もしや、蟲にやられたのだろうか。
不安という名の毒が桐人の心を満たし、その真っ白な顔を悲壮感で歪ませようとした時だった。
数拍の間を置いて、万葉は静やかに言葉を口にした。
『安心して、片瀬くん』
「……え?」
それは優しく、絆すような、けれど重々しい宣託にも聞こえた。
落ち着いた声色は、力強く、自信で満ち溢れている。が、どことなく冷たい。
我知らず、桐人はそんな万葉に強い安心感を覚え、一字一句も聞き逃すまいと耳を傾けた。そして。
『――今から、しっかり吐くから』
「――えっ?」
微かに沈んだその声色を耳にして、思考を放棄した。
『……ぅっ』
「え……!? え、うそ!? え? ちょっ、先輩まっ」
なにやら不穏なうめき声を上げる彼女。それに嫌な予感を覚え、桐人は待ったを掛けようとした。途端――大太刀が目の前で爆発する。
いや、爆発というよりは発光したと形容した方が良いのかもしれない。何千何百もの光の粒子が眼前で飛び散り、霧散したのだ。
それを不覚にも間近で視覚してしまった桐人の視界が、チカチカと点滅し、眼球裏を鈍い痛みが襲う。
(なんだ、これ……?)
――蛍光色に光る銀河が、目の前に映った。
視界が暗転する度に、枝のように幾多にも伸びる光脈が、桐人には見えた気がした。
その現象は、光を裸眼で直接浴びたことによるものか、或いは、別の理由からか――。
突如起きた異変に桐人は目を覆いながら、困惑した。
「せん、ぱ」
この症状の原因は恐らく万葉だろう。
一体どういうことなのかと、彼女に触れようと手を伸ばした。するととん、と指先が何かに当たる。
なんだ、と手を這わしてみれば人肌だった。だが、あのミイラのような乾いたものではなく、しっとりとした感触だ。心なしか、温かい。
その事実にハッと息を飲むと、桐人は双眸から手をどける。未だに眼球は痛みで疼いていたが、視界が点滅することはもう無い。
そろそろと瞼を上げて、ぼやけた視界を凝らした。
ゆっくりゆっくり。視界が徐々に色と輪郭を取り戻し始める。
「……っ、」
桐人は目を見張った。
夢ではないか、と頬をつねる。痛い。どうやら現実のようだ。
次に、目の前の身体に触れてみる。やはりしっとりとしている。そして暖かい。
「……いき、てる」
ぐるりと周囲を、見渡した。
先程の干乾びたミイラのような面影など欠片さえも無い。桐人が坐する空間には目の前の身体、否、『人間』と同じように胸を上下させながら、眠る者たちが居た。裸の女性もいたが、今は気にしている余裕はない。
どくどく、と先程とは違う意味を持って、桐人の心臓が早鐘を打つ。
眼前に広がる現実に思考が追いつかない。
ただ、何処か信じられない思いと、夢のような感覚が桐人の頭を襲っていた。
まるで薄いベールが一枚、目の前の現実を包み込んでいるかのようだった。
触れようとしても、直には触れられない。そんな夢のような出来事が目前で広げられているような心地だった。
それでも、今の光景こそが現実なのだと信じたくて、確かめたくて、桐人は手を伸ばした。
「いきてる」
喉、手首、胸。其処に手を当てて、また次の人間の鼓動を確認してゆく。
「いきてる。いきてる。いきてる」
確かめれば確かめるほど、自身の鼓動が速まっていく。頬に熱が集まり、自ずと口角が上がるのが、自身でも分かった。
そうして気が進むまで手の届く範囲にいる人間たちの生存を確認すると、再び目の前に横たわる人間――『少女』に目を向けた。
「こんなに、近くに居たんだな……」
首元まで流れる黒髪に、友人とは似ても似つかない可愛らしい面立ち。
恐る恐る。安堵と感動と、直ぐ傍に居たことを気づけなかった事実への罪悪感を抱いて、そっと彼女の顔に掛かった髪を退けた。頬をするりと撫でて口元に手を翳し、再度呼吸を確認する。
指にかかる吐息の暖かさも、くすぐったい感触も、紛れもなく実感の湧くものだった。これは、夢でもなければ幻でもない。
「よかった……ほんとに、よかった――菜々美ちゃん」
外傷も見当たらなければ、異常性も見当たらない。ちゃんと五体満足で息をしている彼女を前に、桐人は早くも泣きそうになった。
つん、と鼻奥が痺れを覚え、喉が震える。漏れ出る吐息も既に震えていた。
(……良かった。これで、風間に会いにいける)
いや、でもまず病院で検査をしてもらって、様子を見ないと。ああ、でもそんなことになれば風間に一体何があったのかと怪しまれる。どうしようか。ここは土御門に頼んで――
湧き上がる安堵と喜びと興奮に。思考が躓きそうになりながらも回っていると、不意に呆れた声が桐人の耳奥で響いた。
『なにしてるの、きみ?』
「――先輩!」
足元に転がる太刀へと視線を移せば、不思議と彼女の呆れた表情が見えた気がした。だが桐人は構わず興奮したように、口を開く。
見る見る急変した事態に、未だ冷静さを失っていたのかもしれない。
「先輩。見てください! 皆……」
『いたいけな女の子の裸を目で嘗め回すのは良いけど……そろそろ、この抜け殻も崩れるわよ』
「いやっ! ちがっ! コレはっ――て、え?」
なにやら誤解を招く発言に焦り、訂正を入れようとした。が、その一拍前に聞き捨てならぬ音を拾い、桐人は静止する。
ぴしり、と亀裂が床を走る音がした。それは床に留まらず壁や天井までを襲い、パラパラと小さな粒子が桐人の頭上から降ってくる。
「え……」
『囚われた人間全員無事ではあるけど、コレが崩れたら無傷では済まないかもね』
「ちょっ、先輩……崩れるって」
まて、それは一体どういうことだ。崩れるって、何がだ。――まさか。
なにやら不穏な言葉を並べる万葉に、桐人は口元を引き攣らせながら説明を求めた。だが答えるを得ようとする間にも、状況は悪化していく。
「――え、」
ガラスが割れたような。風船が弾けたような。そんな音がした。
冷たい空気がひんやりと、桐人の肌を刺激する。閉じこもった空間から脱出できたような開放感に、身体が見舞われた。
視界に映るのは宙に舞う沢山の人間と、紫に混じる群青色――夜明けだ。
久々に見た気がする、その深くも切ない大空に、桐人は目を奪われ、不可思議な感動で胸を満たされる。
いつもなら「ああ、もう夜が明けるのか」とか、そんな何気ない感想を抱いたかもしれない。だが、今の桐人にそんな余裕が与えられることはなく――。
「ちょっ……!」
身体が浮遊感に襲われたのも一瞬。デジャヴ。気が付けば、『二回目の落下』を少年は、経験していた。
「ちょっとォおおおおおおおおお!?」
空気圧が全身を打った。
まさかの危機に思考が止まる。
文句とも奇声とも言える悲鳴を叫べたのも、たったの一秒だけだ。突然、空中に身を投げ出されると、人間は恐怖のあまり、口を引き攣らせることしか出来ないらしい。ジェットコースターのようには、いかないようだ。
無意識に食い縛った歯を冷たい空気が叩く。その刺激で、桐人は一瞬だけ正気を取り戻せた。
腕に柔らかい感触と、暖かい体温が当たった。誰かの黒髪が視界の端で舞う。
どうやら無意識にも風間菜々美を守ろうと、咄嗟に彼女を腕の中へと引きよせていたらしい。
――この子だけでも。
肌を刺す空圧に意識を呑まれそうになりながら、桐人はぎゅっとこの先の痛みを覚悟するように目を瞑る。
腕の中の少女を、襲う衝撃から腕と肩で覆い隠そうと、背中を必死に丸めた。
一瞬一瞬。地上へと、人が雨のように迫っている。
次の瞬間には、肉の潰れる音と血飛沫がアスファルトを染めていることだろう。
一瞬の間に、脳裏を過る光景。それを想像した瞬間に、衝撃が桐人の背中を襲った。
グンと、何かが伸びる音が鼓膜へと届く。アスファルトに伸縮性などあるはずがないのに、床に吸い込まれるような感覚に桐人たちは覆われた。
まるで柔らかなトランポリンのように、限界まで背中の材質が伸び、桐人を地上へと押し返すように戻る。同時に肺が圧迫感に襲われ、桐人は息を詰めた。
「……っ」
背中に当たる床の感触はあるのに、大地に衝突した痛みがまるで襲ってこない。
不思議に思って、桐人は恐る恐る目を開いた。
紫にかかる微かなオレンジ――淡い光で覆われた空が、遥か遠い頭上で広がっていた。
「――情報官と鑑識官は生存者の確認を!」
「――そのままゆっくり下ろせ!」「――官、蟲の断片が」
怒号や声が桐人の耳元へと流れ着く。ゆっくりと視線を動かせば、彼方此方を走り回る陰察官らしき影と淡白い『床』が見えた。
薄透明色にも見える『床』は、良く見れば大きな四角い絨毯のようで、以前目にした、土御門春一の結界によく似ていた。
ああ、もしかして助かったのだろうか。いや、もしかしなくともそうなのかもしれない。場は騒然としているが、蟲が蔓延っていた時のような殺伐とした空気を感じない。あるのは、困惑と慌ただしさと、緊張感を孕んだ空気だった。
ぼんやりとそんな思考をしながら桐人が目を回していると、不意に紅い影に抱かれた少女が視界の端に映った。
(……かや)
瞼は閉ざされているが、頬がほんのりと色付いている。その姿を目にして、桐人は我知らずホッと息を零した。
良かった、無事だったようだ。
(……終わったのか)
なんとなく、そう思えた。
これだけの人や式神が見えても、蟲らしきものは何処にも見当たらないのだから――きっと、終わったと言っていいのだろう。
ああ。怒涛のような勢いだった。
ワケも分からず、自身の知らないうちに事態が収束した気がする。
(せんぱいは……)
きっと全てを終わらせてくれたのであろう、今回の立役者である大きな黒太刀を、桐人は探そうとした。だが、身体は言う事を聞いてくれず、鈍い痛みと疲労感を訴えるだけだった。
(いってぇ……)
脚も腕も、全身が屍のように力を失っている。だらりとした倦怠感が桐人の身体中を巡っていた。
長時間酷使してしまった筋肉が悲鳴を上げる。かなり無理をしすぎたようだ。身体のどこかが、じくじくと痛みを訴えている。爛れたような火傷を負った腕だろうか。
(くっそ……)
言う事を聞かない体に桐人は悪態を吐いた。だが、その悪態と反して、脳は急激に休みを求めるかのように意思を鎮めようとしていた。
思うように動かない身体に桐人は苛立ちを覚えたが、それも徐々に泥沼のような闇へと沈められてゆく。
とろり、とろり。視界も、意識も、気が付けば暗転していた。
♢ ♢
「――ああ、」
――小鳥の囀りのような、ともすれば猫の鳴き声のような、甘く軽やかな声がビルの屋上に木霊した。
明朝。群青色のキャンパスに、紫が波のようにさざめく大空の下。
緑とも白とも取れる淡い光の雨が、西新宿を照らしていた。
原型を失った蟲の巨体は肉片と化して、ボロボロとアスファルトの地へと降り注ぐ。そこに交わる蛍火のような《光》は儚くも悍ましく、どことなく美しい。
色を失った血肉と共に落ちる人間たち。蛍火を生み出している陰察官たちが何かを叫んでいる。死者でも出たのだろうか。
光の根源から随分と距離が離れたビルから騒動を鑑賞していた少女は何が楽しいのか、口元に微笑を湛えていた。
蛍光色の粒子が風に乗って、彼女の元へと流れ着く。こうして見ると、まるで火の粉のようだ。
純白色の絹糸に淡い緑色の光が混ざるが、あまり気にした様子もなく少女は、遠くの景色をただ眺めていた。
長い髪を靡かせながら、口元に弧を描いたまま、彼女は残念そうに声を洩らした。
「――終わっちゃった」
♢ ♢
事件後。
――半径五百メートルまで渡る街の破損。
凡そ十八名もの陰察官が負傷し、二百にわたる被害者の数が確認された。
事件の首謀者と思われる人間の影を坂下光秀捜査官が見つけるも、結局捕まらず。
時間は、五月二一日、午前五時五九分。
収束したはずの事件は、未だに謎が残っている。
突然崩壊した不死の蟲。無傷で解放された全ての被害者たち。前触れもなく収まった事態は、陰察庁にとっては、素直に喜べるものではなかった。
何のために。何故、この事件が起きたのか強い疑問は残されたまま。
――後に『蠱怪奇事件』として呼ばれるこの騒動は、陰察庁に大きな爪痕を残すこととなった。
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