16.

 六月十七日。小宮高校二年B組教室。

 授業も終わり、生徒たちがそれぞれに帰宅の準備をしている中で、なにやらコソコソと動く怪しげな影がいた。

 すり足で歩いているわけではないが、背中を丸めている。おそるおそる、といったような感じだ。

 一歩、二歩、三歩。そうしてあと少しで出入り口に着く、といったところで別の誰かが声を上げた。


「――片瀬」


 ぴしり、と少年の背中が固まる。声をかけた誰かが、ポンと彼の肩を叩いた。


「どこへ、行くんだ?」

「い、いや……もちろん。帰ろうと」

「俺に、挨拶もなしに?」

「か、風間にはしたぜ?」


 「ふーん」と、白い目を向ける勝久に、少年――桐人は気まずげに視線を泳がせた。


「佐々木先輩」


 たらり。程よくやけた少年の頬に冷や汗が垂れる。

 勝久の眼がぎらりと光った。


「やっぱり、そうなんだな」


 我知らず一歩下がった桐人を勝久がじりじりと追い詰める。


「――お前、先輩と密会なんてして! 俺は捻挫して病院送りにされたってのに、あんなところでイチャイチャしやがって! 病院を何だと思ってやがる!」

「いやいや。そんなんじゃねーし」


 どうやら先日万葉と相談していたところを見られていたらしく、桐人はヒヤヒヤと勝久の罵倒を耳にしながらこの場をどう凌ぐか黙考した。

 勝久の声も大きく、周囲に聞かれていやしないかと視線を走らせるが、勝久の嘆きっぷりは最早日常の一部と化しているようで、誰も気にしていなかった。

 だが、一人だけ過敏に反応する人間がいた。


「――なに? 片瀬、佐々木先輩といつのまにそんな仲になったん?」


 風間だ。

 佐々木万葉とは知り合いなこともあって、桐人の意外な交流に興味津々と割り込んできた。


「いや、あの。その、偶然会って」

「へぇ……けど、なんで病院?」

「お、俺は一応、検査があって」

「お前、どっか悪かったっけ?」

「ま、前の怪我だよ! その後の、経過チェックというか」

「……先輩は?」

「あ、あー。病院の前にでかい公園あるだろ? 散歩で偶々、いて」


 苦しい。途轍もなく苦しい言い逃れの仕方だが、これが桐人に出来る精一杯であった。

 空笑いをする桐人に、風間は一つ頷き、勝久はどこか不満そうな顔をしていた。


「で?」


 と、凄んだのは勝久だ。


「なんで、コソコソ教室から帰ろうとしたんだよ。俺に挨拶もなしに」

「いや、だってお前朝からうるさかったし、またギャアギャア言われそうだから。別に良いだろ。先輩とちょっと話したぐらいで」

「……妖しい」

「しつけーよ」


 ジト目で睨んでくる勝久を桐人は疲れたように遇らおうとした。


「それより、お前ら部活だろ? こんなところで時間潰してていいのかよ?」

「ああ、そろそろ行くわ。ほら、行くぞ勝久」


 時刻に気づいた風間が勝久を連れて退散しようと呼びかけた。けど勝久は動かない。


「おい、遅れるぞ」

「……いかない」

「は?」 


 まさかの拒絶の言葉に風間の眉間に皺が寄る。だが勝久は意に介さず、代わりに己の足を指し示した。


「俺、足怪我して動けないもん。先生にはしばらく練習には参加せず大人しく見学してろって言われてるし」

「……いや、行けよ」

 

 ぼそりと桐人が呟く。


「それにちょっと足がジンジンしだしてきてるから、保健室に行ってくる」


 その発言にとうとう諦めたように風間が溜息を吐いた。

 

「わかった。じゃあ、先生にはそう伝えとくわ」

「うむ。頼んだ」

「うるせぇよ。じゃあな、片瀬。お疲れ」


 腕を組みながら揚々と首を縦に振る勝久の頭を一度叩くと、そのまま風間は教室を後にした。

 そうすれば自然と残るのは桐人と勝久の二人で――。


「さぁ、行こうか片瀬君」

「いや、どこへだよ」

「佐々木先輩」


 まるで確信しているかのような力強い笑みで、彼女の名を口にする勝久を前に、桐人はいよいよ逃亡したくなった。


「……なんで、そこで先輩が出るんだよ」

「だって約束してるんだろ?」


 飛び出た発言に、桐人が思わず己の耳を疑う。眼前の相手を凝視すれば、まるで敵を打ち取ったような誇らしげな表情を向けられた。

 まさか、会話を盗み聞きしていたのだろうか。

 予想外の事態に、桐人は頭を抱えそうになった。

 この状況をどう切り抜けるかと必死に思考を回す。すると、思わぬところから助けが入った。


「――片瀬桐人」


 できれば聞きたくなかった声が耳元まで流れ着き、桐人の身体が再び硬直する。震えそうになる身体を懸命に動かし、背後へと振り返った。


「土御門……先輩」


 隣で、勝久が目を丸くする。だが土御門春一は構うことなく淡々と桐人へと話しかけた。


「少し、話がある。来てくれ」


 特に強い口調で喋っているわけではないが、目に見えない圧力を感じて桐人は静かに足を動かした。ついでに、友人に断りを入れることは忘れない。


「悪い、勝久。ここで」

「お、おう」


 土御門の絶対零度のような雰囲気に珍しく気圧されたのか、勝久が大人しく引き下がった。

 どことなく呆然とこちらを見送る奴を横目にしながら、桐人は寒気を覚えた。

 かつりかつりと灰色の廊下に無機質な靴音が響く。先を歩く紺色の背中に緊張せずにはいられない。

 しばらく歩いた先は人通りの少ない裏庭で、其処は図書館に近かった。

 視界に静観と広がる緑に癒されることはない。「静けさ」という無音は、安らぎとは程遠い緊張を少年に齎した。


「あの……」


 静寂を破ったのはちっぽけな勇気を振り絞った桐人だ。話とは一体なんだろうかと、視線で土御門春一に訴える。すると、墨色の瞳が少年を射抜いた。


「佐々木万葉から話は聞いてるな?」


 どきりと、少年の心臓が跳ねた。

 目の前に佇む男の双眸を見れば、そこには相変わらず温度がない。

 

「……はい、昨日聞きました」

「そうか」


 土御門春一が言っているのは恐らく、昨日佐々木万葉が話していた捜査協力についてのことだろう。

 自ずとそれを察した桐人に、春一は続けた。


「腕輪のこともあるから、自然と共に行動をすることも増えるだろうが、俺が捜査協力を依頼したのはあくまでも佐々木万葉だ」


 それは釘を刺すような言葉だった。

 過去の桐人の行いもある。春一は警戒しているのだ。


「分かってるとは思うが、勝手なことはするな」


 きっとこのために春一は己を呼び出したのだろう。事の重大さを知らしめるために。自分の行動次第でどれほどの問題が起きえるのか。その懸念を示すために土御門春一はわざわざ桐人の元へと顔を出したのだ。

 それほどまでに、片瀬桐人は一種の目の上のたんこぶへとなりつつあった。本当なら、春一は佐々木万葉一人に調査を進めさせたかったのかもしれない。そうすれば、彼もなんの憂いもなく経過報告も待てただろう。だけど桐人だけを切り離そうとしても、出来ない理由がある。


 少年の握られた拳が、徐々に白く染まってゆく。

 それを傍目に、青年は用事は済んだとばかりに背を向けた。


「言いたいことはそれだけだ」


 時間を取らせて悪かったな、とだけ言葉を残して去ろうとした。すると、少年が咄嗟に声を上げる。


「あの、このことって花耶たちには」

「何も話していない」


 話したければ自分で話せば良い。花耶たちのことはさほど気にかけていないのか、春一は簡単にそう告げた。

 芝生を踏みしめながら今度こそ去ろうと春一は動くが、ふと何かを思い出したように立ち止まった。


「……一つ言い忘れていたことがある」


 暗い瞳が再び、桐人へと向けられる。能面のようなその表情に桐人は、思わず身構えた。


「お前は以前沢良宜の行動について彼女を責めたことがあるが」


 心臓が一際大きな鼓動を刻んだ。

 桐人の目に、ゆっくりと動く薄い唇が映る。温度のなかった瞳に、冷やかな色が宿った。


「――お前の方が、質悪いよ」


 それは、桐人の耳にひどくこびりつくものだった。



 ♢


「――すみません、先輩。お待たせしましっ」


 土御門春一との密談もどきも終わり、やっと図書館へと向かえるようになった桐人は先程とは違う緊張感を胸内に抱えながら、入り口を通った。

 その次の瞬間、予期せぬ光景に言葉を失う。


 窓際の観覧席に腰かけて、静かに本の頁を捲る佐々木万葉の姿はいつもどおりだ。だが、問題は彼女の正面の席に腰かける男にある。

 はくはくと桐人は口を開けた。


「……か、かつ」

「おぉ、きーりとぉ! 遅かったじゃねーか!」


 ――きりと?

 いつもは苗字呼びの男に、桐人はくらりと眩暈を覚えた。

 ぐしゃぐしゃではあるが、微妙に格好がついているように見えるようセットされた頭。程よく灼けた肌に、白い歯。にひゃりと笑う顔は嫌というほどに見慣れたものだった。


「勝久、お前……部活どうした」

「きゅうけいちゅう!」


 返ってきたのはなんとも馬鹿っぽい声だった。

 それにひくりと口端を引きつらせながら、桐人はそろりと気づかれないように万葉を盗み見た。 

 我関せず、と本の文字を追う秀麗な横顔に、嫌な予感をひしひしと背中から感じた。

 痛む米神を押さえながら、眼前で仁王立ちする友人に、桐人は再び向き合う。

 

「……で、なんで此処に?」

「見りゃ分かるだろ? 佐々木先輩とちょっと雑談してたんだよ。べ、べんきょうついでに」


 いや、まったくそうは見えないのだが。

 最後の言葉だけ口籠る勝久に桐人はいよいよ胡乱気な目を向けた。 

 ちらりともう一度万葉の方へと覗き見れば、今度は視線がかち合った。


「用事は済んだの?」

「あ、はい。お待たせしてすみませんでした」

「構わないわ。土御門くんが予告なく他人を呼び出す不躾な人であることは大分前から知っているから」


 ――立場と相手はちゃんと弁えて選んでいるようだけど。

 ぼそりと、最後に呟かれた辛辣な台詞を桐人は敢えて聞かなかったふりをした。

 本を閉めながら、静かに万葉が席から立ちあがる。それに反応したのは勝久だ。


「あ、先輩……もう行くんすか?」

「ええ、これから用事があって。先に失礼させていただくわね。話、面白かったわ。私の暇つぶしに付き合ってくれて有難う」

「い、いや! こちらこそ邪魔してすいませんでした!」


 残念そうな顔をする勝久に、万葉が笑顔を見せれば、すぐに太陽のような輝かしい笑顔が返ってきた。

 その様に万葉は苦笑すると、本を棚に仕舞って桐人に視線で図書館の入り口を差す。出るぞ、と言いたいのだろう。

 その指示に従うように桐人は勝久に別れを言うと、やはりというか、当然の指摘をされた。


「片瀬も一緒なのか?」


 桐人、と呼び捨てにするのはやめたらしい。

 勝久の最もな疑問に桐人は狼狽え、万葉が冷静に答える。


「ええ。ちょっと約束があってね」

「……そう、なんですか」

「それじゃあね」

 

 そう言って颯爽と背中を向ける万葉。どうやら下手な隠し事をするつもりはないらしい。

 優雅な足取りで歩くその姿を横目にしながら、桐人も勝久へと後ろめたい気持ちで別れを告げようとした。


「わるい、勝久。先、行くな」

「おう。また明日な」


 ぽつんと、一人寂しそうに取り残された勝久。どことなく哀愁漂うその姿に後ろ髪をひかれながら、その場を後にしようとした。途端。


「――片瀬」

「うん?」


 幾分かいつもより真面目な表情をしている勝久に、桐人は再び嫌な予感を覚えた。


「抜け駆けは、許さないからな」

「……うん?」


 ……なにやら、面倒くさいことになりそうである。

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