第二章 消失する亡霊

1


 ──時は戻って今は七月の末になる。

 ようやくと言うか、いよいよと言うか、それともまだまだと言うべきなのか、夏は本番を迎えようとしていて、外は地獄のような熱気に満ち溢れている、かと思えば今日のように雨が降る時もあるので、大学内でも体調を崩す人が頻発しているらしい。

 長い追憶の彼方から戻ってきた湊はぐっと両手に力を入れた。

「そうですか。あれからもう一ヶ月なんですね」

 目の前のベッドに腰掛けていた白峰は懐かしむようにそう呟いた。

 あの事件の後、湊は何度かこの部屋を訪れていた。

 理由は白峰に会いに来たなんて可愛いものじゃない。

 いや、会いに来たのは間違いではないのだが、そのほとんどは彼の頭脳を頼りに来ているのであって、色恋沙汰などではない。

 例えば、友人の財布が無くなったとか、迷子の子供がいただとか。些細な事まで頼りきっている始末。

 それが虚しい事であると自覚はしているつもりだが、どうにもならないと諦めている。

 というか、先ほどの二件を含む殆どの些細な事は真紀による依頼なのだが。

「また何かあったんですか?」

 聡明な彼の事だ。今日訪ねた時点で既に察しているのだろう。

 優しく──その中に少しの呆れを含んで──白峰が問いかけてきた。

「えっと、その、なんと言いますか」

 湊は口ごもりながら、言葉を選択していく。

 今日の用事は今までのとは一味違う。

 本来ならこんなお願いをする筈もなかった。

 だが、これも全て真紀のせいだ。

 ──真紀の馬鹿!

 元凶のニヤニヤとした笑顔を思い出し、内心で毒づく。

 同時に、顔に熱が集まってくるのを自覚した。

 けれどここまで来てしまったのだから退く訳にもいかない。

 大きく息を吸い込むと、湊は震える声で言った。

「実は、明後日の日曜に、ちょっとしたイベントがあって……」

「イベントですか?」

 怪訝そうに白峰が聞き返す。

「あの、杉竹すぎたけ春真はるまって作家知ってますか?」

 湊がそう訊くと、白峰は「当然です」と頷いた。

「最近、一気に注目され始めたミステリー界の鬼才きさいですよね。彼のデビュー作である『悪意あくい』は凄かったです」

 どうやら白峰も知っていてくれたらしい。

 湊は少しだけ嬉しい気持ちになった。

 杉竹春真は最近、一気に注目され始めた年齢も性別も不明の謎多きミステリー作家である。

 白峰の言う杉竹のデビュー作である『悪意』はミステリーではあまり見かける事のない犯人の視点で物語が描かれている。

 ──人を殺してみたかった。そんな理由から主人公の学生はクラスメイトの一人を殺害してしまう。しかも、ただ殺すだけでなく、その遺体の喉に百合ゆりの花を刺すという奇行をしてみせた。主人公はほくそ笑みながら翌日学校へ向かったが、そこで目にしたのはクラスメイトの遺体、そしてその子と全く同じ殺し方をされた別人の遺体だった。自分の他にももう一人殺人鬼が潜んでいると知った主人公は、自分の正体を隠しながらもう一人の殺人鬼の正体を暴いていくという殺人鬼対殺人鬼の物語なのだ。

 その斬新過ぎる内容が話題を呼び、杉竹は一躍人気作家となったのである。

 湊も杉竹のファンの一人だった。

「その杉竹さんの作品の世界観を表現したイベントが明後日の日曜日に行われるんですけど……」

 湊はそこで一旦区切って、ぎゅっと手を握る。

 そのまま、勇気を振り絞って続けた。

「そのイベントに、一緒に行ってもらえませんか?」

「えっ?」

 キョトンと、白峰が固まった。

 湊はボッと顔が赤くなるのが分かった。

 これでは、なんだかデートに誘ったみたいじゃないか。

 うわ、出会って一ヶ月しか経ってないのに、軽い女だなんて思われたらどうしよう。

 ありとあらゆる不安が湊の中を駆け巡っていく。

 何度も言う。これは元はと言えば真紀の責任だ。

 湊は本来、このイベントに参加する気は無かったのだ。

 確かに好きな作家のイベントなら行きたい気持ちはある。けれど、大勢の人が、主に男性が集まる場所へ行くのはかなりの勇気がいる。

 以前に比べれば少しだけマシにはなったが、それでも男性が怖いのは健在であり、それ故にイベントは諦めようと思いながらスマホでイベントのサイトを見ていた時、昨日の出来事だ。




「何見てるの?」

「わっ!」

 ふと背後から真紀が声をかけてきた。

 真紀は画面を見ると、すぐにニヤリと笑った。

「へぇ、面白そうだね。湊そういうの好きそうだし」

「確かに行きたいけど、一人じゃちょっとね……。あ、そうだ真紀、一緒に行こうよ!」

「む? それっていつ?」

「えっと、日曜かな」

「あー、残念でした。日曜日は予定あるんだわー」

「……なんか棒読みじゃない?」

 そうやって気を抜いた時だった。

 真紀はものすごいスピードで湊の持っていたスマホの画面をタップした。

「……えっ」

 湊が視線をスマホに戻すと名前などの個人情報を入力する画面に切り替わっていた。

 真紀がタップしたのは、『イベントに参加します』という旨のボタンだった。

 参加表明してしまうと、もう後には戻れないと確か注意書きに書いてあった気がする。

「ちょっ! 何してんの⁉」

「え、行きたいんでしょ? なら行くしかないっしょ」

「一人じゃ行けないから悩んでるの!」

「あの人誘えば良いじゃんか」

「……あ、あの人?」

「そう! あの探偵さんだよ」

 真紀の言葉に湊はがっくりと肩を落とした。

「……なんで白峰さんが出てくるの」

「だって付き合ってるんでしょ?」

「付き合ってません!」

「あ、そうなの? まあまあそれも時間の問題という事で、白峰さんだっけ? と一緒に行ってくれば問題無し! どう? この真紀様完璧な考え」

「断られたらどうすんのよ」

「大丈夫だって。あの人もこういうの好きそうじゃん」

「……断られたら一週間、学食奢ってもらうからね」

「へっ⁉ それはズルくない?」

「当たり前でしょ! 全部真紀のせいなんだからー」




 ──とまぁ、こんな感じで不本意ながらイベントへ参加する事になり、こうして白峰の所へ訪れたという訳だ。

 ふと白峰に視線を向けると、彼は顎に手を当てて、思い詰めるような様子だった。

 ものすごく悩んでいるのだろうか。数十秒も続く沈黙が辛い。

「あ、あの、嫌でしたら、全然大丈夫ですので」

「分かりました。行きましょう」

「……へ?」

 もう全てを誤魔化して退散しようとした矢先に、白峰はそう言った。

「やっぱり少し興味ありますから。是非ご一緒させていただきたい」

 白峰が微かに口元を緩ませる。

 ホッとしたような、嬉しいような、何とも言えない気持ちが湊の中に渦巻く。

「わ、分かりました! じゃあ、日曜日の……午前九時頃にまたお伺いしても良いですか?」

「いえ、僕からお迎えにあがりますよ。日曜日の朝にこの寮に入り込むのはなかなか困難でしょうから」

 またしても予想外の展開だ。

 本当にデートなんじゃないか、という気持ちが芽生え始めている。

 湊は邪念を振り払うように大きく頷いた。

「じゃあ私の家を教えないとですね」

「あ、そうか、そうなるのか……。あの嫌でしたら、待ち合わせにしますか?」

「いえ、大丈夫です」

 何故だか、この人なら安心だと思ってしまう自分がいる。

 今まで、男性なら誰だろうと警戒心が解けることなんて無かったのに、不思議だと思う。

「私の家は、ここから出て真っ直ぐ左に歩いて行くと見えてくる淡いピンク色のアパートです」

 湊がそう伝えると、白峰は小さく頷いた。

「では、日曜の午前九時頃にそのアパートの前で待ち合わせで良いですか?」

「は、はい。大丈夫です」

「それじゃあ、また日曜日に。……そろそろ管理人さんも帰って来る頃ですから、一ノ瀬さんも早く出て行った方が良いかもしれませんよ?」

「えっ、もうそんな時間ですか⁉」

 湊は慌てたようにスマホで時間を確認すると、ここに来てから既に一時間が経過しようとしていた。

 まずい、せっかく講義の間の時間が管理人さんが外出する時間と重なったから忍び込んでいるのに、バレたら全てが台無しだ。

「あ、じゃあまた日曜日に! ……遅れないでくださいよ?」

「分かってますよ」

 湊の忠告に白峰は苦笑いで答えた。

 急いで凛海荘から出ると、雨は上がっていて、湿気を含んだむわっとした暑さが体を包み込んだ。

 一歩、また一歩と歩いて行くたびに、後悔にも似た気持ちを抱いていく。

 最後の遅れないでとか、完全にデートの約束した女の子じゃん。あぁ、そんなんじゃないのに誤解されたらどうしよう。

 ショートカットの黒髪をがりがりと掻きながら湊は大学へと向かう。

 心の何処かで日曜日を楽しみにしている事に、この時はまだ気付けてはいなかった。

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