第三章 追憶への雨音
1
少しずつ乾いていく風が、夏の終わりを知らせてくれる。
並木道を包み込んでいた仰々しいほどの緑は、いつの間にか鮮やかな赤や黄色へと色を移していた。夜は日に日に長くなっていき、もう秋なんだと改めて実感する。それなのにまだ気温が三十度を超えているのだから何となくあべこべな感じだ。九月も半ばに入ったというのに、何故こんなにも暑いのか。
無駄に長かった夏休みはもう終わって、今日からまた授業が始まるのに、この暑さでは気力の全てが汗と共に流れ落ちていくのではないか、とぼんやり考える。
額の汗を拭いながら、湊は講義室を目指し歩いていた。
湊の通うこの凛海大学の悪い所を挙げるとしたら第一位は間違いなくこの広さだ。正門を抜けてから主に授業の行われる校舎までの距離が長い。ただひたすらに長い。距離がどれくらいあるのかは分からないが、正門から校舎まで徒歩で十分以上かかる上に、やや傾斜になっているところが更に不満だ。夏なら文句なしの地獄だし、冬でも絶望的な地獄だ。この無駄に広大な敷地に対して軽い殺意を抱いているのはおそらく自分だけではないのだろう。
その証拠に近くを歩いていた男子学生の背中から禍々しいオーラが見える。茹だるほどの暑さが見せる蜃気楼だろうか。それともただの幻覚か。いや、どちらも違う。この暑さに対しての男子学生の不満が目に見えるほど強いという事だろう。
やっとの思いで講義室に辿り着いた時には既に全身汗だくだ。不快としか言いようがない。
湊は億劫そうに近くの席に着いた。流石に講義室の中は冷房が効いていて、汗で張り付くシャツが一気に冷えて少し寒いとすら感じるほどだ。何となく部屋の中を見回して湊は少し肩を落とす。
学部も全く違うので当然なのだが、珍しい白髪の頭は見当たらなかった。
廃校になった小学校で起きた殺人事件が解決された日から、今まで白峰とは会っていない。
どうしてかを問われれば、気まずいと思ってしまったからだろう。
彼の抱えてる秘密の片鱗に気付いていてもそれを問い詰める勇気は無くて、だからと言って何事も無かったように会話出来るかどうかは曖昧で。
結局、夏休みの間は一度も会わなかった。
「……あの」
不意に横から声をかけられた。
湊が振り向くと、一人の男がこちらへと寄ってくる所だった。
少し明るい茶髪の今時な容姿の青年だった。人に好かれそうな、愛想のいい笑みを浮かべている。ただ、左目を覆い隠す白い眼帯だけが雰囲気に合わずに浮いて見えた。湊の視線に気付いた青年は恥ずかしそうに「テニスでちょっとぶつけただけですので気にしないでください」と前置きした。
「隣、いいですか?」
それから青年は控えめにそう尋ねてくる。
「あ、はい。どうぞ」
咄嗟にそう返してから湊は後悔した。
白峰と一緒にいる時はあまり感じないのだが、やはり近くに男の人がいるのは落ち着かない。授業を行う講師の声が届いてこないし、その代わりに耳の奥では微かに雨の音が響いていた。
「あの、一ノ瀬湊さんですよね? バンドの」
そんな湊の様子を知らない青年は軽やかに声をかけてくる。
苦笑いで湊が頷くと、青年はパァッと更に華やかな笑顔に変わった。
「俺、ファンなんです! あの、このあと時間ありますか? ランチでもどうかなって」
そのまま勢いよく距離を詰められて、湊は小さく悲鳴を上げた。
ぞわりと全身を駆け巡る悪寒。暑さとは違う汗が背筋を流れていった。
目の前がぐらぐらと揺れているような感覚。そして全てをかき消すように更に強く聞こえる雨の音。全てあの日の傷跡だった。
「あ、ごめんなさい。いきなり気安かったですよね……」
湊が怯えているのを見て、青年は申し訳なさそうに頭を下げて離れた。
「い、いえ……。ちょっと、びっくりしちゃって」
平静を装って湊はそう返したが、動悸は全く収まらなかった。
何故だろう、触れられてもないのにここまで体が拒絶する事は今まで無かったのに。
夏休みボケだろうか。それとも白峰と一緒に過ごしていたから気が緩んでいたのだろうか。
目を閉じて深呼吸をする。少しだけ気持ちが落ち着いてきた。その証拠に講師の声が聞こえてくる。
「……噂は本当だったんですね。ごめんなさい」
青年はそう言って、もう一度頭を下げた。
「……噂?」
噂とは何のことだろうか。何か噂されるような事はあったか。
湊が考えていると、青年は少し声を潜めて言った。
「湊さんは、男性が苦手だって」
「あぁ……そうですね」
そんな事が噂になっているのか。まぁ間違ってはいないのだけど。
湊が上の空で返事をすると、青年はぎゅっと握り拳を作って湊の前に出した。
「でも、俺なら克服させる自信ありますよ」
「え?」
「あなたの男性嫌いを克服させる自信があります」
真面目な表情で青年は言った。
この場合って、どう答えればいいのだろうか。
困惑したように湊が黙っていると、青年はまたしても申し訳なさそうに目を伏せた。
「あ、またやっちゃった。ごめんなさい、気安くて」
「い、いえ……」
気まずい空気が二人の間を流れていく。
やがて湊は気を取り直すようにペンを持ち、ノートに文字を書き込んでいった。
とりあえずはもう授業に集中しよう。
それを見て、青年も同じようにノートを開いてペンを走らせた。
それからしばらくして唐突に青年が「あっ」と声をあげて視線をこちらに向けた。
「そういえばまだ名乗ってなかったですね。初めまして、経済学部二年、
青年がそう自己紹介をした直後、カタンと音が鳴った。音の方へ視線を移すと、手に持っていたはずのペンが床に転がっていた。
「……土屋、くん」
呆然としながら湊が声に出す。それをただ名前を呼ばれたと勘違いしたのか、土屋は「はい」と笑顔で返事をした。
まさか、そんな、ありえない。そうだ、まだ決まったわけじゃない。
「……もしかして、お兄さんとか、いたりしますか?」
震える声で尋ねる。
湊の頭の中では、まるで全ての情報をシャットアウトするかのようにザーッと耳障りなノイズが鳴り続いていた。
土屋は少し意外そうに目を丸くして、頷いた。
「いますよ。兄が一人、
それを聞いて、湊は目の前が真っ暗になった。
痙攣してるように震えが止まらない体を自分で思い切り抱き締めた。
多分、今の自分の顔色は誰が見ても青ざめているだろう。
脳裏で再生されるあの日の出来事。
色褪せる事なく再現されたあの日の出来事。
誰かの走る足音と自分の息切れ、ギラつくように光る瞳、卑しくつり上がる口角と笑い声、そして伸びてくる誰かの手。
頭の中で鳴っていたノイズが、叩きつけるような雨音だったのだと気付いたのは、意識が深い闇の底に沈んでいく直前の事だった。
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