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 ──誰かの声がする。

 聞いたことのある声の気がするが、それが誰のものなのかは判然としなかった。

 ゆっくりと意識が浮上するのを感じながら、目を開けるとそこには見慣れない白い天井が広がっていた。

 そのまま辺りを見てみるが、全く見覚えはない。

 分かるのは自分がベッドに寝かされているという事だけだ。ということは、ここは医務室か何かだろう。

 私は一体何をしていたのか。

 途切れた記憶を辿ってみると、色々と思い出した。

 確か土屋と名乗る男性と話してたはずだ。それで──。

 そうか、それで私は授業中に意識を失ったのか。

 体を起こすと、白衣を着た後ろ姿が見えた。

「あの……」

「……起きましたか」

 声をかけると、白衣はゆったりとした動きで振り向いた。

 いかにも気怠げな様子でこちらを見据えている。

 整った容姿に高身長。口数が少なく、ミステリアスな雰囲気が女子大生に人気の雨月うづき先生だ。

「起きたのならもう帰ってください」

 突き放すような物言いはいつもの事だった。この冷たい感じも人気の理由の一つらしい。うちの大学は物好きが多いようだ。

「あの、誰が私を運んでくれたんでしょうか?」

「知りません。人の顔はあまり覚えないので」

 気付けば雨月は既に興味を失ったようでこちらを見てはいなかった。

 これ以上ここに留まっても迷惑になるのだろう。

 湊は軽くお礼を告げてから医務室を出た。

「だ、大丈夫ですか⁉」

 医務室の前には土屋が立っていて、部屋を出たのと同時にこちらへ駆け寄ってきたが、すぐにハッとしたように後ずさった。

 彼はいつからここにいたのだろうか。

「ごめんなさい。ご迷惑をおかけしまして」

「いえいえ気にしないでください!」

 湊が頭を下げると、土屋は激しく首を横に振った。同い年だというのに、えらく腰が低い。

「男性が苦手なのに俺が近付き過ぎたから意識を失ったんですよね。謝るのはこちらの方です」

 土屋が沈痛な面持ちでそう言うので、湊は苦笑いを返すしかなかった。どうやら誤解されているらしい。まぁ、完全に外れというわけではないけれど。

「気にしないでください。私の弱さが原因なんですから」

 湊はそれだけ言うと、「今日は疲れたので」と足早にその場を去った。その際、土屋は「また今度!」と手を振っていたが、振り返す気力は無かった。


 家に着いたのは午後四時を少し過ぎた頃だった。

 一目散にベッドに飛び込むと、その瞬間ドッと疲労が押し寄せてきて瞼が重くなる。

 目を閉じると、あの日の光景がぼんやりと浮かび上がってきて、たまらず目を開けた。

 土屋辰巳──まさか、今更になってその名前を聞くことになるなんて思ってもみなかった。

 一番忘れたくて、一番忘れられない名前だ。

「……今日は眠れないかも」

 諦めを含んだ声で湊が呟くと同時にスマホが振動した。

 見てみると友人である真紀からメッセージが届いていた。

『明日、政州せいしゆう大学で学園祭あるらしいんだけど一緒に行かない?』

 メッセージはその一件だった。いや、正確にはこの後にスタンプと呼ばれるキャラクターのドヤ顔の画像がいくつか送りつけられているのだが、それはあえて無視した。

 学園祭か……気分転換にはなるかな。

 湊はそう考えて、真紀に返信を打ち込む。

『良いよ。明日は一限だけだから、終わったら行くね』

 送信ボタンを押して、数秒後に再びスマホが振動した。

『りょ!』という言葉と共に、親指を立てた女の子のスタンプが送られてきていた。

 監視してたんじゃないかと思うくらいの早さだ。思わず苦笑を漏らしてしまう。

 真紀はいつだって心の支えになってくれる。

 多分本人は無意識なんだろうけど、彼女のおかげでどれだけ心を救われているか。この感謝の気持ちを真紀に伝えたら調子に乗るから言わないでおくけれど。

「……さてと、洗濯でもやろうかな」

 少しだけ気分が良くなった。

 湊はチラッと溜まった洗濯物を見て溜め息混じりにそう呟いてベッドから起き上がった。

 一人暮らしは楽だが、家事を全部自分でやらなければならないのが大変だ。けれどそれも慣れてしまえば大して苦にはならない。

 今みたいにちょっと気分が良い時はなおさらだ。そして後回しにすれば後悔するので思い立ったらすぐに行動するべきだ。

 シャツや下着やらを洗濯機に放り込みながら湊はぼんやりと明日の服装を考えていた。

 多分、柄にもなく浮かれていたのだろう。

 この時はまだ、数奇な運命に翻弄される事になるだなんて知らなかったのだから。




 翌日、真紀と共に凛海大学のある場所から電車で五駅ほど離れた所にある政州大学へ訪れた。

 スポーツが盛んに行われているこの大学は、例えるなら横浜にある赤レンガ倉庫のような校舎が印象的な学校だった。

 大きな正門を抜ければ、そこには既に大勢の人がひしめき合っていた。

 校舎へと続く道には夏祭りのように屋台が並んでいるし、その道から少し右の方には簡易ステージが設けられていて漫才大会なるものが行われている。その他にも色んな男女がチラシを片手に客引きをしていたり、カップルが手を繋いで熱々な空気を撒き散らしていたり、よく分からないコスプレ集団がいたり、かなりの賑わいを見せていた。

「うわぁ、凄いねぇ」

 真紀が呟く。湊もそれに同意を示した。

 他校の学園祭なんて本当に久し振りに来た。去年には一度凛海大学での学園祭を体験してはいるが、凛海はどちらかと言えば頭の良いタイプの人が集まる学校なので、体育会系が多いこちらとは盛り上がりに差が出るのは仕方のない事かもしれない。

「おぉ、テンション上がってきたよ!!」

 真紀が軽く飛び跳ねながら言う。

 手綱を握っていなければすぐにどっかへ行ってしまいそうなほど興奮している。

「はいはい。それじゃ行こっか」

 湊は呆れながらもそう言って真紀の手を取り、「勝手な行動は慎むように」と釘を刺す。

「分かってるよ。んじゃ、行こー!!」

 真紀はにこりと頷いた直後、校舎の方へ駆けて行った。

 手を掴んでいる湊も必然的に引っ張られていく。

 真紀のやつ、全然分かってない。人の話を聞いていたのか。まぁこの自分勝手さも真紀らしいのだけど。

 諦めのため息を一つこぼして、湊も駆け出した。

 校舎の中に入るとすぐに広いエントランスが現れた。

 数々のスポーツで成績を残しているこの大学だからか、エントランスホールにはいくつもの賞状やトロフィーが飾られていた。

「うわぁ、トロフィーがいっぱいある!」

 真紀が跳ねながらトロフィーの飾られているガラスケースに駆け寄った。

「へぇ……。知ってる名前が結構あるなぁ」

 湊も思わず唸った。

 改めて見てみると、そこには既に現役のプロの選手として活躍している名前がいくつもあった。野球にテニスにバドミントン。サッカーや柔道でも賞を取っている。

「あ、湊! これ見てよ!」

 真紀の興味はもうトロフィーから離れたようで、たくさんのポスターが貼ってある掲示板の前に移動していた。

 目を離すとすぐに消えるので、勝手な行動するなと言っているのに。

 湊は呆れながら真紀の元へ歩み寄った。

 彼女が見ていたのは、とある劇のポスターだった。

『白雪王子』と大きくポップな字体で描かれている。

 どうやら学生たちがこの劇を今日やるらしい。

 場所は離れの体育館で、開演は午後一時からと記されている。

「白雪王子だって! 面白そうじゃない? 絶対に面白いよね!?」

「観てもないのに面白いかどうかなんて分からないでしょうが」

 湊はそう言うが、真紀は全く聞いていないようで嬉々とした表情でポスターを眺めている。

 スマホで時間を確認する。現在の時刻は十二時四十三分だ。

「よし! 観に行こう!!」

 直後、真紀は全速力で湊の前を駆け抜けて行った。

 すれ違いざまに生じた風が呆気にとられたままの湊の髪を揺らす。湊は状況を理解するまでの少しの間呆然としていたが、次第に怒りが奥底からふつふつと沸き上がってくる。

 勝手な行動するなと何度言えば分かるのか。もうこれは、しばらく宿題を写させるのはやめよう。

「そんな殺生な⁉」と絶望した表情で泣き叫ぶ真紀の姿を思い浮かべながら湊は仕方なく体育館の方へ足を踏み出した。




 やはりスポーツの名門校ともなれば、体育館はかなり綺麗なものだった。

 温かみのある照明が床に反射して館内全体が煌々と輝いて見える。

 外履きの靴を下駄箱に入れて、湊は支給されたスリッパを履いて体育館の中へと入った。

 そこにはいくつものパイプ椅子が並べられていて、既に大勢の人が席についていた。

 後ろの方の空席に真紀と共に腰を下ろして舞台へと視線を向けた。

 舞台の向こう側を隠すように下りている紫檀色の幕が仰々しくその存在感を放っていた。

 やがて時間になったのか、体育館の照明が暗くなっていく。

「何だかわくわくするね」

 楽しそうに真紀が言った。

『それでは、これより学生有志団体による劇“白雪王子”開演いたします』

 館内によく通る女性のアナウンスが入り、パチパチと拍手が聞こえたの同時に幕がゆっくりと上がっていき舞台の全容が明らかになった。

 ステージの中央には大きな鏡が置かれていて、その周りには申し訳程度に棚などの家具が置かれている。

『とある王国のこれまたとある城の中に、己の美貌に絶対の自信とプライドを持った王子がいました』

 女性のナレーションと共に下手の方から一人の男性が歩いてきた。何か板でも敷いてあるのか、バンバンと足音が大きく響く。

 真紅のマントに身を包んだ金髪の青年だった。派手な王冠を被り、前髪を指でくるくる弄びながら鏡の前で立ち止まる。

「あぁ、今日も美しいね。鏡の中の僕」

 王子が満面の笑みでそう言うと、あちこちからくすりと笑う声が聞こえた。

「さぁ鏡よ。答えてくれ。この世で一番美しいのは僕だろう? そうなんだろう?」

 王子はそのまま伸び伸びとした声で鏡に問いかけた。

 なるほど、白雪姫のパロディ作品という事か。

 白雪姫と王妃の役が男に変わっているのだろう。

「違うね。一番美しいのは白雪王子って奴だな」

 ひどくつっけんどんな態度で鏡が言った。

 それを聞いて王子の顔が固まる。

「何だと? この僕よりも美しい白雪王子だって?」

 低い声で王子は言う。鏡はめんどくさそうに「そうそう」と頷く。

「……くそっ! 名前からして僕が負けてる!」

 やがて王子は片膝ついて項垂れた。そういう問題なのだろうか。

「そうだな。あんたの名前ドブネズミだもんな」

 鏡がけらけらと笑いながら追撃していく。王子の名前としては最悪の極みだ。親が名付けたのだとしたら悪意しか感じられない。

「言うんじゃない! こうなったら、白雪王子をこの世から消すしかない……!」

 ドブネズミ王子は憎々しげにそう呟くと、ステージ上が暗くなった。そしてどこからか雨の音が聞こえてきた。次第に大きくなる雨音は微かにざわつく観客席の声もかき消していく。

 数分して再びステージ上が明るくなると、鏡や家具は消えて、代わりに大きな木と小屋が出現していた。

 どうやらあの雨の音は場面転換の最中の間を持たせる為のものらしい。

『その頃、白雪王子は森の中でひっそりと暮らしていました──』

 ナレーションがそう語る。

「んー今日もいい天気だなぁ」

 欠伸をしながら上手から登場した人物を見て、湊は心臓が止まるほどの衝撃を受けた。

 出てきたのは質素な服を身に纏った青年だった。だが、その容姿は無駄に男前である。

 はっきりとした目鼻立ち、穏やかな雰囲気を醸し出しだす優しそうなその顔を湊は知っていた。

「……土屋、くん」

 何と言う偶然だろうか。

 まさか、こんな日に出会う事になるなんて。

 途端に雨の音が聞こえた。場面転換は終わったはずなのに、先ほどのように大音量で雨音が聴覚を支配している。

 何人かの小人役の少女が小屋から出てきて青年に呼びかけた。

「白雪王子ー! ご飯出来ましたよ」

「うん。今行くよ」

 にこりと青年が笑った。

 白雪王子と呼ばれたその青年は、土屋辰巳。昨日出会った土屋龍介の兄に違いなかった。

『白雪王子は誰にでも優しい好青年でした。たまたま出会った七人の小人と共にこの森の中の小屋で平穏な生活を送っていました。しかし、その平穏はすぐに壊される事になります』

 やや不穏な雰囲気を醸し出すナレーションの後に白雪王子は客席の方を向いて天井の方へ視線を動かした。

「あぁ、やっぱりこの自然の中で息をするのは気持ちがいいなぁ」

 白雪王子は大きく息を吸いながらそう言った。

 ステージ上が徐々に暗くなり、再び雨の音が聞こえてきた。

 湊は目を閉じて、ギュッと自分の体を抱き締めた。

 あの日の記憶が、鮮明に脳裏を駆け巡る。

 ──なぁ、別にいいだろ?

 雨音の隙間から聞こえてくる声。思い出したくないのに、こびり付いて離れない。

 直後、そんな記憶をかき消すような悲鳴が聞こえてきた。

 目を開くと、ステージ上には既に明かりが灯っていた。

 白雪王子が仰向けで倒れている。遠目では判然としないが、その腹部の辺りにはナイフが突き立てられていた。

 小人役と思われる七人の男女と、先ほども登場したドブネズミ王子も顔を揃えて困惑したような表情を浮かべている。

 何かの演出だろうか。

 湊がそう思った時、くいっと袖が引っ張られた。

 視線を動かした先で真紀が怪訝そうな顔でこちらを見つめていた。

「なんか変じゃない?」

「う、うん。アドリブなのかな」

 湊がそう返した時、ステージ上からいくつもの悲鳴が聞こえてきた。

 少女たちは蹲り、中には泣いている人も見えた。教師と思われる人たちが一斉にステージ上へと駆け上がる。「救急車だ!」と誰かが叫んだ。状況が理解出来ない観客たちはただ騒然としている。

 演出ではなかった。白雪王子を演じていた土屋辰巳はナイフで刺され亡くなっていた。

 色々な事が起こり過ぎて頭が追いつかない。分かるのは土屋辰巳という青年が亡くなったという事だけだ。

 湊には呆然と他人事のように慌ただしい様子のステージ上を眺める事しか出来なかった。

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