11
動揺は波のように広がっていき、
よく考えれば当たり前の事だった。今まで気付かなかったのが不思議なくらいに。
「犯人は傘を持っていなかった……」
呆然とした様子で若林が呟いた。
近藤はというと、睨みつけるようにホワイトボードに視線を向けていた。
「さて、これで傘の行方ははっきりしました。傘は犯人によって持ち去られた。この結論によって、犯人がどうやって屋上へ上がったかが分かります」
白峰は再びボードにペンを滑らせる。
「傘を持っていなかったのですから、犯人は当然この図書館の中から屋上へ上がった」
「何故そう言い切れる? 傘が無かったからといって室内から屋上へ行ったとは限らないだろう?」
ホワイトボードから白峰に視線を移して、近藤が異を唱えた。
「それについてはもう一つ根拠があるのですが、ややこしくなるのでそれは後でお話しします」
白峰はそうはぐらかすと、端から端まで文字で埋まったホワイトボードの表と裏を回転させ、何も書かれていない真っ白な面をこちらに向ける。
「ところで、僕が最初に言った事覚えていますか?」
唐突に白峰が質問を投げかけてきた。
湊は記憶を辿りながら、一つをピックアップする。
「傘の行方によって、犯人は一気に絞られる?」
「それです。一ノ瀬さん、流石ですね」
「「えっ」」
微笑みながら白峰が言うと、刑事二人の声が重なった。それを気にすることなく、白峰はホワイトボードの方へ向き直った。
「犯人は犯行の際、傘を持っていなかった。つまり、犯人は第一の条件として『雨に濡れている人物』である、と言えます」
なるほど、確かに犯人が一気に絞り込まれた。
だが、それでもまだかなりの数の人物が当てはまる。
その中のたった一人など、突き止める事が出来るのだろうか。
「では、次の問題ですね──」
白峰の手によって『問題二 置かれていた靴』とホワイトボードに書き込まれた。
湊にはその靴にどれだけの意味があったのか、想像出来なかった。
恐らく刑事二人も同じなのだろう。
どちらも怪訝な表情を白峰に向けていた。
「まず初めに言っておきますが、屋上に残されていた靴は自殺を決意して武田さんが置いたものではなく、犯人の手によって自殺を偽装する為に置かれたものです。そもそも屋上に置いてあった靴は武田さんの物ではありません」
白峰が淡々と何気なく放った一言が刑事二人の顔を一変させた。
「何を言ってるんだ君は。じゃあいったい誰の靴だと……」
「もちろん犯人のものですよ」
「……は?」
顎が外れてしまったんじゃないかと思うほど、あんぐりと口を開けて近藤は白峰を見返した。
「……犯人は自分の履いていた靴を屋上に残したと言うのか? 馬鹿な」
「確かに馬鹿みたいですがそれが真実です。最初に言ったでしょう?この事件はかなり単純で杜撰なんです。恐らく計画的なものではありません」
白峰はそう言うと、湊の方に視線を移した。
髪の奥に隠れた瞳がギラッと光ったように感じて、無意識に体が強張る。
「一ノ瀬さん。武田さんと会った時、彼はどんな靴を履いていたか覚えてますか?」
「え? えっと……」
子供をあやすような優しい声で白峰から突然の質問をぶつけられた。
焦りと緊張から、あたふたしながら再び記憶を辿る。
武田君がどんな靴を履いていたかなんて分からない、と思っていたら意外にもそれは記憶に残っていた。
「……野球のスパイクです。それを見て、これから練習あるのかなって思いましたから」
湊がそう言うと、白峰はクスッと笑って頷いた。
「そうです。武田さんは事件直前スパイクを履いていたのです。では、若林さんに質問です。屋上に残されていた靴はどんな靴でしたか?」
急に話を振られた若林は、一瞬持っていた手帳を落としそうになりながらもしっかり対応する。
「えー、屋上に残されていたのは……普通の」
若林がそこで言葉を切った。最後の方はあからさまに声が震えていた。
湊にもようやく靴を重要視していた意味が分かった。
つい先ほど、屋上で仏頂面の警官が言っていた事を思い出したからだった。
「屋上に残されていたのはどこにでもあるような普通の運動靴です。武田さんの履いていたものとは明らかに違いますね」
固まってしまった若林の後を白峰が引き継ぐ。
その時、スッと手が挙げられた。近藤だった。
「本当に武田はスパイクを履いていたのか? 彼女の見間違いという可能性は」
刺すような視線を近藤に向けられて、湊は萎縮するしかなかった。
そう言われてしまえば、記憶を疑うには充分だった。
「……それは無いでしょう」
「何?」
だが、それを白峰が否定した。
どうして彼は出会って間もない他人の記憶を簡単に信じる事が出来るのだろうか。
「根拠は武田さんのロッカーの中です。彼のロッカーの中には手紙に埋もれた靴がありました。いくら野球部だからといってスパイクで大学へは来ないでしょう。普段スパイクは部室のロッカーにでもしまっておくはずですよね。という事は、武田さんは図書館へ行く前に靴を履き替えていたんです」
問題二の横に武田の名前を書くと、白峰は今までと同じようにその下にバツを付けた。
「これで屋上に残された靴は武田さんの物ではないと判明しました。では、あれはいったい誰の靴なのか──武田さんの他に屋上にいたと思われるのは一人しかいません。つまり犯人のものという事になるんです」
湊は白峰の推理にただ圧倒されるばかりだった。まるで全てを見てきたかのようだ。
「……それは、そうかもしれないな」
呻くように近藤が同意を示した。
「つ、つまり犯人は武田と靴を交換した、と言う事ですか? ……しかし……どうやって」
若林がそう尋ねると、白峰は不意に自分の頭の側頭部の辺りを指差した。
「若林さん。確か遺体には、致命傷となった後頭部の傷の他にもいくつかの外傷があったんですよね? その一つに左側頭部の傷があったんでしたね」
「え、あ、はい。それが何か?」
「恐らくその傷によって、武田さんは気を失ったのだと思います」
「え?」
若林が目を大きく開いた。
「元々殺害するつもりは無かったのだと思います。ですが、カッとなって頭を殴ってしまった犯人は、気を失った武田さんを見て殺してしまったのだと思い込んでしまった。それで咄嗟の判断でこんな工作をしたのだと思います」
淡々とそう言う白峰に、湊はふと疑問を抱いた。
「あの、どうして犯人は武田君と靴を交換したんです?」
何の為に犯人は武田と靴を交換しなければいけないのか。
自分の靴を残す、証拠を堂々と残すなんていくら何でも無謀過ぎる。
下手をすればすぐに犯行がバレてしまう。
そうまでして靴をすり替える必要性はどこにあると言うのか。
「それは、先ほどの近藤さんの疑問の答えとも重なりますね」
白峰は高らかに言って、ボードにペンを走らせた。
「まず前提として、犯人は犯行前、現場に残されていた運動靴を履いていた──これはよろしいですね?」
「はい」
「その時点で、犯人は図書館の中から屋上へ出たと言い切れるのです」
「えっ⁉」
あまりの急な展開に湊は声を上げた。
「何故だ?」
近藤が問いかけると、白峰は若林の方に視線を向けた。
「若林さん。非常階段のある図書館の裏側にはどんな足跡が残ってました?」
「えっ、あっはい」
またしても急に話を振られたからか、手帳を落としそうになりながら若林が質問に答える。
「非常階段付近からはどうやら普段は野球部の練習に使われているスペースのようで、スパイク痕のような物が無数にありました」
「そうらしいですね。見つかった足跡はそれだけですか?」
「はい。そうですね」
「──という事です」
パンッと手を叩き、白峰は結論を出した。
いまいち理解出来ていない近藤は眉間にしわを寄せている。
「それがどうしたというんだ?」
「図書館の裏はコンクリートではなくて、土のままの状態を維持されているんです。そこで野球部の人達は時折練習をしている。つまり、非常階段の近くから発見されたスパイクの足跡はその野球部のものと考えていいでしょう。さて、問題はここからです。図書館の裏からはスパイクの足跡しか見つからなかったのです。いいですか?犯人が履いていたのは普通の運動靴です。もし外から屋上へ向かったのだとしたらその足跡が残る筈なんです。しかしそれは無かった。だから犯人は図書館の中から屋上へ出たと言えるのです。そして、それは外から屋上へ上がった武田さんがスパイクを履いていた、という他ならない証拠です」
「……なるほど」
悔しげに顔をしかめながら近藤は納得したように頷いた。
「では次に、何故犯人は靴を履き替えなければならなかったのか──。答えは明白です。そうしなければ屋上から逃げられなかったからです」
「は?」
若林が素っ頓狂な声を出す。
湊も同じような声を出しそうになったが、なんとか抑えることが出来た。
しかし、彼は何を言っているのか。
靴を履き替えなければ逃げられないだなんて、そんな事があり得るのだろうか。
「馬鹿馬鹿しい。靴なんて履き替えなくても逃げれるだろう」
虫を払うように手を振ると近藤はため息混じりにそう言った。
「逃げられますかね?」
けれど白峰は動じなかった。
「先ほども言いましたが、非常階段のある図書館の裏からはスパイクの足跡しか見つかっていないのです。普通の靴で逃げれば別の足跡が残ります。それが無いという事は、犯人は武田さんのスパイクを履いて非常階段から逃げたと言えます」
そこでようやく彼の言っている事が理解出来た。
そうか、だから犯人は靴を履き替えなければいけなかったのだ。
「待て。何故図書館の中へ逃げない? それなら靴を変える必要も無い」
冷めた口調で近藤が意見を出す。
白峰はその意見に対してゆっくりと首を横に振った。
「もう一度、傘の行方について思い出してください。犯人は元々傘を持っておらず、犯行後に武田さんの傘を持って逃げたんです。傘を持った状態で図書館の中へ入れば誰だって疑問に思うでしょう? しかも武田さんが図書館の屋上から落ちたならすぐにその人が犯人と疑われる筈です」
「なるほどな。よく分かった」
白峰の反論を聞いた近藤は低い声で呟いた。
そしてスッと細めた目で白峰を睨みつけた。
今まで見た事ない、冷たい光を宿していた。
「つまり、図書館の中で傘を持っているのは不自然だ、と言いたいんだな?」
「まぁ、端的に言えばそうなりますね」
「そうか。なら俺にも犯人が分かったよ」
「えっ⁉ 本当っすか近藤さん!」
若林が驚きの声を上げる。
白峰も微かにたじろいだように見えた。
「俺は一人だけ、図書館の中で傘を持っていた奴を知ってる」
静かにそう告げると、近藤は席から立ち上がり、つかつかと白峰の前まで歩く。
「最初に推理を聞かせてくれた時、君はおもむろに傘を取り出したな?図書館の中だというのに──つまり、君が犯人という事だ」
近藤は抑揚のない声で白峰にそう言い放った。
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