5
「……誰だい? 君は」
近藤がため息まじりにそう訊いた。容疑者を追い詰めていた所に唐突に出てきた男の存在がかなり面倒なのだろう。あからさまに不快そうな表情を浮かべていた。
「お気になさらず。ただの学生ですから」
白髪の青年はそれを気にも留める事なく、はぐらかした返答をして悠然とこちらに歩み寄ってくる。全体的にかなり線の細い印象だが、肝心の表情は目元が前髪に隠れてしまって窺うことが出来ない。
「知り合い?」
真紀が小声で問いかけてきて、湊は首を振る。
「知らない人。会った事も無い」
大学内で見かけたことも無い。いきなり現れたこの人は一体何者なのだろうか。今までの話を聞いていたかどうかは知らないが、本当に私を犯人ではないと証明してくれるのか、湊にはあまり期待が出来なかった。
「……探偵の真似事なら他所でやってほしいな。我々も暇ではないんだが」
近藤が冷めた口調でそう言う。恐らくだが、この刑事は気が長い方ではないのだろう。先程からぴくぴくとこめかみが震えている。そろそろ限界なのかもしれない。
だが、若い刑事の方はどちらかと言えば白髪の青年の登場に興味を抱いているようだった。
「別に探偵の真似事をしているつもりはありませんけどね……。でもこのままではあなたは誤認逮捕の汚名を背負うかもしれませんよ?」
青年は柔らかい口調でそう言った。
「なっ……!」
近藤が言葉を失った。湊も同じように驚きを隠せなかった。
この人は今、誤認逮捕と言った。つまり、この人は私が犯人ではないと分かっているということだ。でもどうしてだろう。今初めて会って、直接話した事も無い人なのに。事件の内容だって詳しく知らない筈だ、それなのにどうしてそう断言出来るのか。
「ほう。では君には別の犯人が分かっているという事だね?」
少し冷静さを取り戻したのか、近藤はそう問いかける。
「いえ、まだそこまでは分かりません。けど、その人が犯人ではないという事だけなら分かります」
青年は微笑を浮かべながらそう言い切った。
「では、教えてもらおうか。どうして彼女が犯人ではないと言い切れるのか」
腕を組んで、近藤はそう促した。
青年は小さく頷くと、ゆっくりと湊の元へ寄ってきた。そしてすぐ目の前まで来た時に、小さな声で「ごめんなさい」と謝ってから控えめに湊の髪に触れた。
男の人に触られたのに、何故だか恐怖心は抱かなかった。
「答えは簡単ですよ。彼女は濡れてないからです」
湊の髪から手を離した青年は満足そうに頷きながらあっさりとそう言った。
「……え、それだけ?」
真紀が拍子抜けと言わんばかりに肩を落とした。
湊も崩れ落ちそうになった。そんな当たり前の事で犯人でないと言い切るなんて。いや、犯人でないと信じてくれるだけありがたいのだけど。
「はははっ、なるほどな。雨に濡れてないから屋上へは上がってないと、君はそう言いたいんだな?」
近藤は馬鹿にしたように大きく笑いながら、青年の方へ歩み寄る。
「だがな、それだけで犯人でないと断言するのは早計ではないかな? ──傘だ。傘をさしていれば濡れる事なく屋上へ上がり相手を突き落とせるだろう?」
青年の肩を叩きながら近藤は得意げに言った。
確かに近藤刑事の言う通りだ。傘があれば雨に濡れることはないだろう。そのまま犯行に及んだとしても大して濡れずに武田を突き落とせる。残念ながら彼の推理は甘かったと言わざるを得ない。
「……本当にそうでしょうか?」
湊が諦めに似た気持ちを抱いた時、青年はフッと笑った。
嘲笑を浮かべていた近藤の顔が途端に険しくなる。
「何が言いたいんだ?」
「確かに傘をさしていれば、雨に濡れる事なく人を突き落とす事は可能でしょう。ですが、今回の被害者である武田という男性は野球部のエースだったと聞きました。つまり、体格の良い男性だったのでは、と勝手に認識していますが正しいですか?」
「はい。近藤さんと同じくらいです」
青年の問いかけに答えたのは若い刑事だった。
湊は近藤に視線を向ける。確かにスーツの上からでも分かるくらいがっちりとした体躯をしている。そう言えば、本を抱えていた武田の腕も確かにがっちりしていた。
けれどそれと何の関係があるのだろうか。
「それがどうした? 探偵の真似事なら他所で……」
「では手短に済ませましょうか」
青年はそう言うと、どこからか透明なビニール傘を取り出して、それを湊に持たせる。
「申し訳ありませんが、それを開いてもらっても良いですか?」
青年に言われて、湊は躊躇しがちにビニール傘を開いた。そして普段使う時のように左手で柄の部分を掴み、中棒を左肩に乗せる。何の変哲もない、使われた形跡の無い新品同様のどこにでもある普通のビニール傘だ。
チラリと辺りを窺えば、色んなところから痛いほど視線を向けられている事に気付いた。当然だ。図書館の中で傘を広げていれば誰だって不思議に思う。
いたたまれない気持ちが湊の中に湧き上がった。
「こんな風に傘をさせば自然と片手は塞がってしまいます」
そんな湊の事など気にせずに、これまた当たり前の事を青年は言う。
「それは分かってる。それがどうして犯人でないという事になるのかを聞いてるんだ!」
近藤が急かすように声を荒げた。やはり、気が短いのかもしれない。
「ではお聞きしますが……えっと、近藤さんでしたっけ?」
「そうだ」
「あなたはこの状態の彼女に突き落とされる自信はありますか?」
「……は?」
近藤は予想外な質問にきょとんとした。いや、誰だってそうなるに違いない。それくらい、彼の質問は馬鹿げていた。そんな事は訊くまでも無いほど明白である。
「いやいや、落とされる訳ないだろ。片手しか使えない女性にどうやったら落とされるんだ」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らした近藤は、次の瞬間、墓穴を掘った事に気付いてハッとしたように目を見開いた。心なしか、顔色が青くなったように見える。そして、私も多分同じような顔をしている。
「──雨に濡れた場合、暖房などが入ってない限りそんな短時間に乾く事はありません。しかし今は六月。暖房を入れるような時期ではありません。念のため、先ほど彼女の髪の毛に触れましたが、湿った様子はありませんでした。暖房も付いていないのに、たった数分の間に乾くとは思えません。つまり、彼女は最初から雨に濡れてなかったと言えます」
青年は一つ一つ確かめるように言いながら、近藤の方へと詰め寄っていく。
「しかし、これで彼女が屋上へ行っていない証明にはなりません。近藤さんの言う通り、傘をさせばどうでしょうか。当然雨に濡れる事なく屋上へ上がれるでしょう。ですが、そうなると一つ問題点が浮上します。傘をさせば必ず片手が使えなくなるのです。
仮に最初から相手を突き落とすつもりだったとしても、片手が使えない状態ではかなり苦戦するでしょう。今聞いたように武田さんはがっちりとした体格の人物でした。両手を使えたとしても簡単にはいかないと思います。
では、彼女はどうやって武田さんを突き落としたのでしょう? 眠らせたり相手の意識を消失させて落としたのでしょうか? それとも脅しでもして自ら身を投げさせたのでしょうか?……いいえ。どちらもあり得ません。それを武田さん自身が証明してくれています。近藤さん、確か武田さんには抵抗したような傷があったんですよね?」
青年の問いかけに近藤は黙ったままだった。しかしそれは意地を張って喋らないのではなく、単純に何も言えないといった様子だった。その証拠に近藤の口は半開きのまま、固まっている。
いつの間にか立場が逆転している。線が細いという印象だった青年は、今ではこの中で誰よりも存在感を放っていた。
湊は彼に対して恐れにも似た感情を抱いていた。たったそれだけの情報でここまで推理出来るなんて、普通じゃない。
「……では最後にお聞きしますね。この大雨降る中、彼女が傘をさした状態で、数分の間に、抵抗する屈強な体格の男性を、片手で、突き落とせたと思いますか? ──近藤さん」
青年はゆっくりとそう問いかけた。
近藤はしばらく反論の言葉を探すように視線を辺りに彷徨わせた後、力なくうな垂れた。
彼にはもう、反論する術は残っていなかった。
その様子に青年は満足そうに頷いた。
「……では、以上で探偵の真似事は終わりです。ご静聴、ありがとうございました」
青年は皮肉を含んだ丁寧な口調で終わりを告げると、流れるようにお辞儀をした。その時、まるで称賛する拍手の嵐の様に、勢いを増した雨の雫たちが一段と強く窓を叩いた。
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