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「被害者と加害者?」

 近藤と若林は口を揃えて湊の呟いた言葉を繰り返した。職業柄、聞き慣れた言葉のはずなのに、彼女の口から出てくると初めてその言葉を聞いたような感覚になった。

 湊は痛みを堪えるような顔で頷く。

「詳しく、聞かせてもらってもいいかな?」

 近藤は躊躇しながらもそう訊いた。男と女、そして被害者と加害者。それらから連想されるものは不愉快なものばかりだった。おそらく彼女にとっても話したくない内容に違いないとは分かっていたが、それでも直接聞かなければならない。

 ここで近藤は少し後悔した。こういうのは男の自分よりも同じ女性が相手の方が話しやすいに決まっている。

「……土屋くんと出会ったのは高校生の時でした」

 気を遣って女性の刑事を呼ぼうとしたところで、ポツリと小さく水面を揺らす一滴の雫のようなささやかな声が耳に届く。湊は僅かに目を伏せていた。

「委員会で同じになったのがきっかけです。その日から土屋くんは学校内でもよく話しかけてくれました。最初のうちは話しかけてくれて嬉しかったんですけど……次第に変だなって思うようになって」

「変?」

 近藤が聞き返すと、湊は震える声で「はい」と言った。

「学校のどこにいても土屋くんに会うんです。体育館でも、部室でも、食堂でも。どこにいても当然のように声をかけてくる土屋くんが少し不気味に思えてきて、しばらく彼を避けるようになったんです」

 近藤の表情が険しいものに変わった。湊は相変わらず俯いたままで話を進めていく。

「そして、それから変な手紙が下駄箱に入れられてたりする事が多くなって」

 ──ストーカー。

 近藤の頭にその単語が浮かぶ。

 偏屈な好意を一方的に抱き、執拗に相手につきまとう人間の事を指し示す言葉だ。

 ストーカーになりやすい人間の特徴として、自己愛が強いことが挙げられる。

 土屋辰巳もその部類に当てはまる人物だったのだろう。容姿も整っている彼には狙った女性に振り向いてもらえなかった事が受け入れられなかったのだ。

「そんな嫌がらせが一年ほど続いたんですけど、私はずっと無視してきたんです。そしたら……」

 湊は一旦そこで言葉を切った。

 側から見ても、その体が震えているのが分かった。

 数分の沈黙が錘のように体に降りかかった。

 真紀が湊の手を握る。そこでようやく、湊はゆっくりと顔を上げた。

「その日は、高校の卒業式の日でした──」

 それから湊は遠くを見るようにうっすらと目を細めて、昔話をするような口調で語り出した。






 その日は朝から雨が降っていた──。

 朝からずっと降り続ける雨というのは、どこまでも人の気分を下げるものだ、と私は窓の外の鉛色の空に視線を向けながら密かに思った。

 だが、そんな私の気分とは真逆に教室内はいつも以上に活気に満ちていた。それもそうだろう。何故なら今日は高校の卒業式なのだから。

 学校指定の制服に身を包む生徒の左胸の位置には、造花のコサージュが付いていて、花の下には「ご卒業おめでとうございます」と決まり文句が書かれていた。生徒たちは今朝配られた卒業アルバムの最後の方にある寄せ書き用のページを開いては、笑い合いながら文字を書き込んでいる。

 つい先ほどまで、自分もそっち側にいた。同じように笑いながら友人の卒業アルバムに色々と書き込んで、自分のアルバムにも書き込んでもらっていた。だが、白紙だったページが埋まっていくにつれて、今日でこの生活は終わりなんだと実感した。明日からはもうこの教室へは入れないし、友達と会う機会も減っていくだろう。そう考え始めてからは、気分は下降していく一方だった。

「なに黄昏てんのよ」

 不意に肩を叩かれて振り向くと、そこにはニンマリといった笑みを顔に貼り付けた優奈ゆうなの姿があった。優奈は高校三年生で初めて同じクラスになってから親しくなった子である。肩にかかるくらいの長さに整えられた黒髪はさらさらで、少しの動きでも流れるように動く。キリッとつり上がった目はやや気の強そうな印象を抱かせるが、その通りで気は強い。というのも、責任感が強く、真面目な学級委員タイプなのだ。不真面目な生徒がいたら男だろうが女だろうが関係なく注意する。時には喧嘩に発展することもあるが、未だに優奈が負けたところを見たことがない。

 そんな気の強い子とどういった経緯で仲良くなったのかはあまり覚えていない。気付いたら今のような関係になっていたのだ。

「……なにその笑顔」

 優奈の浮かべる笑顔があまりにも変で、私が笑いながら言うと、彼女も同じように笑った。

「いやー湊とのやりとりも今日で最後か」

「言わないでよ。寂しくなるでしょ」

「湊って進学だよね? 学校は近いの?」

「うーん、ここからだと少し遠いかな。だから大学入学したら学校の近くで一人暮らししようかなって思ってる」

 私が言うと、優奈はあからさまに驚いていた。

「え、本当に? 住む所はもう決まってるの?」

「一応、目星はいくつかつけてあるけど……」

「訳あり物件とかじゃないよね?」

「違うと思うよ。そんな噂も特に無さそうだったし」

「不審者が近くに住んでるかも」

「そんな事言ってたらどこも住めないよ」

 苦笑いで私はそう返した。優奈は責任感が強い反面心配性なところがある。

「……あの人だって近くに住み始めるかもしれないし」

 優奈が私にだけ聞こえるような音量で呟いた。その瞬間、私の脳裏に一人の男子の顔が浮かんだ。整った顔立ちで、多くの女子から人気がある男子に私は一年ほど前からずっと付きまとわれていた。今では毎朝下駄箱の中にラブレターを入れられている。最初のうちはそれをちゃんと読んでいたが、その内容があまり心地の良いものではなかったので今では開く事なく捨てている。

「大丈夫。土屋くんには何も言ってないから」

 私はそう言ったが、優奈の表情は晴れなかった。






 無駄に長かった卒業式も終わり、私は軽音楽部の部室で優奈を待っていた。二十人近くいる部員の事を考えるとやや狭いと感じる無機質な部屋も今日はやけに広く感じた。

 棚の上に乱雑に置かれた楽譜やピックに、張り替え用の弦なども見慣れているはずなのに、今日で最後だと実感してからは懐かしい物に思えた。

 その時、部室の扉がノックされた。

「……律儀だなぁ」

 私しかいないのだから普通に入ってくればいいのに、と思いつつもそれがやっぱり優奈らしい、と笑みを浮かべて私は扉を開けた。

「あっ……」

 直後、私は小さく声を上げた。

 扉の向こうにいたのは優奈ではなかった。部類に分ければイケメンに入るのだろう。目鼻立ちの整った美形がにっこりと愛想のいい笑顔を浮かべていた。

「やぁ。湊ちゃん」

 そこにいたのは土屋辰巳だった。逃げ出したい衝動を抑えて、私も笑顔を返すと土屋は部室の中へ入ってきた。

「や、やぁ土屋くん。どうしてここに?」

「神様がね、湊ちゃんは部室にいるって教えてくれたんだよ」

「へ、へぇ……そうなんだ」

 駄目だ。どう頑張っても顔が引き攣る。

 不気味にも思える言動と笑顔が私から冷静な判断力を削ぎ落としていく。

「ここで何を?」

 指先で前髪を弄りながら土屋が尋ねてきた。

「人を待ってたんです」

 私がそう答えた瞬間、土屋は私の手を握り始めた。

 ぞわりとした不快感が全身を包み込む。

「なっ……」

「なるほど。そういう事だったのか」

 私の手を握りながら土屋は何度も頷いている。

「つまり、湊ちゃんは俺のことを待ってたんだね? それならそう言ってくれなきゃ」

「違います」

 土屋のとんでもない勘違いを私は即座に切り捨てた。つれないなぁ、と土屋が軽く笑うのを見て、私は決意する。

「用事を思い出したから帰るね」

「何の用事? 手伝うよ」

「結構です。それじゃ」

 言うが早いか私は土屋の脇を抜けて部室を飛び出した。

「あれ、湊?」

 部室を出てすぐの所に優奈がいた。どうやら今こちらに向かっていたらしい。何はともあれベストタイミングだ。

「帰ろ!」

 私は叫ぶように言って優奈の手を引いて走り出した。当然、困惑したような声が後ろからついてくる。

「え、ちょ、どうしたのよ?」

「ごめん。後で話すからとりあえず急いで帰ろ」

 切羽詰まった私の物言いで察したのか、優奈は少し声のトーンを落として、「わかった」と言った。

 それから水が跳ねるのも気にせずに学校から徒歩数分のカフェへと駆け込んだ。

 入り口から一番離れた席に座り、ようやく一息つく。

「……土屋に何かされた?」

 運ばれてきたコーヒーを一口飲んでから優奈は静かに問いかけてきた。どうやら言わずとも土屋関係の事だというのは分かっているようだ。

 私は曖昧な動作で頷いた。

「別に何かをされたってわけじゃないけど、いつもよりぐいぐい来て少し戸惑った」

 そう言って私もコーヒーを飲む。独特の香りと苦味が熱さと共に口の中に広がっていく。少しだけ気分が落ち着くのが分かった。

「私もさっきまで土屋と話してたのよ。その直後に湊のところまで行ったとか、行動力ありすぎでしょ」

優奈が呆れるように言って、再びコーヒーに口をつけた。それから何度か頷いて苦笑いを浮かべる。

「まぁ、今日は卒業式だからね。最後に思い切りアタックしようとしたのかも」

 諦めが悪いわ、と優奈は虫を払うように手を振りながら言う。確かにその通りかもしれない。今日で最後なのだからあれくらいのアタックは普通の事なのだろう。そうなると土屋には少し悪い事をしてしまった。もっとしっかり対応するべきだった、と反省する。

「……それにしても、まさか手まで握ってくるなんてね。それで落ちなかったの湊くらいじゃない?」

 可笑しそうに優奈が言った。

「やめてよ。流石に他にもいるでしょ」

「いや、その辺の女子なら土屋に手を握られればコロッと落ちるに決まってるわ」

「何でそんなに得意げなの」

 私はため息をついて、優奈の頭を軽く叩いた。

「まぁ大丈夫よ。今日で最後なんだから」

 叩かれた後頭部をさすりながら優奈が笑う。優奈の笑顔を見ると不思議と安心できる。

 そうだ、もう土屋くんと会うのは最後なんだ。

 私も「そうだね」と頷いて、湯気の消えたコーヒーを飲み干した。







 一時間ほど滞在していたカフェを出て優奈と別れた私は、傘を開いて帰路についた。

 未だに雨の勢いは弱まっておらず、叩きつけるように降り注いでいる。風も強く、傘はほとんど意味をなさない状況だった。

 急いで帰ろうと、私は濡れるのを気にせずに駆け足でカフェを左に抜けた先にある商店街の方へ向かった。

 商店街をまっすぐ抜けて、大通りを渡ると自分の家が見えてくるのだが、何となく私は商店街をまっすぐ抜けずに、途中で狭い路地の方を抜けていった。この道の方が早く通りに出られる、と無意識に考えてしまったのだろう。だが、この選択は間違いだった。

 路地の半ばに差し掛かった頃、唐突に何かが横から体を引っ張った。突然の力に私はなす術なくバランスを崩して転んでしまった。

「痛っ……」

 痛みに顔をしかめながら周りを見渡すと、そこは住宅に囲まれていて人目につきにくい駐車場だった。少し離れたところには手に持っていたはずの傘が落ちている。

 何が起きたのか一瞬分からなかった。

 足を滑らせたわけではない。何かが私の腕を引っ張ったのだ。いったい何が──。

「やぁ。湊ちゃん」

 混乱する私の耳元で囁くような声が聞こえた。息が止まる。背筋を流れるのが雨なのか冷や汗なのかは判然としなかった。一つだけ分かる事は、それが一時間ほど前に聞いた声と全く同じだったと言うことだけだ。

「つ、土屋くん……?」

 震える声で私が名前を呼ぶと、再び体が引っ張られて私は仰向けに倒された。そしてすぐに覆いかぶさるように土屋が顔を出した。

「こんな所で会えるなんて。これはもう運命だね」

 土屋は不気味なほどにこりと笑っていた。

「あぁ。こんなに雨に濡れて……。寒いでしょ? 可哀想に」

 ただ台本を読んでいるような無機質な声で土屋は言いながら、地面に押しつけるように私の肩に手を置いた。男女の力の差なんて歴然で、私は身動きが出来なくなった。

「待ってて。俺がすぐに温めてあげるから」

 ニヤリ、と土屋は口角を吊り上げた。そして肩に置かれた手が私の胸元へ移動して、ブレザーのボタンを外し始めた。

「ちょっ……!」

 私は慌てて土屋の手を止めようとしたが、すぐに振り払われてしまった。

「抵抗しないでよ。傷付いちゃうでしょ」

 今まで聞いたことのないほど低い声でそう言う土屋の顔は全く感情のこもっていない無表情だった。そして私は気付いた。第二ボタンまで開いた彼の学生服の内ポケットで鈍く光るそれの存在に。

「好きだ……好きだよ……湊ちゃん」

 それから土屋はうわ言のように“好きだ”と呟く。気付けば彼の手はワイシャツに到達していた。

 助けを呼ばなきゃ、大きな声を出さなきゃ。そう思っているのに恐怖からか、声が出てこない。抵抗しなきゃいけないのに、金縛りにでもあったかのように全く動けなかった。

 足や首を土屋の手が這うように撫でてくる。その度にぞわぞわとした不快感が全身を襲う。

「あぁ……綺麗だよ」

 舌舐めずりをする土屋の顔を見ていられずに私は強く目を瞑った。

 太ももを撫でていた彼の手がスカートの中へと侵入した時、誰かが叫んだ。

「そこで何してる!」

 一瞬、土屋の動きが止まった。その瞬間、頭の中に声が響く。

 ──今しかない。

 私はその一瞬の隙をついて、土屋の体を思い切り突き飛ばした。もう抵抗されないと気を抜いていたのか、土屋は予想以上に簡単に尻餅をついた。

 私はそのまま脱兎のごとくその場から逃げ出した。背後から何か声をかけられたが全て無視してひたすら家まで全速力で走る。なんとか家の前まで辿り着いた時、私は傘を忘れた事に気付いた。

「ただいま……」

 恐る恐る玄関の扉を開けると、ちょうど母が二階から下りてくるところだった。

「あら、あんたびしょ濡れじゃない! それに泥だらけだし……傘壊れたの?」

 母は私の姿を見て驚いたように駆け寄ってきた。

「ちょっと転んじゃって」

 苦笑いを浮かべて私はそう誤魔化した。何があったかなんて、正直に言う気は無かった。

「そう……泣いているの?」

「えっ」

 怪訝そうにそう言われて、私は初めて自分が泣いている事に気が付いた。そして一度自覚してしまえば、涙は堰を切ったように溢れ出す。私は母の胸に飛び込んで静かに泣いた。母は何も言わずにただ優しく背中をさすってくれていた──。







「それからすぐに大学の近くで一人暮らしを始めたので、土屋くんと出会う事もなくなりましたけど、その日以来、男の人が怖くなってしまって……」

 湊の話に近藤と若林は苦い顔を浮かべていた。特に近藤は、初めて会った日の事を思い出して申し訳なさそうに軽く頭を下げた。

「まさかそんな過去があったとは……。あの時はすまなかったね」

「……あの時?」

「初めて君と会った日、俺が君を怖がらせただろう?」

 そこで湊は思い出したように声を上げてすぐに笑った。

「過ぎた事ですから気にしないでください」

「気にするよ!」

 横から真紀が声を上げた。そのまま湊の腕にしがみつく。

「ごめんね湊ー。無理に恋愛させようとして」

「それは別にいいけど、くっ付かないでよ」

「あれ? でもそれならどうしてあの探偵さんと一緒にいるの? やっぱり付き合ってるのか⁉」

「違うよ!」

 真紀の疑問は若林も気になっていた事だった。今の話を聞いて彼女が男を怖がるようになったのは無理もない。だが、そんな気配を今まで感じた事はなかった。あの白峰という青年は男であるはずなのに。

「白峰さんは、私に対して特に関心が無いだろうから、私もあまり怖く感じないんだよ」

 少し寂しそうに湊は呟いた。しかし、本当にそうなのだろうか。

「近藤刑事」

 不意に一人の鑑識の男が近藤の元へ来た。そして近藤に何かを耳打ちすると、近藤の顔が強張った。

「ナイフの出所については?」

「どこにでも売ってる普通のナイフだそうです。凶器から犯人を特定するのは難しいかと」

「分かった。ありがとう」

 硬い口調のまま近藤はお礼を告げる。どうやらあまり良い内容ではなかったらしい。

「何かあったんですか?」

「遺体の腹部には複数の刺し傷があったそうだ。そうなると自殺とは考えにくい」

 確かに自殺する為に自分の腹を何度も刺す、というのは常軌を逸している。という事は湊の言う通り土屋は自殺ではなかったらしい。だが、それなら大きな問題がある。

「なら、犯人はどうやって犯行を実行出来たのでしょうか」

 あれだけの大人数が集まっていた中で、少し歩くだけでも音を鳴らすベニヤ板の上で、どうやって誰にも気付かれることなく犯行を成し遂げだのだろうか。

「……くそっ」

 八方塞がりだ。近藤は憎々しげにそう吐き捨てた。

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