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 湊は自分の目を疑った。今、自分が見ている光景は幻に違いないと思いたかった。

 恐らく周りにいる他の学生も同じだと思う。傘に隠れているせいで、その表情までは分からないが、誰もが動揺しているのは伝わってきた。

 まさか、目の前で人が建物から転落して亡くなるだなんて、想定している筈がない。ニュースなどでよく“誰々が亡くなった”だとか、“殺害された”というのは聞くけれど、いつもどこか他人事のように思っていた。

 いや、実際に他人事なのだ。ほとんどの人は自分とその周りの人の事で精一杯で、見ず知らずの誰かの事などいちいち気にかけてなどいられない。

 だから今この目の前の出来事も、ある人にとってはただの他人事でしかない。そう思うと酷く悲しくなった。

 ふらつく足取りで、湊は武田の元へと歩み寄った。

 武田はまるで眠っているかのようにそこに倒れていた。顔に付いていた絆創膏は雨で剥がれ落ち、頬などにいくつか擦り傷のようなものが付いているのが見える。

 雨のおかげではっきりとは分からないが、頭の辺りに赤い液体がコンクリートに流れているのが分かった。そのまま視線を彷徨わせると、武田が靴を履いていない事に気付いた。

 何故だろうか。落ちた時にたまたま脱げてしまったのだろうか。

「ど、退いてくれ!」

 不意に、背後からそう叫ぶ声が聞こえてきた。

 声の方を振り返ると、一人の男が傘もささずにこちらに駆け寄って来るところだった。武田と同じく坊主頭で、やや垂れた目で、どこかふわふわした雰囲気の青年だった。湊はその男に見覚えがあった。

 よく、武田と一緒に居たのを知っている。確か名前は佐々部ささべだった筈だ。

 佐々部は湊の存在に気付くと、スピードを落とし湊の前で止まった。

「一ノ瀬さんだったんだ……。それで、武田は大丈夫なのかい?」

 息を切らしながら、佐々部は尋ねてきた。

 湊は言葉を詰まらせた。正直に言うべきだろうか。それとも誤魔化すべきか。いや、事実を変える事など誰にも出来ない。誤魔化すべきではない。

 そう判断して、湊は目を伏せた。

「多分、もう……」

 湊が小さくそう呟くと、佐々部は武田のすぐ近くにしゃがみ込んだ。

「……こんな所で寝てたら風邪引くよ?」

 暫く武田の事を見つめてから佐々部はそう言った。

 当然だが武田に反応は無い。それでも佐々部は声をかけ続ける。

「この後練習あるんだからさ、さっさと起きなよ」

 少し語尾が震えだした。

 雨の勢いが一段と強まった時、雨音に紛れて嗚咽が聞こえた。

 湊はその様子を見続ける事が出来ずに視線を足元に落とした。

 どうして、こんな事になってしまったのだろう。

 武田の笑顔が脳裏を過る。

 彼と初めて会ったのは、ちょうど去年の今頃だった──。






 その日は、夏を先取りしてしまったかのような日差しが強く前日の雨のせいで湿気が高く蒸し暑いという外へ出るのは不快極まりない日だった。しかし何の因果か、そういう日に限って外出する用事が多いのである。

 苛立ちを抱えながら大学敷地内を歩く湊の元にカンっと心地のいい音が届いた。

 野球部か、こんなに暑い日によくやるなぁ、などと感心していた直後、左足に強い衝撃を受けた。

 「痛っ⁉」と小さく悲鳴を上げて、湊が左足の方を見るとそこには野球のボールが転がっていた。

 まさかピンポイントで直撃したとでもいうのか。だとすれば何たる不幸だろうか。

「すみません! この辺りにボールが飛んできませんでしたか?」

 湊が痛みに呻いていると一人の男が駆け寄ってきた。

 泥まみれの練習着を着て、左手にはグローブがはめられていた。誰が見ても分かる。彼は野球部なのだと。

 野球部の男は左足を押さえる湊の姿と、その足元に転がったボールを見比べるように視線を移す。暫くして、ハッとしたように目を見開いて男は大きく頭を下げた。

「申し訳ありません! お怪我をさせてしまいました!」

 大きな声で謝罪の言葉を口にする。

 その勢いに圧倒されながら、湊は苦笑いで対応する。

「だ、大丈夫ですよ。偶々ここを歩いていた私が悪いんですから」

「いえ! そういう訳にはいきません。何かお詫びを」

 頭を下げたまま男がそう言う。妙に生真面目な人だな、とぼんやり思った。

「本当に大丈夫ですから気にしないでください」

 湊がそう返すと、野球部の男はジッとこちらを見つめながら黙った。やたらと熱のこもった視線に耐えきれずに湊は顔を背ける。

「な、何ですか?」

「惚れました」

「……は?」

「俺と付き合ってください」

 真剣な顔で、唐突に彼はそう言ったのだ。その時の私の顔はおそらく他人に見せるのは憚られるほど酷いものだったに違いない。

 これが、武田との出会いだった。

 ついさっきまでは、良い思い出ではなかったはずなのに、どうして今になって切なくなるのだろう。

 遠くから聞こえるサイレンが、雨音を掻き消していった。


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