第一章 透明との邂逅

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「あぁ〜憂鬱ゆううつだぁ〜」

 叩きつけるかのように雨粒の当たる窓を眺めながら隣に座っていた佐野さの真紀まきはそう嘆いた。時には中学生とも間違えられるほどの童顔の彼女は、湊が親友だと思っている友人のひとりであり、大学生にもなってツインテールが似合うというなかなか珍しいタイプの女の子だ。

 億劫おっくうそうに項垂れる真紀はそのまま近くの本棚から一冊漫画を取り出して開く。タイトルは“雑草魂”だった。少し内容が気になる。

「そういう事言わないでよ。もっと憂鬱になる」

 湊は苦笑いを浮かべながら真紀にそう言う。けれど彼女の気持ちはよく分かる。雨の降る日はジメジメとしていて、無条件に気が滅入ってしまう。

 もう何度目かの小さなため息を吐いて、湊は机の上に乱雑に置かれた白紙の原稿用紙に視線を落とした。

 湊は大学の文学部の現代文学科に属している。

 二年生に上がって一番初めの課題として今回、三万文字程度の短編小説を書く事になったのだが、これがかなり難しい。

 どんな話を書こうか、と湊は青い背表紙の本を開いた。

 一年に数回、学校の中で発行される文学部の中で優秀賞を受賞した小説が掲載される『凛海文芸大賞』と大々的な名前の雑誌で、カラフルな背表紙が特徴だ。恋愛からホラーまで多種のジャンルがあり、そのジャンル毎に背表紙の色が違う。例えば、赤い背表紙ならファンタジー。緑ならミステリー。そして黒ならホラーとそれぞれ分けられている。ちなみに湊が開いた青の背表紙は歴史物だ。何かいいアイデアは無いものかとペラペラページを捲っていくが見つからない。

 あれもこれも良いけどイマイチパッとしない。

 そんな感じで一文字も進まないまま既に一週間が経過していた。提出日まではあと二週間。このままではかなりマズイ。

 ここへ来たのは九時過ぎだったが、壁に掛けられた時計の針は十時半を指している。一時間半も手付かずのままである。

 集中しようと構内にある図書館まで赴いたのだが、それはどうやら間違いだったみたいだ。

 この図書館は三階建てで、大学の南西の端に佇んでいた。仰々しい両開きの扉を開けると大きなエントランスが広がっており、そこを真っ直ぐ突き進むと、図書館への入口である自動ドアに辿り着く。一階には書棚が立ち並び、三階では映画などを見ることが出来る。そして湊のいる二階は本棚の他に、多くの机が並べられていて学生が勉強する時に良く利用されているフロアがあった。

 湊達が座っているのは一番左端の窓際の席だった。一階と二階のフロアは階段状にずれていて、そこからは一階の入口も見下ろせる形になっている。

 湊達の他にも数人の学生が周りにいた。本のページを捲る音が大きく聞こえるくらい静かなこの空間では雨音が気になって集中出来ない。

 ぱちゃっと水の跳ねる音が脳裏を過る。

 息を切らして走ったあの日の記憶が蘇ってきた。あの日も今日のような大雨の日だった。

 声を掻き消す雨音、冷たい身体、触れる大きな手、荒い鼻息、舌舐めずりをする男の顔。

 湊は思わず自分の身体を抱き締めた。

 もう、三年も前の事なのに……。

「……湊?顔色悪いよ?」

 いつからこっちを見ていたのか、真紀が心配そうに声をかけてきた。

「あ……うん。大丈夫」

 湊は引きった笑みでそう返した。

 ひやりとした汗が背筋を流れる。

 雨の日は、いつもこんな感じだった。

 どんなに頑張っても、あの日の記憶が頭の中を支配して、蝕んでいく。

 吐きたくなるようなこの不快感はいつになっても消える事は無いのだろう。

「おっ、一ノ瀬じゃん」

 不意に横から声がかけられた。

 湊はびくりと体を強張らせて、苦笑いを浮かべながらそちらを向くと、そこには一人の男子学生が立っていた。

 短く刈り上げられた坊主頭に、目や鼻がはっきりとした顔立ちで、左頬には絆創膏が貼られている。

 同じ学年で野球部に所属する武田たけだ広大こうだいという男だった。

 二年生ながら野球部ではエースとして活躍しているらしく、かなり学内でも人気者の一人である。

 半袖のシャツから見えるガッチリとした腕には三冊の本が抱えられている。

 赤と緑と黒い背表紙の本だが、何の本かは分らなかった。

 湊は気まずさを隠しながら会釈を返した。

 その時、視線が下を向いて気付いた。彼はスパイクを履いていた。外は大雨だというのにこれから練習があるのだろうか。大変そうだな、と他人事の様に思う。

 武田とは一年生の時から面識があるが、湊は彼が苦手だった。

 一年の時から今に至るまでに三回、彼から告白されている。

 その全てを湊はお断りしているのだが、彼は何事も無かったようにこうやって話しかけてくる。

 向こうが気にしてないのはありがたい事ではあるが、こちらとしては余計に気まずい。

 三度も振った相手にどんな顔で話せばいいのか分からないのだ。

「一ノ瀬は勉強か?」

 武田が一歩こちらに近付く。

 一瞬、過去の出来事と重なって湊はびくりとして少し椅子を引いた。

「……大丈夫か?」

「あ、うん、大丈夫……だから」

 湊が小さくそう答えると武田は「そうか」微笑んで離れた。

「勉強頑張れよ」

「勉強じゃないよ。再来週提出の課題」

「課題?」

「そう。小説書くの」

「へぇ、それも文芸大賞に載るのか?」

「さぁ……。分からないけど多分優秀作品は載るかも」

「なるほどな。今から楽しみだ」

 武田がくくっと笑う。まだ一文字も書けてない作品にそんな期待されても困る。

 そんな湊の心象を知らない武田は、お気楽な様子で「うん。楽しみだ」と噛みしめるように呟いている。

「あっ、そうだ忘れてた。一ノ瀬、また今度な」

 不意に武田は何かを思い出したらしく、そう言ってこちらに手を振ると慌てたように階段を駆け下りるとそのまま図書館を出て行った。

 嵐が過ぎた、と湊は安堵するとぐいっと首に手を回された。

「おいおいおい、いい感じだったじゃないかお二人さん。ん?んー?」

 あぁ、まだめんどくさいのが居たんだった。

 湊は首に回された真紀の手を離して睨みつけた。

「別にそんなんじゃないよ」

「でも向こうは三回も告白してくれてるんだよ?そろそろ諦めて付き合うのもありじゃない?湊って全然そういう事に興味無さそうだし」

「余計なお世話だよ。私だって恋愛したくない訳じゃないけど」

「……けど?」

「……何でもない!」

 湊は無理やり話を終わらせた。

 誰かとお付き合いしたい、そう思った事は確かにある。しかしそれは無理だった。

 あの日以来、男性が近付くだけでも身体が強張ってしまうのだ。

 分かっていても男性に恐怖を抱いてしまう。

 こんな状態では武田にだって迷惑がかかる。だから何度も断っているのに。

 ──もういっそ、この事を小説にしてやろうかな。

 投げやりにそう考えた時、黒い何かが窓の外を通過していった。

 直後、ドスンと重たいものが落ちたような鈍い音が聞こえた。

 静寂に包まれていた図書館の中がざわっとした。

「何?今の音……」

 真紀が席を立ち窓に歩み寄り、外を覗き込んだ。

 その瞬間、雨音を掻き消す悲鳴が窓の外から聞こえた。

「湊!」

 こちらも悲鳴のような声色で名前を呼びながら、真紀が血相けっそうを変えてこちらに駆け寄ってくる。

 普段は常々ニコニコとしていて、ムードメーカー的な存在の彼女が、今まで見た事ないくらい怖い顔をしている。

 それだけで只事じゃないのだと理解出来た。

「どうしたの?」

「どうしたの?じゃない!大変なんだよ!」

 真紀がそう言ってずいっと顔を寄せてきた。

 いや、そう言われても何も分からないのですが。

「さっきの男の子が下で倒れてるの!」

「……えっ」

 一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。

 何だって?さっきの男の子って武田君の事?

 武田君がどうして下で倒れてるの?どういう事なの?

 様々な疑問が一斉に押し寄せてくる。

 その時、窓の外を通過した黒い物体と鈍い音を思い出した。

 気付けば湊は図書館を飛び出していた。

 走るな、とどこかから注意の声が聞こえたが無視して階段を駆け下り、入口近くに設けられた傘置きから一つ傘を乱暴に抜き取る。

 よく見るとそれは自分の傘とは似て非なるものだったのだが、今はそんな事を気にしていられる余裕が無かった。

 まさか、冗談に決まってる。

 そんな事ありえるはずがない。

 自分に言い聞かせるように、そう思いつつ図書館の外に出ると、そこには沢山の傘が開いていた。

 ざわざわと困惑やら畏怖いふやら好奇心やらが入り乱れている。

 湊も傘をさしてその群れに近付いて言葉を失った。

 図書館の入り口のすぐ左には花壇がある。

 チューリップやら何やらが色鮮やかに咲き誇っているその花壇の前に仰向けでだらしなく横たわる男の姿が見えた。

 雨の音が遠のいていく。

 何で……ついさっきまで笑ってたのに。

 そこに倒れていたのは間違いなく、武田だった──。

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