7


 ピシッと空気に亀裂が入ったように感じたのはおそらく気のせいではない。

 数十分ほど前の出来事の傷跡が未だに尾を引いているのだろう。

 白峰が情報収集と言って向かったのは武田が転落した図書館前の花壇だった。

 ちなみに真紀は雨に濡れたくないと言って図書館にこもったままだ。

 武田が落ちた花壇の周りには未だに捜査員の人が右往左往していて、周りにはちらほらと野次馬の姿も確認出来た。

 そんな中、白峰はしばらく視線を彷徨わせてから「見つけた」と呟くと真っ直ぐ花壇の方へ歩いていく。

 誰を探しているのだろうと思った直後、見知った顔がこちらを向いて固まった。

「や、やぁ、また会ったね」

 ぴくぴくと頬を痙攣させながら目の前の強面──近藤は声を発した。

 周りの捜査官の事を考えてか、ぎこちなく笑みを浮かべてはいるが、全身から早くどこかへ行けというオーラが滲み出ている。

 私だって出来れば会いたくなかった。気まずいだけだし。

 だが、そう思う湊の横では白峰が微笑を浮かべて立っている。

「近藤さん。数十分ぶりですね」

「もう君の推理は終わったんじゃなかったのかな? 今度は何の用だ」

「よろしければ、お話をお聞きしようと思いまして」

 白峰が言うと近藤は眉間にしわを寄せて、「何を?」とため息交じりに呟いた。

「事件の捜査の進捗状況をお教え願いたいです」

「無理だ」

 白峰が願いたいの二つ目の“い”を発するのと近藤が拒否するのが同時だった。

「無理ですか?」

「当たり前だ。捜査情報を民間人に開示出来る訳ないだろう」

「そうですか。では、こちらはこちらで調べる事にします」

 白峰はそう告げると、頭を下げて踵を返した。

 やはり駄目だった。

 湊が肩を落とした時、近藤が慌てたように白峰を呼び止めた。

「君、調べるって事は屋上などにも行くという事か?」

「そうなりますね」

「現場を荒らすと言うのかね?」

「受け取り方次第ではそうなるかもしれませんね」

「勝手に学生に聞き込みなんて事はしないよな?」

「同じ学校の学生と話す事に何か問題でもあるんですか?」

 丁寧に白峰が答えていく度に近藤の顔が苦悶に満ちていく。

 あー、うー、ぐぅっ、ん〜、と俯き加減に呻く声が聞こえてくる。

「……だが……困るしな……しかし……あーくそっ!」

 呻く声はボソボソと独り言に変わり、最終的には暴言になっていた。

 それから、睨みつけるように白峰に視線を戻すと、心底嫌そうに呟いた。

「教えてやる……」

「ありがとうございます」

 妙に勝ち誇ったような様子で白峰はお礼を告げた。

若林わかばやし! 説明してやれ」

 流石に転落現場で話し込むのは難しいと場所を変えてから、近藤がそう怒鳴ると先ほども一緒にいた若い刑事が手帳を取り出した。どうやら若林という名前らしい。

「えー、まず被害者である武田広大の死因ですが、これは転落した時に後頭部を強く打ちつけた事による脳挫傷と思われます。犯人は武田を突き落とした後、鉄製の非常階段を使って逃走したと思われますが、非常階段付近の地面からは複数のスパイクの跡しか見つかっていません。武田が落ちたと思われる屋上には、綺麗に揃えられた靴と、その下にビニールに包まれた例のラブレターだけが置いてあり、その他に犯人に繋がりそうな物は何もありませんでした」

 若林が手帳を見ながら淡々と情報を提供してくれた。

 脳挫傷……。

 よくテレビなどで聞くが、実際にその単語が耳に入ってくると重苦しい響きを持っていた。

 湊は隣の白峰に視線を移すと、はっと息を呑んだ。

 白峰は思い詰めたように顎に手を当てて、俯いてぶつぶつと何かを呟いていた。

 人が変わったようにさっきまでと纏う雰囲気が異なっていた。

「白峰さん……?」

 湊が名前を呼ぶと、白峰は顔を上げた。

 前髪に隠れて相変わらずその表情は分からなかった。

「屋上には、本当にそれ以外何も無かったんですか?」

「あぁ。何も無かったよ」

 白峰の問いかけに近藤が答える。

「……おかしいですね」

 小さくそれだけ呟いて、白峰は再び俯いてしまった。

「おい、何がおかしいんだ?」

「いえ、分かりませんけど」

「分かっとけよ!」

「無茶言わないでくださいよ……」

 そんな近藤と若林の会話を湊は上の空で聞いていた。

 どうしちゃったんだろう。

 湊は不安に思いながらも白峰から目を離せなかった。

 何やら真剣な面持ちで思考に没頭するその様子は、不思議と様になっていた。

「……自殺」

 ぼそりと白峰が言った。

 え、と思った頃には近藤が白峰に詰め寄っていた。

「自殺だと言うのか?」

「まだ……確証はありません。しかし、状況的に不自然で……。その可能性が高いかと」

 弱々しい口調で白峰が言う。

 武田君が、自殺? 信じられない。

 信じられないけれど、白峰の推理ならそうなのかもしれない、と思ってしまう。

 相反する感情が湊の中で複雑に渦巻いた。

「どうして自殺だと判断したんですか?」

 湊は白峰に疑問をぶつけた。

 結果がどうであれ、納得の出来る答えが欲しい。

 白峰は少し躊躇ってから静かに推理を語り出した。

「……傘が無いからです」

「傘が無い?」

 若林が裏返った声を上げた。

「はい。そうなると武田さんが屋上へ上がった理由が限定されてしまうんです」

「どういうことだ?」

「先ほども申し上げましたが、雨に濡れない為には傘が必要不可欠ですよね? その傘が屋上に残ってないという事は、武田さんは何の為に屋上に向かったのでしょうか?」

「何の為って……」

 近藤が小さくため息をついた。

「犯人に呼び出されたからに決まっているだろう」

「確かにその通りです。しかし、そうなるとやはり屋上に傘が無いのは不自然なんですよ」

「何故だ」

「雨に濡れてしまうからです」

 もう何度目かの当たり前の発言だった。

「それは言われなくても分かる。それの何がおかしい?」

 近藤は苛立ち気味に腕を組む。

 湊にも、白峰が何を言いたいのか分からなかった。

 傘が無いなら雨に濡れる。至極真っ当、当然の事だ。それのどこが不自然だというのか。

「冷静に考えてみてください。自分の事を武田さんだと思って。──仮に犯人から屋上へ呼び出されたとします。内容は何だったのでしょう?……まぁ今は仮定なので“大事な話がある”とでもしておきましょう。武田さんは犯人から大事な話があるからと屋上へ呼び出されました。恐らく相手は親しい人間だったと思いますが、今それは置いておきます。そして、武田さんはその呼び出しに応じて屋上へ上がり、そしてそこで犯人に突き落とされた──。

 これが今まで考えていた事件の流れでした。ですが、この推理を屋上の状況と照らし合わせてみると不自然な点が出てきます。──傘です。傘が無いのはやはりおかしいと言わざるを得ません」

「何故だ。傘が無くたって辻褄は合うんじゃないか?」

 近藤が冷めた口調で割り込む。

 だが、白峰は首を横に振った。

「いいえ、合いません。それでは武田さんの行動に説明がつけられないんです」

「武田君の行動……?」

 湊が首を傾げる。

 不自然なのは武田の行動という事か。だが、どこがおかしな点なのだろう。

 親しい人に呼び出されて、屋上へ向かった。武田がとったとされる行動は自然に思えるのだが。

「屋上に傘が残されていないという事はどういう事なのでしょうか。武田さんは傘を持たずに屋上へと上がったのでしょうか?」

「そうだ。それなら問題無いだろ。傘が屋上に無かったのは傘を持って行かなかったからだ」

 近藤が一人納得したように声を上げた。

 だが、白峰は首を横に振った。

「いえ、大問題ですよ。屋上へ呼び出された武田さんはどうして傘を持たずに屋上へ上がったんです? 

「……」

 白峰の言葉に近藤は銅像のように固まってしまった。

 湊も「あっ」と間抜けな声が漏れてしまった。

 そして微かに「あっ」という声が重なったのが分かった。チラッと見れば若林も同じように間抜けな顔をしていた。

 そうだ、普通に考えればおかしい。

 屋上へと呼び出されたのなら必ず傘を持って行く筈だ。

 何故ならのだから。

 そうなると屋上に傘は残っていないのは確かに不自然な事だ。

「誰かに呼び出されたのなら傘を持たずに屋上へ行くのはおかしいですね。雨に濡れてしまうんですから。そうなると考えられる可能性は二つです。

 一つは犯人が持ち去ったという可能性ですが、同時に疑問も浮かび上がってきます。何故、犯人は武田さんの傘を持って行ったのか? 普通に考えてリスクが高すぎるんです。もし犯人が武田さんの傘を持って逃走した場合、自分の傘と武田さんの傘──所を誰かに見られる可能性がある。誰が見たって不自然に思うでしょう。合理的な判断とは言えません。

 ではもう一つの可能性です。傘を犯人が持っていってないのだとすれば、考えられるのはただ一つ。それは武田さんが自らの意思で傘を持って行かなかったという可能性です」

「え、待ってください」

 淀みなく推理を披露していく白峰を若林が挙手をして止めた。

「確か、若林さんでしたね。何か気になる所がありましたか?」

「矛盾してます。あなたは武田が傘を持たずに屋上へ上がるのはおかしいと指摘しました。ですが今、武田が自ら傘を持たずに屋上へ上がった可能性を提示しています。どういう事ですか?」

 湊は感心した。若いのにしっかりした人だ。この人も刑事なんだと改めて実感した。

 近藤も若林の様子に驚いたように目を見開いていたが、すぐに我に返り同じように問い詰める。

「そうだ。君の推理は矛盾しているではないか」

「言葉が足りませんでしたね。すみません」

 白峰が謝罪を口にしながら頭を下げて、右手の人差し指を立てた。

「武田さんが自ら傘を持たずに屋上へ上がったという可能性には一つの前提があります」

「前提?」

 近藤が聞き返すと、白峰は大きく頷いた。

「はい。武田さんは自ら屋上へと向かった。つまり、という前提です」

 何食わぬ顔で白峰はそう告げた。

「なっ……」

 その場に居た全員が言葉を失った。

 武田が犯人に呼び出されていなかったのだとすれば今までの推理は全て無駄だったという事になる。

「どうしてそうなるんですか?」

 湊が代表してその質問を繰り出した。

「もしも武田さんが自ら屋上へ上がったのだとしたら、傘を持たなかったというのも頷けます」

 白峰の口調がやや控えめなものに変わる。

 そして真っ直ぐ湊の方を向いた。

「雨に濡れても構わなかった、無駄な荷物は持ちたくなかった──そして、あの屋上の状況を合わせて考えてみると一つの結論が出せます」

 彼がその先何を言うのか湊には予想が出来た。

 出来ればこの予想は外れて欲しい。

 そう願ったが、無情にも白峰の口は予想通りの答えを吐き出した。

「武田さんは──という事です」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る