10


「白峰さん本当ですか⁉」

 湊は思わず大声を上げてしまった。

 図書館では静かにしなければならないのだが、それよりも驚きの方が大きかった。

「はい。分かりました」

 白峰は淡々と肯定する。犯人が分かったというのに、あまりにも冷静だ。

「待て。犯人と言ったか? という事は自殺ではないと言うのか?」

 近藤が席を立ち上がり、白峰の肩を掴む。

 そういえばそうだ。彼は犯人が分かったと言った。つまりそれは誰かの手によって武田は殺されたという事になる。

 それはそれで、かなり大変な事なのだが、白峰は当たり前のように頷いた。

「はい。これは殺人事件です。間違いありません」

「何故そう言い切れる?」

「謎が全て透明になったからです」

「透明……?」

 意味が分からない、といった表情を浮かべる近藤をよそに白峰は語り始めた。

「今回の武田さんの転落事件。この事件、実はかなり単純で杜撰ずさんな事件です。ちゃんと調べれば誰でもすぐに解ける謎でした」

「えっ、そうなんですか?」

 単純で杜撰? とてもそんな風には思えないのだが。

 湊が戸惑っていると、近藤は再び近くの席にどかっと腰掛けて腕を組む。

 そのまま鋭い目で白峰を睨みつけた。

「では、聞かせてもらおうか。君の推理とやらを」

「最初からそのつもりですよ」

 白峰はそう言って一度、手を叩いた。

 パンっと乾いた音が響いて、場面転換をするように周りの雰囲気が一変したのが分かった。

「では、まずは大まかな事件の流れについてお話ししましょうか」

 白峰はまるで教壇に立って講義する講師の様に全員に向けてそう切り出した。

「今回、武田さんはこの図書館の屋上から転落し亡くなりました。体にはいくつかの抵抗した傷があり、後頭部に致命傷があった為、武田さんは抵抗したのち、犯人によって後ろ向きに転落したと考えられます。一ノ瀬さんが武田さんと会ったのは午前十時半、そして武田さんが転落したのは午前十時四十五分頃。という事は、この十五分の間に犯行は行われたと考えるべきでしょう。では、一体誰が彼を突き落としたのでしょうか?」

「早く教えろ」

 近藤が憮然とした顔つきでそう言うと、白峰は苦笑いを浮かべた。

「まぁ犯人の名前をお教えするのは簡単ですけど、犯人がどうやって彼を落としたのかしっかり説明しないと納得してもらえないと思いますので、少し探偵の真似事にお付き合いください」

 白峰が皮肉まじりに返すと、納得してない顔をしながらも近藤は口を閉ざした。

 再び張り詰めた空気が辺りを包み込む。図書館本来の静寂が、ピリピリと肌を刺激する。

 湊はなんとなく辺りを見回した。図書館そのものを警察が封鎖でもしたのか、二階には自分たち以外の学生の姿は無かった。

 そうして視線を戻す。気付けば若林も席に座っていた。

 聞き手が自分だけ立ってるというのもあれなので、湊も近くの椅子に腰掛ける。

「……では、話を続けます」

 白峰は一人立ち、こちらを向きながら雄弁ゆうべんに語り出す。

 本当に授業を受けているような感覚になる。

「まず、今回の事件で注目すべきは大きく分ければ二つ──です」

 右手の指を二本立てて白峰は言った。

「傘と靴だけで犯人が特定出来ると言うのか?」

 小馬鹿にしたような口調で近藤が言い放つと、白峰は大きく頷いた。

「寧ろ、傘と靴無しには犯人は特定出来ないと言えますね」

「なっ!」

 近藤の表情が強張った。それを見た白峰は満足そうに微笑むと階段の横に置かれていたホワイトボードを引っ張り出した。

 足にはローラーが付いているので、軽い力でも移動させることが出来る。実際にテスト勉強の最中に学生が使っているのも見た事がある。

「口頭だけでは伝わりづらい事もあるかもしれないので、一応これも用意しておきます」

 クスッと笑って白峰はホワイトボードに磁石でくっ付いていた黒いペンのキャップを外すと、キュッという音を鳴らしながら文字を書き始めた。

「では、まずはこの問題から解いていきましょうか」

 そう言って、白峰はこちらに振り向いた。

『問題一 傘の行方』

 ホワイトボードの右端には白峰の手によってそう書かれた。



「傘の行方?」

 若林がホワイトボードに書かれた文字に疑問符を付けて反復した。

「はい。本来なら屋上に残されているはずの傘が何故存在しないのか──その問題の答えによって犯人は一気に絞られるんです」

「何だと?」

 近藤が片眉をつり上げる。

 湊も怪訝な面持ちで白峰を見つめていた。少し前まで傘が無いから自殺だ、と推理を披露していた。それが数十分の間にひっくり返るなんて。

「傘が無いから自殺──そう言ってなかったか?」

 近藤が湊の抱いた疑問を直接ぶつけた。

「確かにそう言いました。あの時は第三の可能性を見落としていましたから……大馬鹿ですよね」

 白峰は自嘲気味にそう言うと、再びホワイトボードにペンを走らせる。

「もう一度、傘が消えた理由について考えてみましょうか。武田さんが転落したあの屋上には揃えて置かれた靴とビニールに包まれた手紙以外の物は無かった──これは確かな情報ですよね?」

 改めて白峰が訊くと、近藤は面倒くさそうに頷いた。

「では、まず第一の可能性について考えましょう。犯人が傘を持ち去ったという可能性です。何かの工作の意図があり持ち去ったと思いますが、少しリスクが高いと思います。何故ならその場合犯人は、武田さんと自分の傘──つまりという状況が出来上がってしまうからです。この状態を誰かに見られれば、疑われてしまう可能性がある」

 白峰はホワイトボードに『犯人が傘を持ち去った』と書いてからその下にバツを付けた。

 これは前にも聞いた。人が落ちた現場を二本の傘を持って歩く人がいれば疑われるのは必然の流れだと言えるかもしれない。故に、白峰はその可能性を否定したのだ。

「ではもう一つ、今度は元から傘を持って行かなかった場合の話です。もし犯人から呼び出されて屋上へ向かったのならこれは不自然ですね。外は大雨でした。その状況で傘を持たないで屋上へ上がるはずが無い。ですが、例外もあります。それは武田さんがカッパなどを利用していたという可能性です。その場合傘は必要ありませんからね。ですが、この可能性は否定する事が出来ます。まず屋上にはカッパなんてものも残されてはいませんでした。つまり犯人が持ち去ったと考えるべきでしょう。しかし、転落現場に集まっていた野次馬の皆さんの証言では、カッパを着て歩いていた人は見ていないと言っていました。という事はカッパは使用されていない」

「犯人は傘を持っていて、カッパは畳んでポケットなどに隠していたんじゃないのか?」

 近藤がそう指摘すると、白峰は小さく首を振った。

「では、どうして犯人はカッパを持ち去ったのです? 自分で傘を持っているのに、わざわざ武田さんの着ていたカッパを脱がして持ち去る理由が無い。時間もかかるし、事件発覚の恐れが高まります。そう思いませんか?」

 白峰はそう問いかける。近藤は口をへの字に曲げて黙っていた。

 反論が出ないので、どうやら肯定らしい。

「……以上の理由から、武田さんは元から自殺するつもりで屋上に上がったのだと考えました。しかし、一ノ瀬さんに図書館で会った時の武田さんの様子を訊いて、いくつかの疑問が出てきました」

 新たに『傘を持って行かなかった場合』と書きながら白峰が言った。

「疑問ですか?」

 唐突に自分の名前が出てきて、湊は思わず身構えた。そして少し記憶を辿る。

 武田と話した時、彼は何かおかしな行動をとっていただろうか。それに今までの話を聞く限りでは、疑問なんてものはどこにも無いと思うのだけれど。

 湊の問いかけに白峰はゆっくりと頷いた。

「はい。それは武田さんのとった行動です。彼は一ノ瀬さんに会って少し話した後、唐突に何かを思い出したように階段を駆け下りて図書館を出て行ったんですよね?」

「は、はい。そうですけど……」

「現時点で考えられている可能性は、武田さんは最初から自殺するつもりで、傘を持たずに屋上へ上がった──そう考えるとその行動がおかしいのが分かりますか?」

 白峰がそう訊いてきた。武田の行動におかしな所など無いように思えるのだが。

「別におかしくも何ともないだろう」

 横から近藤がつまらなそうな声が飛んでくる。

「いえ、おかしいですよ。自殺するつもりなら? 

「あっ」と気の抜けた声が一斉に上がった。

 そうだ、確かにおかしい。傘を持たずに屋上へ上がったのだとすれば、わざわざ一階から外へ出る意味が分からない。

 皆の反応に満足したように白峰は頷く。

「傘を持たずに屋上へ行くのなら、普通は図書館の中から屋上へ出るはずでしょう? ですが、武田さんは階段を駆け下りて一階から図書館を出たんです。あまりにも不自然な行動ですね。これが一つ目の疑問点です」

 ホワイトボードに『疑問一 武田さんの行動』と書き記された。

「一つ目という事は、他にもあるんですか?」

 湊が訊くと白峰は「はい」と返事をして、疑問一の隣に『疑問二』と書いてから静かに言った。

「もう一つの疑問点は、武田さんが持っていた三冊の本です」

「三冊の本だと?」

 近藤が首をひねった。

「はい。武田さんは今日、図書館で三冊の本を借りているんです。これから自殺する人が三冊も本を借りますか?」

 自分が最初に考えた事を白峰が改めて口に出していると、何となく自分の思考も白峰に近づけているのではないか、と湊は一人心の中で思った。

「人生の最期に好きな本を読みたくなったんじゃないのか?」

 残酷なほど現実的な意見を近藤が口に出す。

 確かに見方を変えれば、そういう考え方も出来る。

「そうですね。確かに否定は出来ません」

 白峰も近藤の意見に同意を示した。

 それを聞いて近藤は勝ち誇ったように笑った。

「そうだろう? だとすればやはり自殺ではないのか?」

「ですが、仮に自殺だったなら新たな疑問が出てきます」

「何だ?」

「人生の最期に好きな本を読みたかった……では、武田さんが人生に終止符をうった後、?」

「……」

 勝ち誇った近藤の顔が石像のように固まった。

 今日何度目かも分からなくなった衝撃が襲ってきた。

「武田さんの借りた三冊の本は屋上にはありませんでした。人生の最期に読んだ可能性は確かにあります。ですが、その本は屋上からは見つからなかったんです。本を持って飛び降りたのでしょうか? いいえ、そんな本は転落現場には残ってなかったはずです。ならば、本棚に戻したのでしょうか? いいえ、それもありえません。先ほども言った通り、武田さんは階段を駆け下りて外へ出て行ったんです。本を戻す時間なんてありません。それでは、三冊の本はいったいどこへ消えたのか……実は、意外な所から見つかったのです」

「え……見つかったんですか?」

 湊は驚きを隠せなかった。

 行方知れずだった本が見つかっただって?

 いつの間に探し出したのか。

「若林さん。武田さんのロッカーの奥には赤や緑の背表紙の本が置いてあったんですよね?」

「あ、はい。ありました……ってまさか」

 若林はハッとしたように目を見開いた。

「そうです。武田さんのロッカーから見つかったその本が、彼の借りた三冊の本なのです」

 白峰がそう言うのを聞いて、湊はふと疑問に思った。

「と言う事は、武田君は一度部室へ行ったという事ですか?」

「いや、それは無いと思います」

 湊の推理は白峰によってすぐ否定された。

 しかし、それならどうして彼の部室のロッカーから本が見つかるのだろうか。

「自殺する前に読んでロッカーにしまったんじゃないのか?」

 近藤が言うと、白峰は近くの本棚から一冊本を取り出して、目の前に掲げた。

「思い出してください。武田さんは傘を持って行かなかったんですよ? 図書館から歩いて十分かかる部室へ着いた時、抱えていた本はどうなると思いますか?」

「どうって濡れるに決まって──」

 近藤がそこまで言って止まる。

「そう。当然、雨に濡れる筈です。外は大雨でした、十分間も濡れれば本はぐしゃぐしゃになったに違いありません。つまり、

 白峰はそう言い切ると、『傘を持って行かなかった場合』という可能性にもバツを付けた。

 彼が以前に提示していた二つの可能性は潰えてしまった。

「ま、待て! 部室まで傘を持って行き、ロッカーに本を置いて、その後に傘を持たずに屋上へ向かったとは考えられないか?」

 慌てたように近藤が言った。

 それに対して白峰の返答は「否」だった。

「それはありえません。わざわざ部室まで行かなくても、本を読むだけなら図書館の中で出来るだろうし、部室までは傘を持って行き、部室から図書館まで傘を持たずに行くというのはあまり合理的とは言えません」

「だ、だが……」

「そもそも無理なんですよ」

 なおも食い下がろうとする近藤を横目に、白峰はそう言い切ってスッと右手を上げた。

 そして人差し指を立てると、それを壁の方へ向けた。

 視線で追ってみると、そこには丸い壁掛け時計が一定のリズムで、針を回転させていた。

「ここから部室棟までは歩いて十分かかります。往復すれば二十分──。よって、部室棟に本を置きに行くのは“不可能”なんですよ」

「ぐっ……。いや、走ればなんとか間に合うんじゃ」

 近藤の必死の推理にも、白峰は小さく首を振った。

「確かに走れば可能性はあるでしょう。ですが思い出してください。その時間、部室には人がいましたよね? その人たちは武田さんの姿を見ましたか? いいえ見てません。つまり彼は部室には行っていない。それは確かなのです」

「……じゃあ、どういう事なんですか?」

 ぐうの音も出なくなった近藤に変わり、湊が声を発した。

「傘を持たずに屋上へ行った可能性が無くなった以上、やはり武田さんは傘を持って屋上へ上がったと思われます。ですが、現場に傘は無かった……何故なのか? 僕はその答えについ先ほど気付きました。今まで見落としていた事が恥ずかしくなるくらい、ごく簡単な結論です」

 白峰がホワイトボードに三つ目の可能性を書き込んでいく。

「やはり傘は。しかも誰に見られても不審に思われないような方法で──です」

 そんな方法があるのか、と疑問を抱いたのは一瞬だった。

 ホワイトボードに書かれたのは、本当にごく簡単な、単純かつ明瞭な答えだった。

「犯人は武田さんの傘を持ち去っても怪しまれなかった。当然です。犯人は逃げる時、

 白峰はそう言いながら、ホワイトボードに丸を付けた。

 その丸の上には『』と簡素な文が書き記されていた。

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