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 気が付けばあっという間に日曜日を迎えていた。

 人は、翌日に楽しみな事があったりすると、興奮やら緊張やらで眠れなくなったりするらしいのだが、どうやら湊もその例に漏れることはなかった。

 思いのほか日曜日を楽しみにしていたのと、白峰と出かけるという緊張が相まって、結局寝たのはほんの二時間前で、起きた今は午前四時半である。いくら何でも早起きすぎる。

 だが、こんな時間に寝てしまえば、それはそれで不安だ。

 結局、湊は無駄に余った時間を服選びに費やす事にした。

 普段はあまりスカートなど女の子らしい服装はしないのだが、今日くらいはちゃんとした服装にした方が良いのだろうか。

 いや、だがそれこそデートを意識しているみたいじゃないか。けど、いつも通りって訳にも……。そもそも男の人と出かけるのなんて初めての事だし、何が正解なのか分からない。

 たっぷり二時間悩み抜いた湊の下した決断はいつも通り、少年のような服装だった。


 約束の九時より十分前に湊は家を出た。

 大した距離ではないと思うが、それでも家まで迎えに来てもらう以上、待たせるのは良くない。

 そう思い早めに家を出たのだが、アパートの前には既に白峰の姿があった。

 アパートを囲うコンクリートの塀に寄りかかり、本を読んでいる。その姿にはまるで絵画を見ているかのような完成された美しさがあった。

 そこでふと湊の頭に不安がよぎった。

 今日はいつにも増して気温が高い。

 先ほど見たニュースでは、最高気温は三十五度にもなるらしい。絶望的である。

 そんな炎天下の中、彼はいつから待っていたのだろうか。

 湊は急いで白峰の元に駆け寄る。

「白峰さん!」

「ん? あぁ、一ノ瀬さん。早いですね」

 白峰は呼び声に反応して顔を上げると、微笑を浮かべてそう言った。

 この暑さの中、彼の顔や首には汗一つ見受けられない。

 こっちは外へ出て数秒で汗が出始めているというのに、いったいどんな体をしているのやら。

「それはこっちの台詞です。いつからそこにいたんです?」

 湊がそう尋ねると、白峰は「今来たところです」とありきたりな答えを返してきた。

 相変わらず紳士的な人だ。それに、今時そんな返しをする男性がいるなんて意外だ。

 そこで湊は改めて思った。

 太陽の光を受けた彼の白髪は銀のようにキラキラと輝いて映る。

 とても綺麗だが、同時に少し眩しいのも事実だった。

 穏やかな風が熱を乗せて吹く。さらりと揺れる白髪の奥の瞳はやはり露わになることは無かった。

 彼の瞳については未だに訊けていない。

「……じゃあ、少し早いですけど行きましょうか」

 思考から逃げるように湊が提案すると、白峰は開いていた本を閉じて静かに頷いた。


 目的のイベント会場があるのは、電車で二駅のところにあり、その駅から徒歩で五分程度の場所に建つ小学校が今回のイベントの会場だった。

 三階建ての古い木造の校舎で、校門を抜けるとすぐに大きな第一校舎がそびえ立っていて、左奥の方に移動教室でのみ使う小さな二階建ての第二校舎がある。

 第一校舎の方は、上から見れば校門とは反対側、北門の方に開いたコの字型をしている。それによって中央棟と左右棟に分かれているらしい。

 第二校舎の方は今回のイベントでは使われないようで、小さな長方形の木箱として、ただ風が吹く度に建物が軋む音を響かせるだけだそうだ。

 どうしてそんな所を選んだのかはテーマに合っているからだそうだ。そのテーマは『児童の誘拐事件』らしい。

 校舎の至る所に隠されている杉竹本人が考えたたという謎を解いて、子供が誘拐された事件を解き明かすというのがイベントの内容なのだ。

 ファンにとってはとても楽しみな催し物なのだが、一部では、廃校になった木造の校舎を会場として活用するという夏にもぴったりなイベントだと盛り上がっているのを昨日ネット上で目撃した。

 何がどう夏にぴったりなのかは考えたくない。

 そんな事を考えているうちに、会場である小学校の前まで辿り着いていた。

 そこには既に大勢の人たちがひしめき合っていた。

「ここですか」

 隣を歩く白峰がぼそりと呟いた。

 人の多さに圧倒されたように、驚いたような口調だった。

「はい。行きましょう!」

 湊は気分が昂ぶってくるのを自覚していた。

 古びた校門を抜けると受付の人らしき女性に声をかけられた。

「お名前を伺ってもよろしいですか?」

「あ、はい。一ノ瀬湊です」

「一ノ瀬様ですね? ……はい、確認いたしました。イベントの最中はこちらのカードを首からお下げくださいませ」

 愛想の良い笑顔で女性は紐の付いたカードを手渡してきた。

 そこには『イベント参加者』と書かれていた。

 それを湊は首からかけると、小さく「よしっ!」と気合を入れた。

 振りかえると、ちょうど白峰がカードを首にかける所だった。

「それではこちらが今回の児童誘拐事件の概要になります。是非、あなた方の手で事件を解決してください」

 受付の女性はそう言って一枚の紙を渡してきた。

 そこには歪な文字でこう書かれていた。

『二◯一三年 七月二十八日。

 その日、一人の少年が下校途中に行方を眩ませた。まるで最初からそこに存在していなかったかのように突然消失したのだ。そして、それから三日が経った時、一本の電話が少年の家族の元にかかってきた。

「おたくの子は預かった。その子は今、廃校になった小学校の中に隠してある。自力で見つけ出せたら見事あなた方の勝利だ。ちなみに、子供の隠し場所のヒントは校内の至る所に隠してある。例えば上と下が切り替わる所とか。しかし、時期が時期だ。あまり時間をかけ過ぎると手遅れになる可能性もある。では、健闘を祈るよ」と犯人らしき人物からのメッセージだった。少年の家族は大勢の人に呼びかけて一斉に捜索をしてもらった。あなたもそのうちの一人だ。是非、少年の事を助け出してもらいたい──追伸 犯人からの第一のヒントの隠し場所についてだが、既に文の中に記してあるとの事──』

 読み終えてから湊は小さく唸った。

 正直、全然理解出来なかった。

 子供が誘拐されて、この小学校に隠されているというのは分かったが、それ以外は何も分からない。

「なるほど」

 同じように概要を見ていた白峰が納得したように頷いた。

「何か分かりました?」

 湊が期待を込めてそう訊くと、白峰は困ったように笑った。

「第一のヒントと、その答えくらいですけど」

「えっ⁉」

 何気なく放った彼の一言は湊を仰天させるには充分だった。

「え、ほ、本当ですか?」

「ここまではまだ小学生でも解ける程度の問題だと思いますけどね」

 クスッと笑いながら白峰は簡単に言う。

 あれ? もしかして私は小学生以下だと馬鹿にしてる?

 そんな湊の疑問をよそに白峰は歩きながら解説してくれた。

「追伸の通り、文の中に一つヒントが記されています。どこだか分かりますよね?」

 話を振られて、湊は再び概要に目を向けた。

 そしてそのヒントに気付いた。

「例えば上と下が切り替わる所」

「そうです。それが第一のヒントの隠し場所と捉える他ないでしょう。では、それは一体どこなのか? これは全然序の口ですね」

 そう言いながら白峰は昇降口を通り抜けた。

 そこはいくつもの下駄箱が並んでいて、足場として設けられている簀子すのこが人が通るたびにガタガタと音を立てていた。

 そこでようやく湊の頭にも閃いた。

「上と下が切り替わる──つまり、下履きと、上履きが切り替わる所という事です。それならこの昇降口以外にはありえません」

 白峰は淡々とした口調でそう言った。


 下駄箱の中を捜索していくと、二つ折りになった一枚の紙を見つけた。

 開いてみると、そこには概要と同じように歪な文字で、

『二つに分かれた“それ”の力持ちの方が手紙を持っていたと思う。もう一つ言える事は、“それ”は下にも上にもいるという事だ。右か左かで言えば左』

 と書かれていた。

 見て早々に挫折する。駄目だ、さっぱり分からない。

 横目で白峰の様子を窺うと、彼は顎に手を当てて黙っていた。

 その周りには同じようにヒントで躓いているのか、立ち尽くしてヒントを凝視してる人たちがちらほら見えた。

「い、意味不明ですね。これも」

 湊が苦笑いでそう言うと、隣の彼は「そうでもないですよ」と否定してみせた。

「へ?」

「こっちですかね」

 俯き加減で白峰はそう言うと、勝手に廊下を歩いて行ってしまう。

 え、ちょっと勝手に行かないでよ。

 湊は慌ててその後を追った。こんな古びた小学校に一人残されるなんてまっぴらごめんである。

 白峰の後を追って気付いた。どうやら白峰は左の棟へと向かっているらしい。

「どこへ行くんです?」

 湊が訊くと、白峰はピタリと足を止めた。

 そして振り返りざまにシニカルな笑みを口元に浮かべる。

「トイレです」

「……トイレ?」

 このタイミングでトイレへ行きたくなったのだろうか。

 もしかして朝から我慢していたとか? それならこちらにも少し責任がある。

「……何か変な事考えてませんか? 僕はヒントを元にトイレへ行こうとしてるのですよ?」

 何を考えていたのかを察したように白峰はそう訂正した。

 それはそれで湊に新たな驚きを呼び寄せた。

「え、あれも解けたんですか⁉」

「はい。確信はありませんけど」

 軽く笑う白峰に畏怖にも似た感情を抱いた。

 あのヒントはそんなに簡単なものだっただろうか。

 少なくとも私には全然分からないのだけど。

 白峰が再び歩き出す。そして同時に口を開いた。

「二つに分かれた“それ”とはいったい何の事なのかさえ分かればこれも難しい問題ではありません。一ノ瀬さん、小学校の中で……いや、小学校に限らずに、必ず二つセットであるものって何だと思いますか?」

「二つセットですか?」

 突然そう言われても、何も頭に浮かんで来ない。

 というか、小学校に限らずということは、それは小学校以外にも存在しているものという事になる。

「それが二つセットなのは、必ず二つ必要だからです。公共の場なら絶対です。何故ならそれは僕と一ノ瀬さんがいるからです」

 意味深な言い方で白峰が言う。

 どう言う事なのか。私と白峰さんがいるから二つ必要? 私と白峰さん……。

 そこでようやく彼が最初に言っていた事を思い出した。

「そうか、それでトイレなんですか……」

 公共の場なら必ず二つ必要。確かにそうだ。何故なら、人には二つの性別があるのだから。

 男性用と女性用の二つのトイレが絶対必要という事だ。

「そういうことです」

 満足そうに頷くと、彼は廊下の突き当たりにある階段を上っていく。

「これで“それ”の正体は分かりました。では次です。問題なのはそれがどこのトイレを指しているのか、という事です。確かヒントには『力持ちの方が手紙を持っていた』と書いてありましたね。そしてもう一つ『それは下にも上にもいる』という事。この二つのヒントによって、どのトイレを指しているのか分かるのです」

 階段を上り終えて、二階の廊下に出ると、白峰はこちらを振り返った。

「下にも上にもそれがいる──という事は上下にもトイレが存在するという事です。そんな状況になるのは、三階建ての校舎では二階以外にありえない。そして、力持ちの方は言わずもがな男子トイレという事になります」

「え、でも力持ちの女の人だっていますよ?」

「流石にそう言った不確定な問題は出ないと思いますよ。漢字の『力』が入っているのは『男』だから男子トイレという事になるんです」

 そう言って白峰は古びたトイレの扉を開けた。

 キィっと甲高い音が響く。

「あー、なるほど」

 ようやく理解出来た。

 同時に白峰が一緒にいてくれて良かったと安堵する。

 既に廃校となった小学校とはいえ、男子トイレに入るのは気が引ける。

「ありましたよ」

 数秒して、白峰は一枚の紙を手にトイレから出てきた。

 そしてその紙を湊に手渡す。

「じゃあ、次は一ノ瀬さんに任せます」

「えっ、いや、それは」

 イベントに参加したいと言ったのは私だが、こんな短時間で解いていけるとは思えない。

 そう反論しようとしたが、白峰は近くの壁に寄りかかりこちらをじっと見つめていた。どうやら本当に任せてくれるらしい。

 諦めにも似た気持ちを抱きながら湊は新たなヒントの紙を開いた。

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