8
その三十分程前、湊は一人、大学の図書館にいた。
白峰に言われた通り鍵を管理人の人に預けて、ふらふらとこの図書館へ足が動いていた。
二階のテーブルには数人の学生が教科書や参考書と向き合っていた。テスト期間だからか、いつもよりも静寂に包まれていて、ノートを走るペンの音がはっきりと耳に入ってくる。
湊は一番端の席に座り、勉強しようと参考書を開いたが、何度文字を追っても一向に頭の中へは入ってこなかった。
原因ははっきりしている。白峰の部屋で見つけた三年前の新聞の切り抜きを見たからだ。
その新聞に載っていたのは一つの大きな事件の事だった。
『敏腕弁護士殺害──自宅の中で起きた惨劇とは──』
たしかそんな見出しで始まっていた。
その事件は今から三年前の七月十日に東京都内で起きたものだった。
昼下がりの警察に一本の通報が入った。
『家の中で人が殺されている。すぐに来て欲しい』と。
警察は急いで指定された家へと駆けつけた。そして驚いた筈だ。
その家は、敏腕弁護士として名を馳せていた男の家だったからだ。
イタズラの可能性を感じながらも警察はその家の中へ入っていく。
昼下がりだと言うのに、その家の中はまるでひと気が無く、寂然としていたらしい。
不審に思った警察はリビングへと向かい、そこで声を失った。
そこには椅子に縛られた三人の男女がいた。
見た感じ、父と母、そして息子だろうと判断できた。
そしてその三人の首には赤い一筋の切り傷があり、現場のリビングの壁や床、天井にまで同じように赤が飛び散っていた。
警察はそこでもう一人、人がいるのを発見した。
その子は見た限り高校生くらいの男だった。
三人の遺体の前で意識を失って倒れていたのだ。
外傷は無く、警察はその子が三人を殺した犯人ではないか、と考えて署まで連れて行ったという。
先ほどインターネットで調べたところ、結局その少年も犯人ではなく、未だに事件は未解決という話だ。
これだけでも悲惨な事件であることに変わりはないのだが、それよりも湊が衝撃を受けたのはその被害者の名前だった。
殺されたのは敏腕弁護士である白峰
そして、犯人と疑われたのは次男で、事件当時は未成年だった為、名前は公表はされていないが、それでも湊には一つの仮説が浮かんでいた。
その疑われた次男は、白峰総司の事なのではないだろうか。
白峰という苗字もあまり見かけないし、何よりこの事件の新聞を白峰が持っていたという事から、この仮説は正しいと思う。
だが、そこまでだ。事実かどうかは分からない。
湊は悩んでいた。
出来るなら白峰本人に真相を訊きたい。あの透明な瞳のことも。だが、これ以上ただの他人である私が彼の過去に、抱えているものに踏み込んでもいいのだろうか。
「……どうすればいいのかなぁ」
「恋の悩みかしら?」
唐突に肩に手を置かれて湊はびくりと体を跳ねさせた。
振り返ると、ニヤニヤと笑みを浮かべているひかりがそこにいた。
目がキラキラと輝いているのはきっと見間違いじゃない。
「うんうん、恋は悩みの種よね」
何度も頷きながら、ひかりは納得したように言う。
「いや、恋の悩みとは別なんだけどなぁ」
そう答えて湊は困惑する。
果たしてこの悩みを打ち明けてもいいものだろうか。
「……悩む事は大切な事なのよ」
不意に真面目な口調でひかりは言った。
こういう時の彼女はやはり凛としていて、かっこよかった。
「人は悩みながら生きるものなの。今日何を食べようか、何をしようか、誰と遊ぼうか、誰と付き合おうか……。悩みの無い人なんていない。そして悩みは結局は自分でしか解決出来ない。けれど、解決のヒントくらいなら他人にも与える事が出来る。だから、良かったら聞かせてくれない?」
ひかりは言いながら目の前の席に座って、片肘をついた。
湊は苦笑するしかなかった。
恋バナをしている時とは違いすぎだ。
「……とある人の隠してるであろう秘密に気付いた時ってどうすればいいと思う?」
大きく息を吐いて、湊は静かに言った。
「その秘密というのは、どういうレベル? 浮気の証拠を掴んだとか?」
「ううん。もっと深刻な……多分トラウマとかのレベルかも」
「……ふむ」
ひかりが顎に手を当てて、やや顔を俯かせた。
その姿はまるでロダンの考える人のように完成された美しさがあった。
「……私だったら触れないかな」
しばらく考えてひかりが出した答えはそうだった。
「触れない?」
「えぇ。その人が隠しているのなら、それを無理に聞くのは申し訳ないし。いつかその人が自分から話してくれるのを気長に待つわね」
そう言って、ひかりは微笑を浮かべた。
「気長に待つ、かぁ」
図書館を後にして自宅へと戻り、机に教科書を広げてから湊はポツリと呟いた。
確かにひかりの言う通りかもしれない。あの透明な瞳も、過去も、彼は隠している。それはつまり知られたくないからなのだろう。
だとすれば無理に聞くのは迷惑以外の何物でもない。
気になるのなら、一人で調べてみればいい。それだけのことだ。
一人納得して、湊はノートを開いた。
今は明日のテストの心配をしよう。
そう思い、ノートに英単語を書き連ねていく。
最初の一ページに単語を書き終えた時、インターホンが鳴った。
時刻を見れば、既に午後六時だった。もうそんなに時間が経っていたのか。
こんな時間に誰だろう、と扉を開けて湊は驚いた。
そこには、白峰が立っていた。
どうして白峰がここに? え、何の用があるの?
「白峰さん、どうしたんですか? 事件の捜査に行ったんじゃ」
予想だにしなかった出来事にパニックを起こしながらも湊は対応すると、白峰は小さく息を吐いた。
「今日のところは終わりです。あとは明日以降ですね」
「何か分かりました?」
期待を込めて言ったが、白峰は弱々しく首を横に振った。
「いくつか確認したい事は確認出来ましたけど、肝心の部分については全然です」
「そうですか……」
そこで疑問がぶり返す。
では何故、白峰はここへ来たのだろうか。
「ではどうしてここへ?」
湊が尋ねると、白峰は少し気まずそうに頭を掻いた。
「管理人さんから鍵を受け取ったんですけど……」
白峰はそう言って右手を差し出してきた。
その手のひらの上に乗っているものを見て、湊は、頬を引き攣らせた。
そこに乗っていたのは、どう見ても自分の部屋の鍵だった。
シンプルな形状で、小さな熊のキーホルダーが付いている。
「え、っと、それは、私の部屋のですね……」
「やっぱりそうでしたか」
待てよ、今思えば鍵無しで私は家に入ったのだ。という事は、そもそも自宅の鍵を掛け忘れていたのか。あぁ、私はなんて大馬鹿者なんだ。
「ありがとうございます!」
恥ずかしさで顔が熱くなる。湊は頭を下げて鍵を受け取った。
そして右のポケットに手を入れると感触があり、取り出すとそれは、白峰から預けられた鍵だった。
「あぁ、左じゃなくて右ポケットに入れてたんだ。逆でしたね、すみません」
申し訳なさそうに湊は白峰の手の上にその鍵を乗せた。だが、それが握られる事はなかった。
「……逆?」
白峰は自分の手に乗せられた鍵を、呆然とした面持ちで眺めながらボソリと呟いた。
「……白峰さん?」
「逆……逆……」
湊の声にも反応せずに、指で白い髪の毛を弄びながらただうわごとのように“逆”と呟いている。
「あの……」
「逆だ」
開いてた手を握りしめて、ハッと白峰が顔を上げた。少し前髪が乱れて、髪の隙間から透明な瞳がちらついていた。
「……逆ですか?」
「そうか……それなら全ての辻褄が合う……だとすれば、犯人は……」
ボソボソと白峰が言う。
もしかして、何か分かったのだろうか。
湊が尋ねようとした時、白峰がスマホを取り出して、どこかへ電話をかけだした。
「……もしもし。はい、白峰です。重大な事実に気が付きました。……はい、今日話した事件の一番重要な部分の謎が解けました」
「えっ」
湊は小さく驚きの声を上げた。
おそらく電話の向こうでも同じように声が上がっただろう。
「……はい、密室の謎も死体を移動させた理由も、たぶん分かりました。……いえ、犯人はまだです。なので明日、第一発見者の高校生四人に話が聞きたいのですが……はい……はい、それで大丈夫です……はい、では明日の十一時に。では、失礼します」
白峰はそう言って通話を切った。
「白峰さん、何か分かったんですか?」
湊が訊くと、白峰は「はい」と頷いた。
「密室から死体が消えた謎も、それ以外の謎も大体は分かりました」
「犯人もですか?」
「いえ、犯人についてはまだですが、容疑者は絞れました」
白峰はそう言って、左手の指を立てた。
「……容疑者は、四人です」
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