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さらりと告げられた真実はあまりにも簡素であり、単純明快なものだった。一切の無駄もない簡潔な方法。だが、それ故に簡単に納得の出来る答えではなかった。
「何を言いだすかと思えば……。それは不可能だ。足音は聞こえなかったんだぞ? あのベニヤ板の上を足音を立てずに歩くのは無理だ」
呆れたように近藤が頭を振り、肩を落とした。白峰さんには悪いが、今回は私も近藤さんと同意見だ。あの状況でただ普通に歩いて刺しただなんて到底信じられない。
「不可能ではありませんよ」
それでも白峰は揺るがなかった。
「なぜ言い切れる?」
「では、一つずつ考えてみましょうか」
白峰は軽く手を叩くと近藤達の周りを円を描くようにゆっくりと歩き始めた。
「近藤さんの言う通り、ステージの上には汚れるのを防止する為のベニヤ板が敷かれていました。少しでも上を歩けば大きな音が鳴るのも実証されてます。なので普通に歩いてしまえば音でバレてしまい、犯行は未遂に終わったかもしれません。ですが、足音は観客にも、ステージ上にいた学生達にも聞こえなかった。それはなぜなのか?」
白峰が足を止めて問いかけるように言った。意図的なのか分からないが、ちょうど近藤の目の前だった。
「ベニヤの上を歩いていないからだ。それなら足音はしない」
近藤が問いかけに答える。
「なるほど。では、その線から考えていきましょうか」
そう言って白峰は再び歩き始めた。
「ベニヤ板の上を歩かずに土屋さんを刺殺する方法はいくつか考えられますが、若林さんどうでしょう?」
「えっ! えっと……」
気を抜いていた生徒が突然先生に当てられるという授業中によく見られるワンシーンが目の前で行われた。
若林は慌てて手帳を確認して、躊躇いがちに発言する。
「ワイヤーを使ったのではないでしょうか? この体育館のステージには人を吊る事が出来るワイヤーが設置されていると聞きました」
湊も「あー」と声を上げた。そういえば聞き込みの時、渡邊がそのような事を言っていた気がする。
「確かに、ステージにはワイヤーが設置されています。これは渡邊さんも言ってましたからね。ワイヤーを使えばあのベニヤの上を歩く事なく土屋さんに近付く事が出来る。犯人がそれを利用して犯行に及んだ可能性はあります」
「ということは……」
「しかし、実際にワイヤーを使って犯行を実行するのは不可能だったと思います」
白峰は若林の案をそう切り捨てた。若林が珍しく不服そうに顔をしかめた。
「なぜ不可能なんでしょうか?」
「なぜならワイヤーの操作盤は下手の袖にあるからです」
白峰は高らかに言うが、湊は首を傾げるしかなかった。
「それは普通の事ですよね? それだけで不可能と言い切るのは難しいのではないでしょうか?」
若林が異議を唱える。しかし白峰は鷹揚な態度を崩さない。
「もしも犯人が“共犯”だとすればありえます。ですが、“単独犯”だった場合は実行は不可能です」
「……どういう意味ですか?」
「その時間、操作盤の側には飯塚さんがいたからです」
若林の前で足を止めて白峰は言った。確かに音響を担当していた飯塚は操作盤の近くにいたと証言している。だが、それだけで不可能とは言えないのではないか。
「……飯塚さんが犯人だとすれば、可能ではないでしょうか?」
若林がそう自説を語る。そうだ、操作盤の近くにいた飯塚が犯人だとすれば、誰にも気付かれずにワイヤーを動かす事が出来るだろう。
「そうかもしれませんね。しかし、そうなると一つ疑問点が出てきます」
人差し指を立てて挑戦的な笑みを浮かべると、白峰はこう続けた。
「もし、飯塚さんがワイヤーを使って土屋さんを殺害したのなら、誰がワイヤーを操作したのでしょう?」
空気が抜けるように若林の口から「あっ」と声が漏れた。そこでようやく湊も“単独犯では不可能”の理由が分かった。
「ワイヤーで人を吊るす時は人力で吊り上げるか、機械で吊り上げるかの二択です。そのどちらにおいても誰か他の人の力が必要不可欠です。つまり、犯人が単独犯だとするなら誰にもバレずに犯行を実行するのは不可能という事になります。舞台の演出でワイヤーを使う場面があるのなら話は別ですが、今回の劇ではワイヤーを使う場面は無かったと脚本の朝倉さんが言っていました。よって、ワイヤーを使ったとは考えにくい。どうでしょうか?」
白峰がそう結論付けて若林を見やった。若林は肩を落として小さく頷く。
「確かにその通りです。ワイヤーを使っての犯行は難しいと言わざるを得ません」
その時、近藤が手を挙げた。見定めるように細められたその目には鋭い光が宿っている。
「待て。まだ共犯の可能性は残っているだろ? ワイヤーを使ってないとは言い切れない」
近藤の反論に白峰はゆっくりと頷いて近藤へ視線を移動させて、
「そうですね。共犯の可能性は残ってます。ですが、その可能性は高くはないと僕は思います」
と否定した。
「なぜだ?」
「共犯だとすれば、犯人たちはどうして、わざわざそんなに面倒な手段を使ったのでしょうか?」
白峰がそう問いかける。
「どうして? そんなのは足音を立てない為に決まってるだろ」
「どうしてわざわざ足音を気にするんです? お互いがお互いにステージの上を歩いていないと証言すれば足音なんて関係ないでしょう? むしろワイヤーを使った方が他の人に気付かれる危険があるし、今証明したようにすぐに共犯だと気付かれてしまう」
言われてみれば確かにそうだ。わざわざワイヤーで殺人を行うのはかなりのリスクが伴っている。協力者がいるのだからもっと安全な方法を選べるはずだ。
「……まぁ、それはそうだが」
憎々しげに近藤が呟く。自分の意見があっけなく否定されたのが気に入らないのかもしれない。
「さて、これでワイヤーを使った説は消えました。では、犯人はどうやってベニヤの上を歩かずに土屋さんを刺したのか?」
白峰が手を叩いて話を原点へと戻した。
「……ナイフを投げたんじゃないか?」
「それがどれだけ現実的じゃないかは近藤さんも分かっているでしょう? そんな賭けみたいな方法を選ぶはずがない」
苦し紛れに出した近藤の案は、白峰にクスッと笑われた挙句に否定された。誰からも意見が出なくなったのを確認すると、白峰は再びゆっくりと歩き回り結論を出した。
「つまり、あのベニヤの上を歩かずに土屋さんを殺害するのは難しいという事です」
「ですけど、足音は誰も聞いてないんですよ?」
若林の指摘に白峰は待ってましたと言うように微笑を浮かべた。
「そう。そこが重要なんですよ」
「なに?」
「どうして誰も足音を聞かなかったのか。これがこの事件を解く鍵になります。そして、その鍵を僕は既に手に入れました」
白峰は高らかにそう言った。本当に彼には事件の謎が解けたのだろうか。
「犯人はどうやって土屋を刺したんだ?」
耐えかねたように近藤が問う。それに対して白峰は相変わらずの微笑みで返した。
「最初に言った通りです。犯人は普通にベニヤの上を歩いて土屋さんを刺したのです」
「だからそれは不可能だろう」
「いいえ。不可能ではありません」
白峰は頑なだった。
「……本当にそんな事が可能なのか?」
ここまで言い切られては流石の近藤も揺らいでいるようだった。ベニヤ板の上を歩きながら足音を立てない方法なんてあるのだろうか。
「はい。それを今からお教えしましょう」
パンっと一回手を叩いて、白峰は講義を始める講師のようにゆったりと話し出した。
「何度か言いましたが、殺害の方法に関して言えば恐ろしく単純です。その気になれば僕や近藤さんでも同じように実行出来る」
白峰は軽く言うと、視線をこちらへ向けた。
「一ノ瀬さん。一つ確認したい事があります。土屋さんが殺害されたのは二回目の場面転換の時で合ってますか?」
唐突に質問が投げかけられて湊は慌てながらも「はい」と返すと、白峰は右手の人差し指を立てた。
「もう一つ、一回目の場面転換で何か気になる事はありませんか?」
これには湊は頭を傾げるしかなかった。一回目の場面転換?回数に何か意味があるのだろうか。微かに釈然としない気持ちになりながらも湊はその時の事を思い返した。
一回目の場面転換はドブネズミ王子が憎々しげに「白雪王子を消すしかない」と呟いた後のことだ。そのままステージ上は真っ暗になり、数十秒ほどして明るくなった時にはステージ上のセットが変わっていた。ただそれだけの事だ。特に気になる点は無いように思える。
「特に無かったと思いますけど」
「場面転換して何か変わりました?」
「あ、はい。ステージ上のセットが変わりました」
「なるほど。分かりました」
素直に答えれば、白峰は満足げに頷いた。
「今の質問に何か意味はあったんですか?」
「ありますよ。とても重大な意味が」
そう答えると白峰は視線を戻した。
「いいですか皆さん。足音は聞こえなかったんです」
「だから何度もそう言っているだろう」
大げさに主張する白峰に近藤は呆れるように言った。しかし、白峰は不敵に笑う。
「本当に理解していますか?」
「何だと?」
「もう一度分かりやすく言います。足音はしなかったんじゃない。聞こえなかったのです」
一瞬、何を言ってるのか分からなかった。けれどすぐにその意味に気付いた。なぜ、彼が一回目の場面転換の時の事を訊いたのかも分かった。
だが、近藤と若林はまだ気付いていないようだった。揃って眉をひそめている。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です。事件の時、足音はちゃんと鳴っていたんですよ」
白峰の回答に近藤は浅くため息をついて、
「だから、誰も聞いてないと」
「そうです。聞こえなかったのです」
「……何が言いたいんだ?」
「事件が起こった時、周りの人たちの耳には犯人の足音は届かなかった。なぜなら別の音が足音をかき消していたから」
そこでようやく刑事たちもハッとしたように顔色を変えた。
「そして、足音をかき消した別の音こそが、あの“雨の音”なんですよ」
耳の奥で雨の音がする。けれどいつもみたいにノイズのような雑音にはならなかった。しっとりと、悲しみも一緒に流していくように静かな音で降っている。
白峰の推理には毎度の事ながら驚かされる。思えば彼は最初から雨の音に着目していたのだ。
「しかし、そんな簡単にかき消せるものでしょうか?」
若林が控えめにそう疑問をぶつける。白峰は少し考えるように目線を逸らして言った。
「……マスキング効果って知っていますか?」
「マスキング?」
「二つの音が同時に鳴った時、一方の音がかき消されて聞こえなくなる現象のことです。例えば、エアコンをつけている時は気にならなかった時計の針の音が、エアコンを消した瞬間に気になりだすのもそうですね。エアコンの音が時計の針の音を消しているんです」
流暢に説明をするその様はまるで授業をする学校の先生のようだ。
「犯人はその現象を利用したというのか?」
そう訊く近藤はまだ信じていない様子だった。
「恐らくそうです。先ほど渡邊さんが言っていました。土屋さんが昨日のリハーサルの後に雨の音を使いたいと申し出た、と。その時マスクがどうのこうのとも言っていたらしいですね。マスキングは音をマスクするとも言いますので、可能性は高いと思います」
「……だが、本当にそうだとは」
「根拠ならもう一つあります。それは一回目の場面転換です」
まだ異議を唱えようとする近藤に被せるようにして白峰は続ける。
「一回目の場面転換の時にも雨の音は使用されていました。そしてその時もマスキングの効果があったんです」
それから白峰はチラッと湊の方に目線を移した。
「一回目の暗転の時にも雨の音は流れていました。そして数十秒後にはステージ上のセットは変わっていた。しかし、この時も足音は誰にも聞こえていないのです。誰かがステージのセットを動かしたはずなのに」
そうだった。いきなり場面転換で呆気にとられているうちにステージのセットは変わった。渡邊もセットは手の空いている人が移動させると言っていたが、その時に足音なんて聞いていない。つまり、足音は雨の音によってかき消されていたという事だ。
「というわけで犯人はこのマスキング効果を利用してステージの上を歩き土屋さんを刺した、という可能性が一番高いと思いますが、どうでしょうか?」
改めて白峰が問いかける。今度は近藤も納得したようで、苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「……確かにそうだな。その線で調べていくとしよう。君たちはもう帰っていいよ」
助かった、と小さな声で付け足すと、近藤は若林を連れて再び舞台袖の方へと歩いて行った。
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