第37話 山河の喪失する時
王の言葉にレツィンは仰天し、頭が真っ白になった。
「な、何を仰って…」
「ははは、この宮中ではお前だけが生きている、そして、私はついに諫言できる臣下を目の前に見つけたぞ、お前を側室にしてとらせばよいのだ。それにこの腰つきを見れば、私に男子を沢山授けてくれそうだ……男子を授けてくれたら、見ていろ、この辺境の国を強国にして、子孫に継がせてみせる。そしていずれは……!」
いいしな、レツィンの腰回りを撫でまわそうとする。レツィンは総毛立ち、無理やり王の身体を自分から剥がして飛びすさった。
「いい加減お戯れはおやめください。私を玩具になさるおつもりですか。明徳太妃様や慈聖太妃様に知られたら何となさいます?それに王妃様にも申し訳ないこと……また、たとえ側妃になったとして、私が王の寝首をかかぬ保証でも?」
王はにやりと笑った。
「そなたが?寝首を?そうなればお前は死に、ラゴ族はどうなる?」
レツィンは一歩も退かず、王に対峙した。
「どうもしません。ラゴの姫が烏翠の王の玩具とされたと聞けば、ラゴ族は完全にあなたの国から自由になる口実を得ます。そして北方諸民族を招集し、神速でこの烏翠に攻め寄せてくるでしょう。私達は自らの誇りのためであれば、たとえ最後の一人となっても戦い続けます」
そこまで言い切ると、レツィンはふっと表情を和らげた。
「でも、そのようなことは起きて欲しくありません。ですから…」
「そのような、哀れみの眼で私を見るな!」
吠える王に対しても、女官は動じなかった。
「哀れみではありません。同情でもありません。ただ、私には王様のお築きになりたい国の姿が見えぬだけ、私が哀しいとすればそのことです」
「……」
国君はぎらぎらした眼で少女を睨みつけたが、返答はしない。
さらに、どう転ぶかわからなかったが、レツィンは王から逃れるための切り札を出した。
「それにお子についてなれば王妃様も後宮の皆さまもまだお若く、それに王に男子がおわさぬとも、すでに弟君がおいでではありませぬか」
そのとたん、王は激高した。
「王妃だと?あの死人のような女が?おとうとだと?あの邪眼の持ち主が?……勝手なことをいうな!あいつは……弟は臣下どもを手なづけて、いずれ王位を簒奪しようとする算段だ」
「手なづけるも何も、弟君はまだ成人も済まさぬほどの御年齢ではありませんか…」
レツィンの諭しも耳に入らぬ様子で、怒り狂った王はついに祭壇の燭台をレツィンに投げつけたが、彼女はすんでのところでかわし、ことさら優雅に一礼すると、何ごとかをまだ喚いている王を一人残し、後も振り返らず懐恩閣を退出した。入口に詰めていた王の護衛達も、明徳太妃づきの女官にはうかつに手をだせぬのと、レツィンの気迫にも押され、半ば呆然と見送るだけだった。
その後も、明徳殿に帰ったレツィンに王からの咎めはもたらされなかった。やはり、彼女への狼藉に対する自覚があるのか、祖母君にことを知られるのが怖いらしい。
――なんとまあ、お弱い方でいらっしゃる。でもなんともお気の毒な方。
随分といやらしいことも仰っていたが、王が本当に渇望しているのは、強国たる烏翠でもそれを導く手足のごとき臣僚でもなく、嗣子でさえもなく、もっと素朴で、単純で、暖かなものだったのではないか。何となくそんな気がして、レツィンは心が痛んだ。彼女自身は既に、いままでの経験や出会った人々からそれを得、分かち合ってきている。とはいえ、あの王とでは分かち合うことはできそうもない。
また、思い返してみると、王は不穏なことも口にされていた。
「我が国を強国にして、いずれは……」
その後の言葉は?まさか天朝に弓引き、
レツィンはそれを一笑に付そうとしたが、上手く行かなかった。大それた妄想であっても、あの王なら実現しようとしかねない。
それにしても、国君はまだお若くて頑健そうだ。何事もなければこの先何十年も生きるだろう。その間、暴政がとどまるところを知らなければ、この烏翠の
そしておそらく、王が弟君をことさら憎み、虐待さえ行うのは、瞳の色すなわち「邪眼」が本当の原因ではなく、聡明な弟がいずれ兄の王位を脅かすことを恐れているからだ――そうレツィンは直感した。
そして、今は嵐が吹きすぎるのをじっと待っている人達がいて、あの紫瞳の公子に次代の期待をかけていることも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます