第49話 雷雲

 祝言を上げたせいか、それとも「薬」が効いたのか、敏も多少恢復したので、二人は二廟を後にした。雨で馬の蹄が山道を滑りがちなので、レツィンと敏は手綱を引き、ひたすら長い坂を上っていた。すでにラゴ族の土地に入っていたが、まだ油断はできない。


「『神の眼』を過ぎれば道が複雑に分かれるから、追手を巻きやすい行路を行きましょう。少しなだらかな平地になって、馬も乗りやすくなるし」

「神の眼?」

 夫の問いに、レツィンはにっこりして答えた。

「この坂を上り切ると、たどり着くの。ラゴの女神様の右眼が湖になったと言われていて、海ではないけど、神様の瞳はとても美しいのよ。我が部族がもっとも神聖なものとし、大切にしている場所」

「それは楽しみだな」


 そんな会話を交わしつつ、レツィンと敏は腰の剣に手を伸ばす。二人はすでに、背後から迫りくる蹄の音に気付いていた。

「その『神の眼』、どうやら見ることはできなさそうだな」

「残念ね、敏にはぜひ見て欲しかったのに、きっと気に入る筈だった…」

「それにしても、あの時、神前で婚儀を挙げておいて良かったな」

「ええ、たとえ今日が命の限りだったとしても、私達は夫婦なのだからもう恐れるものはない」


 ――また一人はそなたと結婚する。最後の一人とは長く添い遂げられぬが、このうえなく幸せに暮らすであろう。


 レツィンは、占い師の老婆の言葉を思い出した。確かに長く添い遂げることはできそうもないが、これ以上何を望むだろう。

須臾しゅゆの間だけでも夫婦となれた、しかも同日にて死ぬ望みまで叶った。これ以上の幸せはありません、夫君」

「私もだ、妻よ」

 夫、そして妻……何という甘く、懐かしい響きの言葉だろうか。レツィンは自分が全てを手放すその前に、全てを手に入れたことを知った。




 難路と雨をものともせず、坂を騎馬で上がってくる集団がいる。レツィンと敏は追ってきた者と相対した。討手の一団の中心にいるのは、彼等がそうではないかと恐れていた、まさにその者である。


「――承徳。よりによって…」


 誉めるべきことに、柳承徳の乗馬姿は多少危なっかしいとはいえ、きちんと追手の先頭に立ち、矢をつがえていた。が、その矢の切っ先は震え、目も当てられぬほどである。

「どうしてこっちに…蓬莱北道のほうに逃げてきた!」

 なじる承徳の声は、ほとんど泣き声と変わらなかった。なぜ蓬莱北道のほうに、と問い返したいのはレツィン達であった。来るのは主君だと思っていたのに――。

「レツィン、剣を抜くな。最後まで俺に攫われた振りをしろ。そうすれば、お前とラゴ族の名誉は守れる」


 夫の囁きを妻は首を振って拒み、鞍の弓矢を取って素早くつがえた。


「承徳、仕方がないわ。私達だってぐるぐる考えたのよ、これでも」

 そして弓を引き絞り、標的を承徳に合わせたが、こちらは百発百中で相手の心の臓を射抜けそうな勢いである。

「レツィン、何故……無理に攫われたんじゃ…」

「承徳、私情は捨てて任務を遂行すべきよ。そうでなければ、燕君を助けることなどできない。こういうとき、我らが主君なら絶対にためらわないはず。承徳も瑞慶府の部属として、それは重々承知のことでしょう」

 痛いところを突かれ、承徳の顔は真っ赤になった。

「よくもそんなことが言える…」

 殺したくないのに!――承徳の無言の叫びが痛いほどに感じられた。敏は火花を散らす友と妻を見ながら、嵐のなかでも聞こえるような、精一杯の声で語りかけた。


「承徳、こんな役目を負わせることになってしまって、本当に済まない。友人として、私は償い切れぬ罪を犯した。だが、レツィンの言う通りだ。お前は空手からてでは瑞慶府に帰れないし、もし私達を見逃せば、そこにいる瑞慶府の兵を皆殺しにして口封じをしなければならないが、そんなことは不可能で、馬鹿げたことだ。また、レツィンがお前を殺したとしても、この数の差で結局私達は殺される運命だ。だから、もう選択の余地はないんだ…」


 夫の言葉が終わると、レツィンは弓を降ろした。して二人で視線を交わし、微笑んだ。

 承徳は呆然とした様子だったが、瑞慶府の兵達は上官の命もないのに襲い掛かってきた。特に先駆けの二人がレツィンと敏に迫ってくる。


 その瞬間、レツィンの懐からあの毬が転がり、敏を斬ろうとした兵の騎馬の足を滑らせた。

「わっ…」

 その兵はたまらず、馬ごと倒れ伏す。だが、レツィンに向かってきたほうが撃ち合う彼女の剣を跳ね飛ばしたので、彼女はとっさに手に掴んだものを引き抜いた。その瞬間、強風が巻き起こり、彼女の手にしたものを上へ吹きあげる。それは、拝領の扇だった。

 扇は何かに操られているかのように、不自然にも空中で骨を広げ、そのまま敏に襲い掛かろうとした兵の顔にぺたりとくっつく。兵は悲鳴を上げ、もんどり打ってこれまた落馬した。


 何が起こったのかわからぬまま、とにかく隙をついてレツィンと敏は手に手を取った。そして、一気に急坂きゅうはんを駆けあがり、「神の眼」の淵に立つ。


 淵には石が目印のように積まれており、五色の細長い旗が暴風に吹かれ、ちぎれそうになっていた。眼下は数十丈になんなんとする崖、荒れ狂う湖面ははるか遠くである。追いつき、取り囲んだ兵達の真ん中で、承徳は叫んだ。


「お願いだ、二人とも剣を捨てて瑞慶府に戻ってくれ。俺が何とかしてみせる!」

 数十年先のことは知らぬが、一介の官吏である今の承徳に「何とかしてみせる」力などありはしない。レツィンは心を痛めながらも、声を張り上げた。


「承徳、本当にありがとう。でもどちらを向いても私達にはほかの道はないの。どうか、弦朗君様にお伝えして、『空の籤の借りこそ返しましたが、今度は返しきれぬ負債を追いました。二人してあの世でお詫びしますゆえお許しを』とね」

 敏もその後に続けた。

「私達は死んだが遺体は手に入らなかったと、これを持って府に伝えるんだ」

 そして、彼は自分の剣を鞘ごと承徳に投げてやり、レツィンと手を握ったまま崖の淵から身を躍らせた。

 細い悲鳴を上げながら落下するレツィン、その胸元からきらりと光りながらこぼれるものがあり、それも持ち主と同じく水面に吸い込まれていく。


「敏――!レツィン――!」

 承徳の絶叫すらも、風はさらってもみくちゃにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る