第48話 二廟での誓い

 だんだんと風雨が強くなり、見上げた空は墨を流したように真黒である。難儀をしながら二人は馬を引いて山道を登り、ようやく二廟にまでたどり着いた。


 レツィンは、敏が先刻から断続的に咳き込んでいるのを案じていた。咳ばかりではなく、その顔色も青白い。賀宴の後からの無理が祟っているのだろう。追手のことは心配だが、彼女は少し廟で休息するように提案し、敏も同意した。

 二人は濡れた髪の張り付いた顔を見合わせ、頷いてまず烏翠の廟の門をくぐった。軒下で二人は、底に水のたまった長靴ちょうかを脱いで髷を整え、次にずぶぬれの上着を取って戯班の衣装に着替えた。


「まさか、こんな形で官服を着ることになろうとは…」

 既婚者の装いをしたレツィンは、敏の姿を見てくすりと笑った。

「似合ってるわよ」

 そして彼等は神に対し、裸足の無礼を詫びて額づいた。レツィンが兄とともに礼拝したときのまま、烏翠を守る二柱の像が、薄暗がりに浮かび上がっている。

 ほぼ同時に二人は礼拝を終えたが、立とうとするレツィンを敏はそのまま押しとどめた。そして、彼女の手をそっと握って神像を見据え、声を張り上げた。


「我らを守る二柱の神よ、どうか照覧あれ。私、趙翼の第一子である敏はラゴ族の娘、レツィン・トジン・パーリを妻とします。青松あおまつのごとく変わらぬ心を持ち、まだ見ぬ大海のごとく広い心で互いを慈しむことをここにお誓い申し上げます。そして願わくば、たとえ同日に生まれずとも同日にてともに死なんことを」


 ――まさか、いまここで婚姻の誓い?

 レツィンは驚いたが、すぐに嬉しくなった。敏は言い終わると、レツィンのほうを振り向き、はにかんだ。

「これでいいだろうか?」

 レツィンは優しく頷き、ともにもう一度長い礼拝を捧げた。


 そのあと、二人は雨の幕を突き抜け、向いのラゴ族の廟に飛び込んだ。だが、同じく室内に入ったレツィン達は呆然として突っ立った。

「あれ?」

「…嘘」

 断続的な雷光に照らされた室内は空っぽだった。男神と女神の塑像が二体とも消え失せている。そこにあるのは、神前にしつらえられていた祭壇だけである。

「誰か盗んでいったのかな…」

「まさか、そんな罰当たりなことを」

 合点が行かぬものを見せられ二人は当惑したが、やむを得ず虚空に向かい、今度はレツィンが婚姻の誓いの言葉を述べた。


「…あとは、固めの盃があれば婚儀も完了するのだが」

 思い出して悔しそうな敏に、レツィンはふふふと笑った。

「盃のご用命、承りましてよ」

 そして荷から一そろいの酒器を取り出し、夫を一驚いっきょうさせた。彼女が振って見せた瓶は、ちゃぽちゃぽと中から水音がする。瓶の首に結ばれた赤い糸は、婚儀の酒に用いる印だった。

「どこからそんなもの…」

「我らが主君からの贈り物よ」

 あの方にしてやられた……と敏はつぶやいた。そして二人はまず不在の神に盃を捧げ、次に差し向かいになって三度の盃を交わした。

 盃を置いた妻はふと引き寄せられて、彼の唇が自分のそれにせまっているのを感じたが、柔らかく押し戻した。

「…たとえこの場にいらっしゃることはなくとも、神の御前に変わりはないでしょう。勝手な真似はできないわ」

「――確かに」

 夫は照れくさそうに笑った。

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