第2章 光山府

第6話 初めての朝

 旅の疲れは残っていたが、解けぬ緊張のせいか、レツィンは夜明け前に起きてしまった。しかし、隣に寝ていたはずのトルグはもういない。すでに起き出して朝の仕事に取り掛かっているようだ。

 レツィンが枕元に置かれた拝領の扇を持ち、小さな寝台を滑り出て夜着のままで戸外に出ると、東の空の縁が黄色く、薄い色に変じている。もうすぐ陽がのぼるだろう。トルグがレツィンに気が付き、光山府での衣装に着替えるように言ってきた。


「今日だけは私が手伝うからね、レツィン」


 その声の調子と名の呼ばれ方から、レツィンはもう自分がラゴ族の姫君ではなく、光山府の人間として扱われるのだということを察した。

 井戸端で洗顔だけ済ませ、トルグから新しい服を受け取る。自分が着てきたラゴ族の衣装は洗濯場行きとなっていた。

 渡された服はラゴ族のものとは似ているが、より薄地で生地もきめ細やかな濃緑こきみどりの上着と薄緑の単衣ひとえ、そして若草色のだった。トルグも同じものを着ていたが、聞けば、光山府こうざんふの侍女が着る服だという。

「どうやって着るの?――いえ、着るのですか?」


 トルグに手伝ってもらいながら着付けを済ませたが、脇の下や足元がするような頼りなさを感じた。刺繍も布の色もラゴ族のものよりも可憐で女性らしいが、防寒という面では、一歩も二歩も劣る。さらに、銅の鏡を見ながら髪を結い、小さな銀の耳輪をつけ、トルグに白玉はくぎょくの簪を一本さしてもらう。耳元や頭も、ずいぶん軽くなった。

「これであなたも光山府の人間よ」

 そして仕上げに、レツィンは扇を帯に挟んだ。


 朝餉は厨房で、ほかの使用人達ととった。小麦粉の蒸かしたものが主食で、いくつかの副菜、そしてお茶。新参の侍女とはいえ、レツィンは今日だけは特別に末席ではなく、家令とトルグの間に座らされた。みなは興味津々といった体でレツィンにラゴ族のこと、王宮での謁見のことを聞きたがったが、場の雰囲気は和やかで、同じラゴ族のトルグもいることもあり、レツィンは安堵した。だが一方で、彼等とは対照的に、自分に敵意を向けてきたものもいることを思い出した――もっとも、今朝は幸いにもまだ「彼」の姿を見ていなかったが。


 食事が終わり、厨房での洗い物の手伝いをしているレツィンのところへ、サウレリが顔を出した。

「おお、さっそく精を出して働いているな」

 朝餉あさげ弦朗君げんろうくんとともにした兄は、もうこの邸を発ってラゴに帰るという。

「…行ってしまうの?」

 我ながら、何という情けなく、か細い声だろうとレツィンは恥じた。そんな妹の様子に目を細め、サウレリはぽん、とその頭を撫でた。

「大丈夫だよ、お前ならきっとやれる。弦朗君様やトルグもいることだし。我らラゴの誇りを忘れずに、な?」

 表門まで出て、兄の出立を見送る。サウレリは馬に乗りながら半身を捻ってこちらを向き、いつまでもレツィンに手を振ってくれていた。


 朝の光に照らされた兄の姿がどんどん遠ざかり、ほぼ見えなくなるころ、門外にたたずむレツィンをトルグが呼びに来た。

 案内されるまま一緒に正堂に向かうと、弦朗君が常服姿で書類を繰っているところだった。その前には、あの趙敏ちょうびんが手を垂れ、かしこまって立っている。レツィンは思わず顔をしかめたが、趙敏はこちらが目にも入っておらぬ様子だった。

「おはよう、レツィン。昨夜はよく眠れたかい?」

「…はい」

 事実ではなかったが、それは敏の前で彼女ができる精一杯の虚勢だった。弦朗君はにこやかに頷いた。

「それは良かった。奥向きのことは、これからトルグが教えてくれるから心配ないが、外向きのことも君にはしてもらおうと思っている。ではさっそく初仕事だ。ここにいる敏と一緒に、南街なんがい炎山府えんざんふにお使いに行ってくれるかい」


「…二人で、ですか?」


 レツィンも敏も同じ言葉を同時に発し、お互いにじろりと見た。

「うん、二人で。はじめは私も奥の用事にレツィンを慣らしてから外に出すつもりだったが、やはり最初からどんどん外向きの仕事も覚えておいたほうが良いと思ったんだ。使いの仕事、敏について習っておいで」

 主君はそう言って、敏には光山府の用命であることを示す割符わりふ(注1)を、いっぽうレツィンには書状が入っているらしきはこを手渡した。


「お言葉ながら、主君。やはり私が一人で行きます。こうしたことに慣れぬ彼女がもし相手に粗相や無礼なことでもしでかしたら、我が府の不名誉にもなりますし、取返しのつかぬことになるやも知れません。だいたい、ラゴでは姫君とはいっても、ここでは侍女の、しかも見習いに過ぎないのですよ?」


 こう申し上げる間、敏はレツィンの顔を見ようともしない。彼の言うことは尤もな部分も多々あるが、一語一語、一句一句から針が飛び出し、レツィンをちくちく刺してくる。

 彼は特に「ラゴ」という言葉に変な癖をつけて発音するが、そのたびに彼女の眉間に刻まれた皺がだんだん深くなる。

 レツィンの苛々の原因はそれだけでなく、足に絡みつく長い裳も、きつくて頭の痛くなりそうな髷も、何もかもが心地悪い。

「……とはいっても、敏、そなたが教えてやればそれで済むじゃないか」

 弦朗君はそんな彼女の様子に気が付いているのか否か、とにかく食い下がる敏を一蹴するでもなく、「だけどねえ」「しかしねえ」と言いながら、情理を尽くして説得している。

 ――なぜ主君は、こんな人の説得に時間をかけているのだろう。一喝すればそれで済むのに。

 ついにレツィンはたまりかねて叫んだ。


「私が一人で行ってきます!」


 そう言うなり、レツィンは敏の手から割符を引ったくって正堂を飛び出した。

「ちょっとお待ち、話はまだ終わっていない…大体、炎山府の場所もどこだかわからないじゃないか…」

 弦朗君の止める声も聞かず彼女はうまやに突進し、ひらりと裳裾を翻して馬上の人となった。


***

注1「割符」文字や印などを木片や竹片などに刻み、それを二つに割って真偽の確認に使用するもの。

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