第5話 佩剣の少年

 光山府こうざんふは直系王族の邸にしては地味で手狭だが、夕闇せまる中でもレツィンの眼には、よく手入れが行き届いているように見えた。府は公的な用事や政務が行われる正堂せいどうと、王族の私的な空間である後房こうぼうに分かれ、レツィンにあてがわれた部屋は後房のさらに奥、厨房の近くであった。


 使用人の小さな湯殿、その風呂にはすでに湯がためており、レツィンは文字通りそこで旅の垢と埃を落とした。手足を十分伸ばすことができなくとも、暖かな湯につかっているだけでも筋肉や骨のこわばり、そしてあの処刑で否応なく体験させられた魂の萎縮いしゅく――そんなものを解きほぐすことができた。


 湯から上がると、トルグが「今日以降、ラゴの服を着ることはめったにないでしょう」といいながら、埃をあらかた落とした服と、研磨済みの銀の装飾を手渡してくれた。


 ――そうか、ラゴの服も今日で終わり、いつまた着ることができるだろうか。


 ということはラゴ族の姫君としての扱いも今日限り、明日からは烏翠にとどまる人質――明徳太妃めいとくたいひは否定してくださったが――となり、また人に仕える身ともなるのだ。

 

 レツィンが心持ち帯をきつめに結び、身の引き締まる思いで正堂にいくと、サウレリと弦朗君が一足早く酒を酌み交わしている。レツィンは家令に案内され、二人の男とは別の卓に腰を落ち着け、運ばれてきた膳に見入った。


 ざっと見たところ、ラゴの食事よりも野菜がより多く、彩りも豊かだった。だが実際に箸を伸ばすと、味付けは大分薄くて物足りない。弦朗君は察しているのか、レツィンが眼を丸くしながらも黙々と口に箸を運んでいるのを見て、くすりと笑った。


「どうかな?烏翠の食事は口に合うかな」

「はい、美味しいことは美味しいのですが、――でも味が薄いので、食べ過ぎてしまいそうです」

 正直に答えたレツィンに、今度は弦朗君が声を上げて笑った。

「それでも天朝の人々によれば、我が国の料理は味が濃すぎて、食べられたものではないそうだ。もっとも天朝の料理など、私からすれば願い下げだがね。霞か雲を食べているようで、味気ないこと甚だしい」

 その言葉に、妹の率直さに顔をしかめていたサウレリもつられて声をたてた。


 そこへ、

「弦朗君様、お客様とお食事のところ恐縮ですが、急ぎ復命をいたしたく」

 外から声がかかり、一人の若者が入ってきて弦朗君の卓の前で片膝をついた。彼は官服ではなく常服じょうふくのいでたちで、黒い長靴ちょうかを履き、腰には剣をいている。レツィンや柳承徳りゅうしょうとくと歳はそれほど変わらぬだろう、背がすらりと高く、秀でた額と、杏仁型きょうにんがたの涼やかな眼をしていた。


「お申し付けの、紫霞橋しかきょうの工事につき人手を全て調達したとのことです。十日後から作業に取り掛かれますが」

「うん、ご苦労だったね。…びん、こちらはラゴ族の族長代理とその妹御だ。前から話していたろう、妹御は一年の間我が府で見習いをつとめたのち、王宮に上がって明徳太妃様にお仕えする。レツィン、この男は趙敏ちょうびんといって今は私のもとで官吏になる見習いをして、やはり一年後には王宮に出仕することになっている。どちらも見習いとして同じ屋根の下に住まう身だよ、仲良く助け合うといい。もっとも、私自身も瑞慶府ずいけいふ少尹しょういん――つまり次官として実務の見習いをしているようなものだけどね、ふふ、この邸は見習いが多いな」


 そこでレツィンは立ち上がり、ラゴ族の正式な挨拶をした。趙敏も一瞬遅れて烏翠式の挨拶を返したが、何となくレツィンの眼に、その挨拶のやりようは手を抜いているように見えた。

 しかも、レツィンを見る切れ長の瞳、その眼ざしには軽蔑か憎悪か、彼から目に見えぬ怒りが発せられているようだった。理由は知らぬが、明らかに、彼は自分に悪意を向けている。


 ――一体何なのかしら。


 レツィンは思わず険しい目つきで相手を見返し、若い男女の間に微妙な空気が漂った。二人の間に生じた緊張に気づいたのか否か、弦朗君が趙敏に問うて場の雰囲気を変えた。

「承徳は?夜には来るよう言ったのだが…」

「まだ来ておりません。今日果たして来るかどうかも…もし来なければ、主命に背くことになるのですが」

 弦朗君は溜息をついた。

「…今日ばかりは致し方あるまい、彼もさぞかし荒れているだろう」

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