第3話 剣舞

 トルグ自身は、今は光山府の侍女という身分上、本来王宮に入ることは許されないが、ラゴ族と烏翠の取り決めにより、族長代理の随伴という名目で許可を与えられていた。

 兄妹とトルグは、王宮の正門を入ってすぐの殿庭で案内の内官に迎えられ、そのまま外朝の正殿を通り過ぎた。いずれレツィンが正式に入宮すれば、ここで国君こくくんに拝謁することになるはずだった。


 太妃との謁見はどういうことになるのか、後宮の殿舎に向かうレツィンも少なからず緊張していた。回廊の脇で客人を待って頭を下げる女官達も、異人二名に興味――残念ながら多少なりとも軽蔑も含んでいたが――を隠しきれぬ様子で、特に男子禁制の後宮において許しを得て入った者として、サウレリはほうぼうからの痛い視線を感じているかのようだった。


 後宮の西の一角に、ひっそりと、だが揺るぎない構えで太妃の殿舎である明徳殿めいとくでんが鎮座していた。殿庭でんていはきちんと掃き清められ、松の緑が美しく映える。

 

 女官に導かれ、兄妹とトルグが一礼して部屋に入ると、御簾みすはすでに巻き上げられており、太妃その人が宝座に腰かけていた。

 白髪交じりの髪は丁寧に梳かれて結い上げられ、小ぶりな金のかんざしが数本差し込まれている。ごく薄い黄色の絹の上に濃紺の毛織物でできた上着を身に着けて裳は山吹色、衣の上にはこれまた黄金きんの首飾りが下がっている。

 レツィンにもはっきり見て取れる、いかにも高貴な女性の佇まいだったが、視線は柔らかで唇には偽りのない微笑みを浮かべていたので、圧迫感は感じなかった。彼女の両脇から前方にかけて、女官達が居ながれている。


「今日来るか、明日来るか、と待ちかねておった。ようこそ瑞慶府へ、親愛なるラゴ族の若い人たち。トルグも出宮して以来、久しぶりよの」

 サウレリが一行を代表して答えた。

「まだ旅の埃も落とさぬまま、太妃様には拝謁の栄に浴し、恐悦至極に存じ上げます。ご尊顔麗しきを拝し、慶賀にたえません。そのかみ、天子様の御子みこがこの御国に下られて以来の、貴国と我が一族の交誼、この殿庭の青松あおまつのごとく変わらぬことを願います」


 平素、いかにもラゴ族の男らしく武張った言動が多い兄が、このようにすらすらと賀詞を、しかも烏翠語で言上したことにレツィンは驚いたが、太妃はにっこりした。

「よう言ってくれたものだ。私より厚く礼を申す。…そして此度は、そなたの妹がこの瑞慶府に住まうことになったとな。我が国とそなたら部族の間には、必ずしも照る日ばかりではなかったが、ラゴの土地の安堵、そして和解と盟約の証しとして、そなたの妹をお預かりする。しかし、決して人質などとしては扱わぬゆえ、安心なさるが良い」

「ありがたきお言葉にございます」


 太妃は頷き、傍らを見やった。彼女の視線の先に、柔和な顔つきをした二十歳ほどの、気品のある若者が座っている。黒い朝服の上に若草色の肩掛けをしており、若いながらも何らかの職掌を担っている者だとわかった。その貴公子は太妃の身内らしく、微笑み返すその様子からも、どことなく気安さを感じさせた。


弦朗君げんろうくん。そなたの府で預かるラゴの姫君ですよ。レツィンとやら、この子――私の孫が、入宮までの間そなたの仮の主君となる」

 レツィンは弦朗君に対し、頭を深く下げた。

「…さて妹御よ。そなた、いずれ入宮して我が身辺に仕えるが、ラゴ族のこと――そなたの血と骨と肉がいずこより来たりしものか、それを忘れてはならぬ」

 レツィンはまた一礼して太妃への謝意にかえた。

「その忘れえぬ誓いの証しとして、そなたがラゴ族で得意とするものを、ここで披露してみせよ」


 得意…得意…、レツィンは首をかしげたが、次の瞬間には一気に頬を紅潮させ、大きな声で答えた。

「剣舞ならいささか!――つたないものですが」

 レツィンの言葉に周囲はどよめいた。女が剣舞!太妃の御前ごぜんで刃物など!…女官達は一様に眉を顰め、ささやき交わしたが、太妃と孫君はゆったりとほほ笑んだまま、レツィンとサウレリに促すがごとく頷いた。


「――あいにく楽器も持ち合わせておりませぬが、私の歌に合わせて妹に舞わせましょう。レツィン、何が舞えるか?」そう言って、兄は妹を振り返った。

「出陣の舞、婚礼の舞、…ええと、それから鎮魂の舞」

 太妃は微笑みをうち消し、少々物思いに沈んだ様子だったが、やがて顔をあげた。

「では、鎮魂の舞を」

 意外な選択にレツィンは驚いたが、人前で舞えることがひたすらに嬉しく、彼女は殿門に預けておいた自分の短剣を取り寄せてもらい、それの鞘を抜いた。逆手に短剣を握り、殿庭に降りると中央に進み出る。

 太妃と弦朗君は席を軒下に設けさせ、並んで座した。レツィンが翼を広げる鳥のように身を地面に沈めると、足拍子を取るサウレリが歌いだす。


 月のあかき夜は、大神おおがみの降臨せる時なり

 もりのざわめき、隠沼こもりぬのためいき

 白き翼、大いなる瞳、

 羽交いのもと、眠れる人あり

 暁に眼を閉じ、黄昏に覚む


 の白き朝は、天馬の駆くる時なり

 尽きぬさざなみ、朝もやのいぶき

 銀色の角 金色のたてがみ

 ひづめのもと、まどろむ人あり。

 黄昏たそがれに眼を閉じ、あかつきに覚む


 初めはゆっくりとした動きだが、歌が進むにつれそれがだんだんと早くなる。レツィンは目の動き一つ、腕の一振り、すべてに心を込めて舞った。舞の型は、死を掌る神が死者の魂をその羽交いのもとに安んずる様子を表現している。旋回、また旋回。

 頭飾りと耳飾りの銀細工がしゃらしゃらと鳴り、青い帯の房が観る者の眼に残像を結ぶ。銀の短剣の柄にはめ込まれた紅玉が鈍い日の光にきらめき、兄妹の足拍子が一分の乱れもなく揃う。


「やっ――!」


 彼女の小さな叫びとともに短剣が手から離れ、宙を舞った。そのまま彼女をめがけて落下する。女官の悲鳴が上がるのと、レツィンがそれを見事に受け止めるのは同時だった。彼女は初めのように、地面に降り立つ鳥の姿勢を取った。歌もやみ、静けさが秋の庭を支配した。


 沈黙を破ったのは太妃で、手をうち笑い声を挙げた。

「いや、見事ではないか。まだ若いのに、これほどまでに踊れるとはのう。死者の魂だけでなく、生者の魂をも慰めるほど力のある舞じゃ」

 レツィンはほっと吐息をついて起き上がり、丁寧な手つきで短剣を鞘に納めた。

「この庭がそなたの舞で清められた心地がする。レツィン、私からは礼を申すだけでなく――弦朗君や」

「はい、お祖母様」

 弦朗君は優雅な物腰で立ち、階を降りてレツィンの前に立った。膝を再び折るレツィンに、彼は手にした扇を差し出した。

「さあ、立って――これはそなた達ラゴの真心を受けた、我らの誠意だ」

「有難く頂戴いたします」


 レツィンは扇を拝領して立ち上がり、今日から自分のあるじとなる人と目を合わせた。ふわりと笑う、優しく細い眼をした御仁ごじんだった。拝領の扇には、蘭らしき花の絵が描かれていた。レツィンは烏翠の絵のことはよくわからぬが、それでも「こういうのをきっと名人というのだな」くらいの見当がついた。

 さらに落款に目を凝らせば「光山」とある。簡単な文字ならば、レツィンでも読めるのだ。

――では、絵はこの方の描かれたものだろうか。

 見知らぬ土地、見知らぬ人達に囲まれて暮らすことに、レツィンは期待とともに当然ながら大きな不安を抱いていたが――瑞慶府で初めて見たものがむごい処刑だったことも心の揺らぎに拍車をかけた――、だが、流麗な筆致で描かれた蘭の絵を観ていると、不思議にそれが遠のいていくようだった。


 相手が贈り物を気に入った様子を目の当たりにして、弦朗君の細い眼がさらに糸のようになった。

「さあ、私とともに光山府へ参ろう、ラゴ族の姫君。今日からそなたが一年間暮らす、わが邸へ。気に入ってくれると良いのだが」

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