第2話 東市朝衣

 去る者の踏む道は遥かなる天空に懸かり

 行く者の渡る橋は遠く龍門りゅうもんへと消える

 我はただこの楼上より見送り

 王城おうじょうあかつきの太鼓を凝然ぎょうぜんと聞くのみ

 心は半分だけこの門に懸けていかれよ

 さすればく戻れると人はいう

 君帰り来たらば杯を手に語り明かそう


 少女は口を半開きにして、この詩が書かれた額を見上げていた。人が住めそうなくらい大きな楼には「東陽門とうようもん」の扁額へんがくが掲げられ、城壁には旅人を送る詩であろうか、烏翠語うすいごとラゴ族の言葉を用いて同じ韻文が彫られている。

 門のすぐ外で待っていた光山府こうざんふの出迎えとは、褐色の肌と見事な銀髪を持つ、とし五十前後の婦人であった。彼女の父はラゴ族だが母は烏翠人であり、人質としてではなく普通の女官として、かつて王宮に仕えていた経歴を持つ。


「まあまあ、サウレリ坊ちゃま。大きくなられて……一族の皆はお元気ですか?」

 彼女は烏翠に暮らして三十年余、話す言葉はラゴ族のものだが、この地の言葉が混じってかなり聞き取りにくくなっている。相手の挨拶に、サウレリは困ったような顔をした。

「出迎えは有難いし会うのはうれしいが、『坊ちゃま』だけはやめてくれ、トルグ。これでも、一応は族長代理だ」

 そして、妹にも挨拶するよう促した。

「レツィン・トジン・パーリです。今日からお世話になります」

 ぎこちなく頭を下げるレツィンに、トルグは微笑んで一礼を返し、

「さあ、あまり挨拶に時間を取っていられません、早速行きましょう。あなた方を瑞慶宮ずいけいきゅうにお連れいたします」

 兄妹は顔を見合わせた。

「王宮へ?光山府に行くのではないのですか?」

 トルグのほうも、少々驚いた顔をした。


「あれ、ご存じありませんか。王宮の明徳殿めいとくでんに住まわれている太妃さま――ご存じのように現王の祖母君で、私のかつての主人――が、妹さんに早くお会いしたいということで特旨とくしが下り、まず最初に王宮に参ることになったのですよ。妹さんも、いずれ我が光山府から入宮され、太妃さまの御殿にお暮しになるわけですから、ご挨拶を先になされば何かと好都合というもの」

 そして彼女は、サウレリの馬の手綱を取って先に歩き出した。馬に揺られる兄妹二人は、思わし気に視線を交わす。


 門神もんしんの御札さながら両足を踏ん張り、ほこを手にして睥睨へいげいする門番二人の脇を通り、天井に描かれた青龍の絵に圧倒されながら東陽門を潜り抜けると、眼前には、レツィンが今まで見たこともないほど多くの建物、広い道路、そしてあきれるほど大勢の人々が行きかっていた。


 都であるこの瑞慶府は東西を流れる蔡河さいがを挟んで南北に広がり、北側には主に王宮である瑞慶宮と王族や貴顕きけんの邸、南側には庶民の居住区が広がっている。そして、彼等が目指す光山府は、東陽門から東の市を抜けたその先にあるという。


 重たげな荷を担ぎ、声を張り上げて歩く物売りの男、化粧と衣の色も鮮やかに、のろのろとあるく女性の二人連れ…。そして、ラゴ族が珍しいのか、騎馬姿の女が珍しいのか、何人かがじろじろとこちらを見る。


 レツィンには、この都にあるもの全てがきらきらしく、色彩が溢れて見えた。ツァングの邑も、抜けるような蒼穹と、雪を頂いた山々を遠くにのぞんではいたが、地は砂っぽく、色も限られていたように思った。彼女は馬に揺られながら、都での暮らしをあれこれ思い描いた。どのようにツァングとは違う生活になるのだろう?迎えのトルグも含め、光山府の人達は?


 しかし、彼女の期待と不安交じりの空想は、東の市に出たところで断ち切られてしまった。


「――おや」


 トルグが眉根を寄せ、視線を人々の声のするほうに向けると、その先には大きな高札が立ち、なにやら文字が書いてある。しかも、たったいま、輪になって何かを囲んでいるらしい群衆の間から、大きなどよめきが上がった。

 レツィン達の馬すれすれに中年の男が駆けていくので、トルグはとがめながらも呼び止め、何があったかを聞いた。そして、同伴者達を振り返った。

「『東市朝衣』だそうですよ」

 レツィンは首を傾げた。

「トウシチョウイ?」

 トルグは溜息をつき、声を潜めながらもレツィンの疑問に答えてやった。

「偉いお役人様の処刑のことですよ。高官が一人、謀反の罪でちょうど斬首されたところだとか。十日前も二人ばかり、同じ場所で首を斬られたというのに、その刀の血も乾かぬ間にまた…」

「ああ…それで随分と人が来ているのですね」


 処刑場を取り囲む人々、その隙間から刑場の様子が見えた。何も囲いはなく、斬首人が面白くもない顔つきで、刀身についた血を拭っている。傍らにある大きな水桶は、刀を清めるためのものであろう。ツァングの邑でも処刑が行われ、レツィンも何度かその様子を見たことがあるが、レツィンにとって衝撃だったのは、処刑そのものでもなく、処刑後の光景であった。


 むしろの上に、朝服を着た男の横倒しになった胴体が載っており、首が目を開けたまま転がっている。さらにその前には、とし十四歳くらいの少女――彼女は白衣を身に着けている――がぺたりと座り込み、泣きもせず怒りも見せず、ただひたすらに首を凝視している。


「…鄭要明ていようめい様のご息女だよ。お気の毒に。今度の謀反の騒ぎで、父は息子もろとも処刑され、母も自害。娘さんはずっとあのままでいるのかねえ」

「殺されずに済んでましだとは思うが、それでも…いずれ苦界に身を沈めるほか生きていくすべはないだろう。口に山海の珍味だけを入れてもらい、おかいこぐるみで育ったであろうお嬢さんが…気の毒だが、どうしようもない」

「鄭のお嬢様といえば、たしかご成人の暁には、王様の弟君のもとに嫁がれることになっていたはず。だがこれは――王様のお怒りは、かくも激しいものか」


 既に見るべきものは見てしまい、刑場をそそくさと後にする人々から、こんな会話が切れ切れに聞こえてきた。

 気が付くと、自分の前にほとんど人はおらず、彼女はようやく顔をあげた少女と、視線があってしまった。あどけなさの残る、しかし意思の強そうな眼差し。きっと引き結ばれた唇…。レツィンは何も言えぬまま、ただ黙って彼女を見つめ返しているだけであった。


 王宮での謁見への遅れを気にするトルグに促され、レツィンは馬の手綱を握り直したが、その少女の残影が網膜に焼きつき、容易には消えなかった。

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