第1章 白烏の神侍

第1話 神の眼

 ――ねえ、兄さん。あのお山は何ていうの?

 ――どのお山だい?

 ――おてんとうさまと反対の方角にある、いちばん高いお山よ。

 ――あれは蓬莱ほうらい山という山だよ。神様が住んでいるんだ。

 ――神様が?

 ――そう。むかし、天子さまの一番末の御子みこが御国を賜ってその地に赴かれたとき、蓬莱の神様が一羽の白い烏を守護にお命じになった。我ら一族は、白烏はくう神侍しんじとして御子の国下りに従ったが、この地でお役目から解き放たれ、むらを営んだというわけさ。

 ――じゃあ、この大きな水たまりは?これが海?

 ――いいや、海ではなく湖だよ。『神の眼』と呼ばれている。神様の神聖な、何もかも見通す眼だよ。

 ――そうなんだ、綺麗ね。でも私は海が見たい。どうしたら見られるの?


 その娘は小さな頃に交わした会話を思い出しながら、馬の背に揺られていた。遠くで誰かが鳴らした笛の音が、こだまになってこちらにも響いてくる。


 ラゴ族のなかでもっとも大きな邑であり、また族長の治所でもあるツァングは、蓬莱山から北を迂回する蓬莱北道ほうらいほくどうが通過し、そのまま南にたどれば烏翠うすい国の都すなわち瑞慶府ずいけいふに至る、いわば北方の交通の要衝である。

 いまもそこを出発した人馬と荷駄にだの列がからん、からんと鐘の音を立てて、蓬莱北道を南下しているところであった。


 列の中央にいる騎馬の娘はとし十五くらいで、きりりとした眉と、その下できらめく薄い茶色の瞳が印象的であった。毛織物に赤系の刺繍をした上着と、銀の大きな頭飾りと耳飾りから、ラゴ族の未婚の娘だと知られる。そして彼女の前には、やはりラゴ族の服装をした、やや年上の若い男が同じく馬の手綱を握っていた。


「ねえ、兄さん。『神の眼』が今日はいつにも増して澄んでる。そう思わない?」

 少女は馬上から男の背に語りかけ、手にした鞭で右手の方角を指した。そこには、険しい遠くの山々を映し、ほぼ丸い円周を持つ湖が横たわっていた。その青よりも青い水面は、見る者を忘我の境地へといざなう。


 ――からん、からん。

 兄さんと呼ばれた、赤胴色に日焼けした男は振り返ってしろい歯を見せた。

「うん。『神の眼』はいつも美しいが、今日はまるで鏡のようだ。幸先がいいな、この湖が鏡のように澄んでいるのを目にした者は、向こうひと月幸運に恵まれるという。お前が烏翠で暮らすための、神様からの贈り物だよ」

「…そうだといいけど」

 少女は期待と不安がない交ぜとなった、この時期の子どもがよく見せる表情をした。

「心配することはないさ。前に話して聞かせたように、お前は入宮する前に、王族の光山府こうざんふに世話になって作法などを学ぶんだ。期間は一年と長いが、それもこれも、太妃様の思し召しによるもの、『入宮前に、あれこれ見ておくのも良い』と仰ってね。それに光山府のご当主は優しい方だし、ラゴ族も一人いる。彼女はかつて王宮にお仕えしていて、その者が都の門まで迎えにも来てくれるそうだ、心強いな……ほら、ずっと向こうに『二廟にびょう』が見えるぞ、お参りをしていこう」

 

 兄のいう「二廟」とは、ラゴと烏翠の境界に並び立つ二つの廟のことで、ラゴ側の廟にはラゴ族の信奉する男神と女神、そして烏翠側のそれには烏翠の崇敬する白烏の神とその妃が祀られている。この境を越える旅人は、二廟いずれにも参詣して旅の安全を祈るのが慣わしだった。

 ゆえに、兄妹もまずラゴの神に、次に烏翠の神の祭壇に額づいた。妹は、扇を持つ男神と、三山を帯から下げた隻眼の女神からなるラゴの廟には馴染みがあったが、白い翼を持つ擬人化された烏と、まりと紫色の瞳を持つ妃神の塑像そぞうを見るのは初めてだった。

「ねえ、兄さん。なぜ烏翠の妃神様は毬を持っているの?」

「俺も詳しくは知らんが、お妃はもともと烏翠のお姫様で、彼女に下った託宣の『投げた毬を拾った者を夫にせよ』という言葉の通りにしたら、何と白烏の神様が毬を拾いあげ、そうして夫婦になったんだそうだ」

「この神様達はお優しいかしら?烏翠の人間だけではなく……ラゴ族でもお守りくださる?」

 兄は微笑み、ごつごつした手で妹の頭をぽんぽんと撫でた。そして二人はまた馬上の人となる。


 ――からん、からん。しゃらん、しゃらん。


 国境からしばらく行ったところで、騾馬らばの鐘の音に、それよりも高い音が加わった。どうやら行列の前方から聞こえてくるようだ。

 緩やかな坂を、踊りながら登ってきた人間がいる。右手には五色の糸が結びつけられた杖、左手には小さな鈴が沢山ついた棒、そして胸から下がるのは蓮の形の鏡。ひとめで占い師とわかる装いであった。

 その者の足取りはあまりに軽々としていたので、近寄って初めて蓬髪ほうはつの老婆であることがわかり、兄妹は揃って驚きの表情をした。相手の心を推し量ったのか、老女はぴたりと行列の前に立ち止まり、馬上の者達を見上げた。


「…おや、これはラゴ族だのう。男前の兄さんとべっぴんのお嬢さん、どちらに行きなさるかね」

 そう言って突き出された顔は岩のような肌で、ちょろちょろと覗く舌はしきりにひび割れた唇をなめている。

「烏翠の瑞慶府に行くところだ」

 兄が答えると、占い師はひっひっひと笑った。


「そなた達の狩りでは獣の血の匂いがするが、あそこの連中の狩りでは人の血の匂いがするのう」


 妹は顔をしかめ、兄は苦笑した。

「あんまり縁起でもないことを言ってくれるな、瑞慶府はこの子の一生を預ける地かもしれないのだから」

「そりゃ気が利かず、すまんことをした。どうじゃ、お詫びに一つ、お嬢さんの人相を見て進ぜよう」


 言いしな、しゃんしゃん、と鈴の音を響かせ、老女はまた踊った。兄妹はなぜか断ることもできず、彼女に踊らせるままであった。やがて老女は掲げていた鈴を降ろし、妹の顔をじいっと見た。


「そなた――白烏の神侍の子孫よ、これからそなたの前には三人の男が現れる。一人はそなたが想いを寄せ、一人はそなたを得ようと望むが果たせず、また一人はそなたと夫婦めおととなる。最後の一人とは長く添い遂げられぬが、このうえなく幸せに暮らすであろう」


 かすれた声の託宣を聞き終わるや否や、兄は声を上げて笑った。

「いずれの神様を降ろしているのかは知らぬが、大外れだな。この子は下手をすると結婚は愚か、恋の一つさえ叶わぬ定めだ」

 いっぽう、少女は穴が開くほど老婆を見つめている。

「だがせっかく占ってくれたのだから、ほら」

 兄が腰の巾着をごそごそやって、銀を一枚取り出した。

「取っておいてほしい。つかの間でも、妹が夢を見られたかもしれぬ」

 老婆は顔をくしゃくしゃにした。

「ひゃっひゃ、信じておらぬな。まあ、いい。占いは信じなくとも、女神の帯にはお返しなされよ」

「女神の帯?何を?」

 少女が聞き返したが、老婆はその問いには答えようともせず、また踊りながら蓬莱山の方角指して去っていった。

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