第12話 秘められし祭壇

 同日の夕方になって、レツィンはトルグに頼まれ光山府内の祠堂しどう(注1)に赴いた。


 そこの祭壇の水と供物の取り換えはトルグの日課の一つであったが、レツィンと敏の巻き起こした騒動ですっかりそれを忘れてしまい、トルグが思い出したころには、すでに夕餉ゆうげの準備が迫っていた。そこで彼女はレツィンに代理を頼んだわけである。

 小さな水瓶すいへいと、干菓子が載った盆を両手に持って、レツィンが祠堂の敷居をまたぐと、ぼんやりと一角だけ明るく、その手前の薄闇のなかで人影が動いた。


「きゃっ」

「わっ…」


 驚いたのはレツィンだけでなく、その人物も同じだったらしい。彼女は背後から差す夕焼けの光を頼りに、相手を確かめようとした。

「弦朗君様…」

「なんだ、君か。ああ、新しい供物を持ってきてくれたんだね」

「お役所からお戻りでしたか、お出迎えにも出ませず失礼いたしました」


 祭壇の前に跪いていた主君は、膝を払って立ち上がった。祠堂の中央には烏神うしんと妃神の肖像が、その右には弦朗君の亡父である玉泉君ぎょくせんくんの肖像が掲げられている。

 弦朗君は焚いていた香火を消し、レツィンの仕事の邪魔にならぬよう脇に退いた。彼に見守られていることを意識したレツィンは、胸の鼓動をはやめながら新しい水瓶を置き、供え物を取り替えた。


「レツィン、ここに来る旅の途中で二廟にびょうに参詣したかい?」

「ええ」

烏翠うすいの神に何を祈った?」

瑞慶府ずいけいふで上手く暮らせますように、と。私が上手く暮らせないならば、ラゴと烏翠の間も上手く行かないと思ったので…」

 弦朗君は微笑んだ。

「では、今日のやり方で、上手く暮らせると?」

「…」

 レツィンはうなだれた。

「主君には、本当に何とお詫びしたらよいかわかりません」


――でも、まず詫びなければいけない相手は彼だ。


 弦朗君はレツィンの心を知ってか知らずか、彼女の手を取った。

「本心を言うと、私が君に教えたこと、そしてこれからも教えていくことは、天空の高みを飛んでいた鳥の翼を折って、籠に閉じ込めてしまうようなものでね。私だって、本当はこんなことをしたくない。鳥は空を飛んでこそ鳥だから。でも、君には生きていて欲しい…」

 

 主君の手と言葉の温かさが、レツィンの心に染みてくる。そして彼女は、そんな主君を育てたひとのことがずっと気になっていた。

「…あの、母上様のことも申し訳ありませんでした」

「ああ、あのことか。……レツィン、母は何歳に見える?」

 主人の問いは唐突に思えたので彼女は首をひねったが、正直に答えることにした。

「六十歳くらいにお見受けしましたが…」

 弦朗君は首を横に振った。

「母はあれでも四十過ぎだよ」

「え?」

「私の父は早くに亡くなり、後を継ぐ私もまだ成人していなかったから、母上もご苦労にご苦労を重ねたのだ。あのようにすっかり老け込まれて……母上の家門は伝統と格式だけはあるが、山房の後ろ盾となるには権勢が弱く財力も乏しかった。明徳太妃様めいとくたいひさま――お祖母様のご庇護を頂いたとはいえ、女手で山房の維持は難しかったはず。何より、君も気が付いた通り、現王の政治まつりごとは厳しくあられるゆえ、ご即位このかた、王族も臣下も何人粛清されたか数え切れぬほどだ。そのような状況で、母上はそれこそ、命を縮める思いで私とこの光山府を守って生きてきてくださったのだ。だが、三年前に檀山だんざんという大きな山房が粛清されたとき、母の張りつめた心の糸は切れてしまい――」

 レツィンは言葉もなく、ただ主君の顔を見つめるばかりだった。


「私達と家族ぐるみで親交を結んでいた檀山の当主が、王の圧迫により自死を強いられ、彼の山房も族滅ぞくめつしたその忌日きじつには、私は必ずここで祈ることにしているのだよ。でも今日は、母がその名を口にするまですっかり忘れていた。もしかすると、母の口を借りて、檀山が教えてくれたのかもしれない。あるいは幽世かくりよより彼等が私の忘却をなじっているのか…レツィン」

「はい?」

「君は、よく夢を見る?」

 また唐突な質問をなさる、と訝しみながらレツィンは首を横に振った。

「いいえ、ほとんど見ません。毎日忙しくて、泥のように眠ってしまいますから」

 弦朗君はふふふ、と笑った。

「我が府はそんなに人使いが荒いかな?すまないね」

「いえ、そんな……では、弦朗君様は?夢をよくご覧に?」

「私?」主君は神の肖像を仰いだ。

「ときどきはね。あまり良くない夢だが、光山府を継いだ時以来だから、もうすっかりそんな夢とも朋友ともになった。…とはいえ、見ないに越したことはないのだから、心底そなたがうらやましい」

「主君も毎日ご多忙でお疲れでいらっしゃるのに、お眠りになれませんか?」

 弦朗君は目を伏せ、直接その問いには答えなかった。だがレツィンは、これまで主君が他人に見せたことのない、心の奥底に秘めた祭壇を少しばかり開けてレツィンに示してくれたように思った。

「まあ、母や檀山のことはよい。むしろ私が話さねばならぬのは敏のことだ。なぜことさら君に冷たいか、その理由を彼から聞いたことはあるかい?」

「…いいえ」

「そうか――そうだろうね」


 敏のあの態度に、どのような理由があるのだろうか――。


***

注1「祠堂」…先祖や先賢を祀るみたまや。

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