第35話 笛声嫋々

 明徳太妃の面前で、その女性はぽろぽろと涙をこぼした。卓上の茶はとうに冷め、彩りもあやな茶菓子は全く手をつけられていない。


「…お許しください、太妃様。常々ご心配をおかけし、今日もまたこうして御殿に呼んでくださったというのに…」


 俯いた拍子に、銀の簪の飾りがしゃらりと鳴った。涙で湿った手巾しゅきんを握りしめ、王妃は嗚咽を漏らしている。臈長けてはいるが、面差しの寂しげな婦人だった。

 太妃のすぐ近くに侍立したレツィンは、眉を寄せて高貴な女性を見つめている。


「我が君に責められると辛うございます。男子を挙げられぬのは、王妃としてなすべき務めを果たしておらぬからだと……お姑様かあさまにも…」


 太妃は溜息をつくと、卓の向こう側から両手を差し伸べ、王妃の右手をそっと握った。


「そなたのせいではない。私も遠い昔、最初に挙げたのが女子――あの安陽あんようであったゆえに、いささか肩身の狭い思いを致したものじゃ。確かに私は幾人もの子に恵まれ、王妃として太妃として人にかしづかれ、この年まできた。しかし、文王むすこたちに先立たれるという、親として言葉に尽くせぬほどの悲しみも味わった。何が幸いするかは、烏神のみぞ知る。誰が何と申そうと――たとえ王や慈聖殿じせいでんが何を申そうと、そなたはこの国の王妃であり、たとえこの先に側室が男子をなそうと、国母であることに揺らぎはない。第一そなたはまだ若い。子に恵まれる機会はいくらでもある。気を強く持ちなさい」


 レツィンは、拝謁における尊大な国君を思い出し、ますます渋面となる。彼女の異変を察したのか、傍らの宝琴がそっと彼女を肘でつついた。

「…でも、私に対する我が君の苛立ちが、顕錬様にも向かっているのかと思うと……ただただ申し訳なくて…」

 すすり泣きの声が、段々と大きくなっていく。太妃は首を横に振って、無理に微笑んでみせた。

「それも、そなたの責ではない。あの子――顕錬に関しては、私もいろいろ骨折りしてみたがのう。見かねてあれを手元に引き取ろうとしたのだが、王と慈聖殿がきつく反対するので、どうにもならぬ」

 そして宝琴を振り返り、

「どうじゃ、せっかく王妃の臨御を得たのだから、そなた達の楽でも聴かせてとらそうかの。いまは何の曲をさらっている?」

 宝琴はレツィン達と二、三言ささやき交わしてから答えた。

「出来合いの曲ではなく、海星かいせいが持っている銀の笛とラゴ族の楽を、私達の楽器と合奏するという試みを…」

「おお…」

 太妃の顔が明るくなった。

「それは面白そうじゃの。廂の近くに私達の席を設けて、な」


 早速に貴人達の席が整えられ、レツィン達四人の女官は廂の下に左右二人ずつ分かれて控えた。

 宝琴という名の由来のごとく、彼女は得意としている烏翠の琴を弾き、レツィンが銀の笛を吹きならす。後は太鼓と長笛という取り合わせである。銀の笛はもともとは楽器というよりも山間における連絡の役割を果たすものだが、不思議と烏翠の楽器とは相性が良かった。

 レツィンは廂から外を眺めながら、王妃を慰めるべく心を込めて笛を鳴らした。泣き疲れたのか、楽の音に聴き入っているのか、王妃は泣きはらした顔もそのままで微動だにしない。その傍らで、太妃は優しく女官達を見守っていた。


 ラゴで暮らしていたときの空はどこまでも青く広かった。踏青とうせいでこの笛を吹いたときも、蒼穹は高く、山々は懐かしかった。だが、ここ――大小高低様々な建物が立ち並ぶ瑞慶宮の空は、どこから見ても矩形くけいに切り取られている。


 ――空はこんなにも狭かっただろうか。


 籠の鳥がいつか飛び方を忘れてしまうように、いつか私も空の広さを忘れてしまうのだろうか。

 ――そして、敏は平穏無事に過ごしているだろうか。承徳は日々の勤めを果たしているだろうか。弦朗君様はお元気でいらっしゃるのか。敏と承徳、聞こえる?あの時の笛よ。このが宮外にまで届けばいい、そして、彼等のもとに私の思いが伝わればいい。


 笛声てきせいはある時には切々と、またある時には嫋々と響いて尽きることを知らなかった。

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