第36話 懐恩閣

 外朝と後宮のちょうど中間には、「懐恩閣かいおんかく」なる二階建ての楼閣があり、そこは烏翠の神のほか歴代の王と妃の「御容ぎょよう」と呼ばれる肖像画、そして功臣達の肖像も飾られている。王家の「みたまや」である宗廟は王宮の外にあるため、瑞慶宮の王族達は、日常の礼拝についてはこの懐恩閣で行う。特に明徳太妃は毎朝赴き、比較的長い時間を過ごすのであった。


 ある日も、太妃はいつものように懐恩閣から戻ってきて茶を喫していたが、扇を祭壇の上に忘れてきたことに気が付き、レツィンに取りに行くよう命じた。彼女は毎朝太妃の礼拝に付き添っていたため、懐恩閣のことはよく知っていたが、改めて足を踏み入れると、人気ひとけのない懐恩閣は薄暗く、神と死者の支配する異境のように思えた。


 太妃の記憶通り、祭壇の隅に置かれていた扇を回収し、改めてレツィンは正面に飾られた三つの御容を見上げた。三人の国君はいずれも王衣に身をつつみ、玉座にあって生者を睥睨へいげいしている。太妃が教えてくれたところによると、中央が「開国の君」である太祖、右側が明徳太妃の夫君すなわち現王の祖父である荘王そうおう、そして左側が息子の文王ぶんのうということである。


 ――王様方。今の烏翠は、あなた方が思い描いていた国の姿ですか。賑々しく華やかな都、瑠璃瓦の煌めく王宮。でも血なまぐさい風がそこかしこ吹き抜けてやみません。私の友人が父のむくろを荷車で引き、王弟様に嫁す筈だった少女が紅燈こうとうのもとで妓女となる、それが国のあるべき形なのでしょうか。私にはわかりません。私の育ったツァングのむらは寒く、飢えるときも多いけれども、でも…。


「ここで何をしている?」


 誰何すいかの声にレツィンは飛び上がりそうになった。見ると、王が数人の侍従を従え、閣の入り口に立っている。レツィンは急いで一礼し、手にした扇を示した。

「明徳太妃様がここにお忘れ物をなさったので…」

 王はそれに答えず、ずかずかと進み入ると開国の君の祭壇に跪き、ただし両脇の祖父と父に拝礼することはしなかった。おそらく、王は祖母君に皮肉を言われたので、不承不承懐恩閣に来たものらしい。彼が立ち上がるのを待って、レツィンは「御前を失礼致します」と声をかけ退出しようとしたが、すんなりとはいかなかった。


「待て」

 低い声が背中を追いかけてくる。レツィンは呼吸を整え、くるりと振り向いた。

「何用でございましょう、王よ」

 彼は若い女官の前に、岩のように立ちはだかった。見下ろされると、えに言われぬ圧迫感を感じる。

 こんな兄上に殴られたり鞭打たれたりしたら、またこんな夫君に罵倒でもされたら、全くたまったものではない――レツィンは王妃と紫瞳の弟君が心底気の毒になった。


「二階に上がったことはあるか?」

 王の唐突な質問に、レツィンは平静を装いつつ「ありませぬ」と答えた。太妃は二階に上がって礼拝をするが、その間レツィン達は一階で待たされているからである。

「では、今から行くぞ」

 有無を言わさず、どんどん閣の西側にある広めの階段を登っていく。王の侍従たちは命じられているのか、閣の入り口から中には入ってこない。

「おい、何をしている、さっさと上がってこぬか」

 上から尊大な声が降ってくるので、レツィンは後について登らざるを得なかった。


 全部で二十段くらいあったろうか、段を登りきると、視界が明るくなった。二階は北側に壁があるだけで、三方は障子の張られた飾り窓なので解放感がある。その北の壁には、烏神とその妃神の御容が奉じられている。王がその前に額づいたので、レツィンも後に続いた。


「…ラゴの娘も、烏翠の神には敬意を表するか」

 王は愉快そうに笑った。

「ラゴの神は烏翠の者も慈しみます、同じように烏翠の神もラゴの者を愛するかと」

 それを聞くや、ふん、と王は鼻を鳴らした。

「随分と生意気な娘だな、烏翠とラゴの和解という以前に、人質として入宮したことを忘れたか」

 確かに、今のレツィンの答えは王の機嫌を悪くすることはあっても、良くすることはないかもしれなかった。だが先日以来、弟君の一件がレツィンの心に深く棘として刺さっており、彼女は王を毅然として見返した。


「『人質』とはっきりとおっしゃいますが、我が一族と烏翠の間に交わされた盟約には、そのような文言はないはずです。そもそもラゴ族は、烏翠開国の君が天朝からこの地に封土を賜って以来、白烏の神侍の子孫として烏翠に従って参りましたが、決して烏翠に隷属したことはありません。ですから、私も『女官』にありながら『女官』にあらず。第一、これはあの拝謁のみぎり、王ご自身が私に仰ったことでは?」

「何を…」

 王は怒りに震えたが、次の瞬間、哄笑がその口から迸った。


「何ともまさか、神の御前でこの私に盾突くとは!気に入った!」

 そしてレツィンの手首を引き寄せ、自分の懐にレツィンを抱き込もうとした。

「何をなさいます…」

 レツィンは逃れようとしたが、ここで抵抗すれば王を傷つけることになるかもしれず、自重せざるを得なかった。


「お前、私が毎日何を食しているか知っているか?山海の珍味だとでも?違うな、臣下どもの阿諛追従あゆついしょうばかりを食らわされている。おまけに、宮中の人間は揃いも揃って死者も同然だ」

「…では、諫言なさる真の臣下は?宮中の生者はどこに?」

 鄭要明といい趙翼といい、王に諫言できる、気骨ある臣僚はおそらく立て続けに粛清してしまっただろうから、真正の臣下も宮中の生者もいなくなって当然ではないか……レツィンは声に出したい気分で一杯だった。だが困ったことに、王が自分を抱きしめる力がますます強くなってくる。辛味の利いた香がレツィンの鼻先を掠め、耳元で囁かれた。


「…そなた、側妃にならぬか?」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る