第46話 来たるべき狩り

 逃亡劇の最初のほうでは他のことを考える余裕がなかったが、少し状況が落ち着いてみると、改めて残った人々のことが気になる。


 敏は、

「私のせいであんなことに…。主君のご命令で、しかもレツィンの名誉を守るためとはいえ、お体に傷をつける辛さといったら。ああ、加減を間違えて、必要以上に深手を負わせてしまってなければいいが」

と顏が胸につかんばかりにうなだれ、レツィンも全く同じ気持ちだったが、いっぽうでとんでもない策を考えついて、身の危険を冒している主君は、いつもの淡々とした調子で難局を処理しているのではないかとも思った。

「今頃、王宮は大騒ぎかも…」

 レツィンの想像した「大騒ぎ」とは以下の通りである。すなわち――。


 使者が光山府に来た翌日の中午になって、やっと輿が発つ。定められた還宮かんきゅうの刻限ぎりぎりの時間である。その前に、女官が急病になったというので、輿は正堂の階まで登り、戸口で主人の乗るのを待つ。その女官の急病とは性質たちの悪い感冒で、弦朗君も体調を崩したというので、彼は正堂内で別れを済ませ、見送らぬ非礼を詫びるだろう。

 やがて出てきた女官はよほど体調が悪いのか顔を下に向け、余人に病んだ姿を見られたくないのか、薄い衣をすっぽりと頭から被っている。彼女はトルグに脇を支えられ、すぐに輿に滑り込む。

「お使者のお発ちぃ――」

 先触れの声に家令以下、府内の者が神妙な顔つきで使者の行列を見送る。

 そして瑞慶宮に到着後、きっと輿の中からは、さるぐつわをかまされ、宮中の女官の服を無理やり着させられた格好の、しかも身体のそこかしこ切り傷やあざだらけになった弦朗君が転がり出てくるだろう。

 そして、明徳太妃や王を相手にこのように説明する筈だ。すなわち、逃げて光山府に潜んでいた「敏とその一味」が弦朗君を脅し傷つけ、かつ王の弑逆を防いだレツィンを逆恨みし、ぬけぬけと拉致して行った、と――。


 実はこの策を弦朗君が提案したとき、ただ一つ敏に念を押していたことがある。

「無理があって危うい策なのは百も承知だが、仕方がない。文字通り、苦肉の策というわけだ。この芝居が露見してはならず、何か疑惑が生じた場合、身代わりを務めて殺されないで済むのは、私くらいなものだからね。それよりも、大逆の罪のみならず、かつての主君を傷つけ、明徳太妃の女官、しかもラゴ族の姫君を拉致した不義不忠の汚名は生涯消えないけれども、それでもいいかい?敏。だが、この策であればレツィンとラゴ族の名誉は守れるだろう。このまま空の輿が王宮に還れば、彼女にも嫌疑がかかってしまうからね」

 問われた方は大きく頷き、きっぱりとした口調で言った。

「かまいません。レツィンが止めなければとっくに死んでいた筈の命です」

 弦朗君は頷いた。

「では、レツィンはしばらく外へ出ていなさい。敏が私の下命を遂行する間、ここで繰り広げられる光景はあまり愉快なものではないだろうから――君にはそれを見せたくないんだ」


 瑞慶府を脱出してからさらに一晩が過ぎたが、レツィンには十年も経たような感覚である。

「さすがに馬で逃げるのは目立つからよしたけれども、やはり徒歩では限界があるな」

「…ないものねだりだけれども、せめて馬があればねえ」

「今の俺達には、馬一頭の価値がくに一国に匹敵する」

「仕方がないわ、何とか早く二廟にまでたどり着かなければ」

 二人は蓬莱北道では、人のいるところでは尋常の速さで、逆にいないところでは速度を上げて歩き、時には小走りにもなり、とにかく瑞慶府から一刻も早く遠ざかろうとした。


 逃げる時には、二つの行程すなわち、レツィンが瑞慶府に来た時と同じ蓬莱北道を通るか、それとも敏の原籍地である明州をも経由する蓬莱南道を通るか、いずれにせよ、ラゴ族の土地に入るには必ず二廟を通過せねばならない。

 もし追手により二廟が封鎖されてしまえば彼らは袋の鼠となりかねないので、そうなる前にそこを越える必要がある。北道の方が近いが難路、南道の方が距離はあっても行くのに簡単な路であるが、ここは正攻法で北道を行く――それが二人の策であった。


「敏、弦朗君様はお怪我をなさっているけれども、ほんとうに私達の追討にお出ましになると思う?」

「お怪我の経過にもよるが、おそらく王命が下れば、無理を押してでも自ら出向かれると思う。そうでなければ、光山府にまで嫌疑がかかってしまうだろうから」

「主君には申し訳ないこと…。となると、もし弦朗君様が討手の一人におなりになるなら、どちらの道をご自分で行き、そしてどちらの道を承徳に任せると思う?あるいは二人ご一緒に?」

 レツィンのその問いに、敏は間髪を入れずに答えた。

「もし主君が俺たちの考えを汲んで追跡なさるなら、北路をご自分で、承徳には南路に行かせると思う」

「だったらいいけれども。承徳にだけは討たれたくないし、手にかけたくない」

「おいおい、主君にだったら討たれてもいいのか?」

 呆れた口調の敏ではあるが、レツィンの真意を了解してくれているようだった。

 弦朗君はいざとなれば、かつての部下達をも手にかけることも辞さないだろう。だが、もし承徳がレツィンの懸念通りとなったら、きっと心の均衡を崩すほどの衝撃を受け、立ち直れぬやもしれない――。


 溜息をつき、何気なく振り返った敏は、そこで立ち尽くした。レツィンも彼の視線の先を見て、首を傾けた。二人が見つめているのは瑞慶府の方角で、その場所から細い煙が三筋あがっている。

「…あれは急を告げるのろしだ。ついに狩りが始まったらしい」

「急がなきゃ」

 二人は焦った顔を見かわした。


 加えて、レツィンは北の山々から吹き降ろしてくる冷たい風が、湿り気を帯びているのに気が付いていた。これから先、天候が崩れるかもしれない。雨が降れば、山道は滑りやすくなり、道行きが難儀なものとなるであろう。


 そして、もう一山越えれば二廟にたどり着くであろうその時、向こうから緩やかで長い坂を下ってくる二十人ほどの集団に行き会わせた。竿に結びつけられた旗を見るに、どこかの戯班いちざらしい。

 彼等は狭い道を目一杯に塞ぎ、幾つもの荷駄を従え馬まで飼っており、楽器を鳴らしたり踊ったり、のろのろとこちらに近づいてくる。早く坂を上り切りたいレツィン達は左右に分かれて脇に退き、苛立ちながら行列が行き過ぎるのを待った。

 その戯班とのすれ違いざま、着飾った道化がこちらを見てにやりと笑い、荷車の上に立ち上がった。


「…ほう、これは珍しいな。大逆罪人が伶人の恰好で天下をのし歩いているとは」


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