第45話 その門に心は懸けられず
それからが大変だった。レツィンは万一の時に備え、輿の
また、「何も知らない」弦朗君が神妙な面持ちで、「お使者のお薬にこれを奉る」と言って、レツィンに袋を手渡した。中からは何か器らしきものの触れ合う、かちかちする音がした。彼女は訝しみながら袋の中を開け、はっとして相手を見上げた。弦朗君はにっこりした。
「――それは、ここぞという時に使われよ、きっと薬効あらたかなはず」
レツィンは涙をためて一礼した。そして、自分も王宮から持ち出した包みを、弦朗君に差し出した。
「恐れ多くも、かつての主君をお使い立てするようですが、いつか折を見て、これを承徳にお渡しくださいませんか」
弦朗君は首を傾げた。
「ものは何かな?」
「私のラゴ族の服です。承徳はこれのことを知りたがっていましたから。おそらくこの先、彼には私達のことで辛い思いをさせてしまう、その詫びの一助ともなればと存じます」
「承知した」
主君は包みを受け取って微笑む。そこへ、身支度を済ませた敏が現れた。弦朗君は二人の手に肩をかける。
「さあ、別れは辛いが感傷に浸っている暇はない、どうにかして逃げなくては」
「どのみち、明日そのまま空の輿が宮中に戻れば露見します。どうするか――」
その場にいたトルグは、自らレツィンの身代わりとなることを申し出たが、弦朗君は首を横に振った。
「トルグはこれ以上関わってはいけない。そなたが宮中に行っても、悪くすれば死が待っている」
そうです、とレツィンも頷いた。
「何とかして、絶対に弦朗君様と光山府の皆様に累の及ばぬ方法を…」
めいめい下を向きしばし考え込んだが、やがて弦朗君は何か思いついたように顔を上げ、とんでもないことを言いだした。
「…敏、私を死なない程度にぼろぼろにしてくれないか?それから、レツィンは女官の服を私にくれないか?」
レツィンと敏はすでに丑の刻には光山府を抜け出していた。だが、慎重に人の少ない通りを選んで進み、必要とあれば迂回した。
まだ出仕していなかったとはいえ、敏は瑞慶府の次官である主君に仕え、諸事を間近で見てきただけあって、夜間の警邏の人数や経路について熟知していたのが幸いした。
そして、二人は物陰に潜んで夜明けの開門を待つ。
初めはゆっくり、そして段々早くなる太鼓の音。重い音を立てて、
「おい!」
門番から声をかけられ、彼女は飛び上がりそうになった。
「武人様が呼び止められたのは私どもですか?何用でございますか?」
敏は冷静に、眉を上げて伶人らしい口調で答える。長く承徳の芸人ごっこに付き合っていた甲斐があったというものであった。
「落としたぞ」
門番の指さす方角には、何時の間にレツィンの帯から抜け落ちたのか、あの拝領の扇が転がっていた。レツィンが慌てて扇を拾おうとする先に、門番がそれをすくい上げ、おもむろに広げた。彼女と敏は真っ青になった。扇面には、絵のほかに弦朗君の自讃と自署、そして落款が入っているのだ。見咎められたらやっかいなことになる。
「…ふん、賤しい身分のくせにいい扇を持っているんだな」
レツィンはにっこりした。
「兄の御贔屓様方から頂いたいわば宝物、拾ってくださってありがとうございます」そして、扇を受け取ると、何食わぬ顔で門をくぐった。
「…びっくりした」
「危なかった」
「たぶん、あの門番は難しい字が読めない。だから命拾いをしたんだ」
「なるほど、いつかのあなたの言葉は正しかった。筋力だけでは武力を支えられないのね」
…我はただこの楼上より見送り
王城暁の太鼓を凝然と聞くのみ
心は半分だけこの門に懸けていかれよ
さすれば疾く戻れると人はいう
レツィンは再び、東陽門に掲げられたあの古詩を見上げていた。
――もう心を懸けて行くことはできない。だって、ここへは二度と戻れないのだから。
敏のほうを見やれば、彼は心を懸けていってしまいそうな誘惑と戦っているようだった。無理もない。レツィンと違い、彼はこの地、この都で人となったのだから。それでも敏は首を一振りすると、城門を背にして歩き出す。
レツィンは、周囲に通行人が少なくなったのを見計らい、前から気になっていたことを彼に訊いてみることにした。
「そういえば、あなたには確か弟がいたでしょう?彼はどうなったの?」
「公主様が、他の
笑いに紛らわせてはいても、やはり弟への不安や願望が透けて見えて、レツィンは返事をすることもできなかった。
瑞慶府を出て十華里ばかり蓬莱北道を行くと上り坂となり、やがて都を見はらせる高台に出る。瑞慶府は朝陽の光を浴びて半分は眼覚め、半分はまだまどろみのなかにいた。二人は立ち止まって、ともに慣れ親しんだ街並みを心に刻んだ。
銀色に輝く蔡河、瑠璃瓦も眩しい壮麗な瑞慶宮、ある時は喜びとともに、またある時は悲しみや怒りとともに渡った数々の橋…。
遠からず、またあの場所で血が流れるのかもしれない――。
まだ「狩り」は始まっていなかったが、嵐の前の静けさのようにレツィンには感じられた。
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