第44話 自省斎のひと


 遠ざかる弦朗君の足音を聞きながら、レツィンは敏の傍らに膝をつき、汚れた頬に手を伸ばした。


「…血がついてるわよ」

 敏は相手の手首を掴んだ。

「なぜ、王を守った?」

 その口調は彼女を責めている訳ではなかったが、ひどく疲れて聞こえた。

「あなたこそ、なぜ私を殺さなかったの?私はあなたの望みを阻んだのに」

 敏は視線を落とした。

「お前を殺せるわけがない…」

 レツィンはそんな彼を、痛ましげに見つめた。


「私も、随分と迷ったのよ。あなたの殺気を感じ、止めるべきか否かを。王の苛政は確かに人々を苦しめている、でも王を弑しさえすれば、全てが終わるの?いいえ、また復讐のための血が流れるはず。もう流血は終わりにしなければ、またあなたや燕君のような者がでるのでは?」

「……」

「それにあなたに生きて欲しかったから。…本当に自首するつもり?大逆罪人の行く末はわかっているはず」

 敏はきっぱりとした口調で答えた。

「もとより、全て承知の上だ。でなければ、刺客など志願せぬ。それに、いま俺が生き延びてしまったら、累が他の人に及ぶかもしれない。だから――」

 レツィンは首を振った。

「あなたがどんなに庇おうとも、もう安陽公主様は万一のときのお覚悟を決められている。でなければ、あなたをここに預けて行ったりはしないでしょう?『生きなさい』、これが安陽様のご意思よ。私だってそう思う。どうかしら……父上や粛清された方々の無念を考えれば、あなたが生き延びることこそ、王の苛政への異議申し立てになるのでは?」

「……」

「本当は、私だって怖い。弦朗君様はあのように仰ってくださったけれども、私が王をお救いしたばかりに、これからまた無用な血が流れることになるかもしれない。いいえ、きっと流れるはず。王が生きることで流れる血、王が死ぬことで流れる血、秤にかけたらどちらが重いのだろうかと。今でも恐ろしくてたまらない、……本当に私のしたことが正しかったのか、心が揺らいでしまいそう」


「レツィン…」

「だから、そのためにも、私は敏に生きていて欲しい。あなたが生きていれば、私は自分の選択が正しかったのだと思える。それに、宮中にいても、いつのまにか、あなたのことを考えているの、死んでいないかと心配になるの、悪夢を見ていやしないかと気になるの」

 敏はレツィンをとっくりと眺めまわした。

「…そういえば、随分痩せたな」

「あなたのせいよ」

 レツィンは、泣き笑いのような表情になった。

「あなたのことが大切なの。大切過ぎて…」

 後は、言葉にならない。

 敏は驚きの表情で、レツィンの瞳を覗き込んだ。

「本当に?…そう、たとえば――父上と同じくらい?」

「…父よりもっと、よ」

「…兄上と同じくらい?」

「…兄よりもっと、よ」

 そして、二人は互いに互いを抱きしめた。敏はレツィンの耳元で囁く。

「父が刑死なされてから今の今まで、いつ死んでもいいと覚悟して生きてきた。でも、お前の言うことを聞いて初めて、死にたくないと――生きていたいと思った、たとえそれが身に過ぎた願いであったとしても」

 レツィンは涙をぽろぽろこぼして、相手にしがみついた。

「敏、……ありがとう。決心してくれて、本当にありがとう」


 二人は部屋を出て、人払いをした後房で待つ弦朗君に一礼した。

「私達、行きます」

「そうか」

 弦朗君の瞳は穏やかなままだった。

「では、私は太妃様に早く書状を書かねば。『お使者の女官、体調の急変につき今夜は我が府で休息され、還宮は明日を予定』とね」

「我が君…」

「だが、覚悟しておきなさい。すでにことは漏れ出ていて、明後日にでも追討の王命が下りそうだ。といっても王宮はまず、下手人の行方よりも安陽公主と彼女に繋がる官人の党派を一網打尽にすることに傾注するだろうから――彼等にとっては絶好の機会だ――、はじめは都の警護を固めるため、少数の兵を捜索の先駆けに出すだけだと思う」

 二人は、真剣な表情で弦朗君の説明に耳を傾けている。


「とはいえ、公主達の件がひと段落したら、本格的に敏の追討が始まるはずだ。そうなってひとたび王命が下れば、私もそなた達を狩りださねばならない。これはレツィンにも伝えたね。むろん、承徳も私に従うことになる。かつての主従や友人同士で討つ討たれるなどというのは、どうしても避けたいところだが、万一の場合は――」

「全て承知しております。主君には、感謝の言葉もありません」

 敏が答え、頷いた主君はレツィンに眼を向けた。


「レツィンも?もしこれ以上ことがこじれれば、ラゴ族も無縁ではいられなくなる。たとえラゴに逃げても、結局は兄上の刃をその胸に受けねばならぬかもしれない。それでも気持ちに変わりはないか?」

 兄の性格とその立場上、いざという時には妹の命よりもラゴ族と大義を優先させるだろう、それはレツィンもわかっていた。

 亡父にかわり弓や乗馬、剣術を手取り足取り教えてくれた兄。怪我した幼い自分を背負ってくれた兄。骨ばった手で頭を撫でてくれた兄。そして、光山府を発つとき、いつまでも手を振ってくれた兄。彼女の心に迷いを生じなかったといえば嘘になる。だが、レツィンはしっかりと弦朗君を見返し、唇を開いた。

「覚悟の上です、この先何が起きようとも後悔はいたしません」


 そして、少年と少女はかつての主君の前に跪き、最も重い敬礼を行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る