第31話 入宮

 いよいよ入宮を明日に控え、レツィンはトルグとともにその支度に追われていた。むろん光山府の仕事もこなさなくてはならないため、レツィンは席の温まる暇もなく、府のなかを文字通り飛び回って過ごしている。

 そして夕餉ゆうげの後、彼女が呼ばれて後房に行くと、弦朗君が紙と硯を前にしていた。


「レツィン、いよいよ入宮となるね。君はよく気が付くししっかりしているから、感情を暴走させることさえなければ、王宮でも立派にやっていけるだろう」

 彼女が不安そうな顔をしていたからであろう、弦朗君が微笑んでみせた。


「入宮後は明徳太妃様おばあさまにお仕えすることになるが、入宮にあたっては、みな女官としての名をつける決まりだ。太妃様にお決め頂いてもいいが、差し支えなければ私につけさせてもらいたい。一年間、よく私に仕えてくれた礼だよ」


「名前…ですか?」

 本当は親からもらった自分の名――ラゴの名前で通したかったのだが、瑞慶宮にはさまざま喧しい決まり事があるらしい。レツィンは一礼して受諾した。

「主君に名を賜るのは、このうえなき幸いです」

 それはお世辞ではなく、レツィンの真情だった。想い叶わぬ相手ならば、せめて名前だけでも頂いて、良き思い出のよすがにしたい。


「ああ、同意してくれて良かった。といっても、私が何も知らず勝手につけるのも具合が悪い。……そうだね、君が最も好きなこと、心が向くものを挙げてみなさい。それにちなんでつけてあげよう」

 最も好きなこと、心が向くもの…。レツィンは首を傾けしばらく考えたが、やがて顔を上げた。


「私の故郷に湖はありますが、海を見たことはありません。話に伝え聞くばかりで……おそらく、もう一生海を見ることはかなわぬと思いますので、せめて名だけでも海にちなんだものを賜りたく存じます」

 そう言いながら、レツィンは敏が贈ってくれた、大きく美しい真珠を思い出した。

「そうか、わかった。だけれども、これは意外と大変なことになった」

 弦朗君は一笑した。

「『海』は男性らしい響きがあるから、女性の名に使うには難しいな。まあ、考えてみるさ。それにしても寂しくなるよ。何しろ君は妹みたいで――私には既に嫁いだ実の姉や、敏や承徳といった弟分はいるけれども、妹分は初めてだったからね」


 ――妹。


 レツィンは心の奥底がきゅっと痛んだまま、御前を下がって中庭に降りる。そこで、枝を一本失った楓の樹が目に入った。この中庭は手の空いた邸の人間が野次や声援を飛ばしながら見守るなか、敏と剣術の稽古をした場所である。楓の枝の不自然な形は、勢い余って敏が切りつけてしまったものだった。

 彼女はつと手を伸ばして、枝の断面を撫でた。



 その朝は、いつもと同じようにやってきた。

 レツィンが夜明け前に寝室を出ると、彼女よりさらに早く起きていたトルグが湯を沸かしてくれていた。この邸に来た時と同じ、トルグに手伝ってもらいながら沐浴を済ませる。

 そのまま厨房でごく簡単な朝餉を摂ってから、レツィンはラゴの服に袖を通した。実に婚礼の舞以来、四か月ぶりのことである。襟の高い服に毛織の上着を重ねて、頭には瑞鳥を象った銀の重い髪飾りを――。

「まあ、一年で随分大人びたものね、レツィン」

 髪結いを手伝っていたトルグが、感心したように言う。


 ――大人の顔、これが。


 銅鏡にぼんやりと映る自分の顔を見つめながら、レツィンは頬を撫でた。すこし頬の骨が出て、身体つきもしっかりしてきたような気がする。

 トルグに急き立てられて正堂に赴くと、弦朗君が細い巻物を手に彼女を待っていた。

「良く眠れたかい」

「…いいえ」

 初めて光山府に来た翌朝にも同じ質問をされたが、あの時とは正反対の返事である。弦朗君はにっこり笑った。

「正直でよろしい」

 そして、巻物を広げて彼女に示す。巻物のなかには荒れ狂う波と何層にも湧き上がる雲を縫って飛ぶ白馬、そして空にまたたく一つ星の絵が描かれ、絵の上に「海星かいせい」の二文字があった。


「この絵は――海ですか?」

「うん、私はかつて天子様の都に上ったとき、海を観ているからね。実は昨晩は君につける名を考えあぐねていたんだけれど、夜中うとうとした拍子に、直感が降りてきてね、筆がとたんにすらすら動いてこの絵が描けた。翠浪を飛び越え海雲を駆け抜け、北極の星を目指す白馬――これは、あるいは君自身かもしれない。ただ、『海星』なんて、あまり女官らしくない無骨な名だから、気に入ってもらえるか…」


 レツィンは眼を輝かせながら絵と書に見入った。

「こんな素晴らしいものを私に…まるで、我が一族の伝承のようです。実は、これとそっくり同じ話が伝わっているのです」

「ふうん…だとすれば、私ではなく神が代わってお描きになったのかな。それはともかく、勇気あるラゴ族の姫君――君ならきっと、たとえ荒波にもまれてもそれを飛び越えて雲の彼方に駆けていける、と私は信じている。また王宮で会えることもあるだろうから、それまで元気で。お祖母様をよろしく頼むよ」

「主君に賜った名を汚さぬよう、精励いたします。本当に、主君と府の皆さまにはお世話になりました」

 レツィンは巻物を押し頂き、最後は烏翠のではなく、ラゴ族の礼式でもって別れの挨拶を行い、一年間の撫育を深く謝した。


 前庭には、家令やトルグ以下、ともに邸で暮らしてきた者達がみな別れのために集まっていた。レツィンを瑞慶宮に運ぶ輿も門の外で待っている。

「元気でね」

「良く働いてくれて、ありがとう」

 いなくなる寂しさを紛らわすかのように、人々はいつもより饒舌になってレツィンを送ってくれた。一人一人に礼を言い、涙を浮かべた彼女は輿に乗ろうと腰をかがめる。そのとき。


 ――あ。


 視界の隅で、何かが動いた。はっと顔を挙げると、門からかなり離れた往来の向こうから、深く笠を被った人間がじっとこちらを見ている。だが、高い上背、立つときは半歩右足を出す癖――レツィンには、それが誰だかわかり過ぎるほどわかっていた。

 少しの間、二人は見つめあって立っていた。だが、声をかけるすべもなく、若者は小さく頷くと、踵を返した。

 レツィンもそのまま輿に乗り、一路王宮に向かった。だが、もし注意深い者であったのなら、輿の窓の隙間から歔欷きょきの声が漏れ出ていることに気づいたであろう。

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