第19話 明窓浄机
レツィンはほぼ毎日、宮中での作法や専用語――宮中では
「言葉なら、俺が代わりに教えてもいいよ」
学習の効果が遅々としたものであることを見かねたのか、ある日、敏が申し出てきた。聞けば、敏の母親は天朝の出身であるという。トルグに相談したところ、彼女はほっとした様子で全てを敏に一任するという。
だがレツィン自身は、敏に一対一で教えてもらうのはためらいがあった。なぜなら、
そこでレツィンは感謝の意を込めて承諾の返事をし、翌日から敏の仕事がひと段落する昼下がりに、華語の教授が行われることになった。
正堂の後方には部属たちが事務を行う房があり、その一角が敏の普段詰めている場所だった。だが、今は同室の者はみな外の用事に出かけていて、誰もいない。
敏の机の真ん中に反故紙を置き、二人は差し向かいになって座り、教授が始まった。
「…わかりやすい」
レツィンの感嘆に、敏は怪訝な顔をした。
「そうか?」
確かに、敏の説明は的確で、丁寧であった。それに、小さな発音の間違いも根気強く教え、直してくれた。
「あなたは家の事情で武官になる訳だけど、ひょっとしたら文官のほうが向いてはいるのでは?」
レツィンは整えられた彼の机の周りを見回し、そう言った。綺麗に洗われ筆掛けにかけられた五本の筆、すり減ってはいるが丁寧に手入れされた硯、きちんと棚に置かれた書物の
当人は相手の率直な物言いに一瞬複雑な表情となったが、すぐにそれを引っ込めて、微笑を浮かべた。
「一口に武官といっても色々で、文官に近い武官もあるからね。それに、筋力だけでは武力は支えられないし。
武官か文官か、まだ敏は進むべき道を最終的に決めかねているのだろう。このついでに、レツィンは前から気になっていることを、敏に尋ねてみようと思った。
「そうそう、先生、一つ質問があります」
「何だ?」
レツィンの疑問とは
当人たちは言葉を発さずとも互いに納得していたが、傍らに侍していたレツィンにはまるで意味がわからず、もどかしい思いをしていたのである。
「侍者は聞いたことを、たとえ同輩であっても口外してはならないのに……しかも、よりによって答えにくいことを聞いてくれたな」
と眉根を寄せつつも敏は教えてくれたが、ただし口調といい雰囲気といい、用心しいしい話しているといった印象をレツィンは受けた。
「現王には公主は六人いらっしゃるのだが、正妃との間の嫡子、側妃との間の男子、いずれもおわさぬ。となればまず弟君が跡継ぎ、つまり
「ああ、なるほど。わが主君がいずれ男子をなしたら、その子に王統が伝わる可能性もあるのね」
レツィンは納得した。子孫の繁栄は王室には極めて重要だが、現王にとって王統を
「まあ、我が君以前に、
レツィンは、炎山府の堂々とした当主の姿を思い出し、ふうっと溜息をついた。
「王族の方々の会話は、まるで何かの判じ物のよう。烏翠語をお話ししているのに、内容ときたら呪文のようでさっぱり」
それを聞いて敏は口をへの字にした。
「呪文も何も、すぐ悟られぬような言葉を用いることは、宮中で生きる知恵じゃないか」
あなただってまだ出仕もしていないくせに、いっぱしの口を利いて……と言いたくなったが、彼の言うことには一理あった。
「私、入宮したら、そういうことができないと駄目なのね。でも、そんな真似ができるとは思えないけれども…」
レツィンは将来の宮廷暮らしを考え、今から憂鬱になった。
***
注1「恩蔭」…律令制下の官吏登用において、高官の子孫を最初に叙任する際に一定以上の官位につけること。
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