第15話 突風巻き起こりて

「お仕度ができました」

 そう家令に言われた弦朗君げんろうくんは、傍らのレツィンに目配せした。「ついておいで」という意味である。レツィンがその通りにすると、弦朗君は門外に出て、そのまま大路の西のほうに向かってたたずんでいる。心なしか、主君の表情は憂鬱そうに見えた。


 ――今日は確か大切なお客様がお見えだとか。なのに、主君の表情が一向に晴れないのはなぜだろう。


 レツィンがいぶかしく思っているところに、大路の向こうから先触れが息せき切って走ってきた。

安陽公主あんようこうしゅ様のご到着!」

 安陽公主?おそらく自分の表情をすっかり読まれていたのだろう、レツィンは弦朗君からささやきかけられた。

「うっかりしていて、君に肝心の客人のことを話してなかったね。安陽公主は私の伯母だよ。……やれやれ、ちょっぴり憂鬱な半日になりそうだ」


 先代の文王ぶんのう長姉ちょうしである安陽公主は、派手な顔立ちと孔雀のような衣装を着た女性である。年は五十間近だろう。

 正堂の前で輿を乗り捨てた彼女は、久闊きゅうかつを叙した弦朗君の肩口を、手にした羽扇うせんで続けざまに叩いた。


「ああら、顕秀けんしゅう…じゃなかったわ、弦朗君、瑞慶府少尹ずいけいふしょういんの職務は荷が重いのかしら、なんだか顔色も冴えないわね。顔の造作は持って生まれたものだから仕方がないけど、顔つきとか顔色とかくらいは自分で責任を持ちなさい。睡眠は?食事はとっている?それともこの邸の厨房師の腕が悪いのかしら?」


 邸に着いての第一声がこれである。弦朗君は苦笑した。


「ご心配なさらずともようございます。我が府の厨房師は、王宮にお抱えいただいてもおかしくない腕をしておりますよ。神南都尉じんなんとい様はじめご家族はお元気ですか?」

 公主は鼻を鳴らし、冬だというのに扇を広げて、せわしなくあおいだ。

「うちの亭主?息子と揃いも揃ってぱっとしないわねえ。あら、敏もしばらく」

 丁重に頭を下げた敏の隣に視線を移し、公主は扇を動かす手を止めた。

「…それはそうと、見慣れない顔がそこにいるけど――というか、侍女という柄ではないわね、いったい誰?」

 レツィンは扇の先で自分を指され、どきどきしながら一礼した。


「例の……和解と盟約の証となるラゴ族の娘ですよ。今は私の府の預かりですが、いずれ入宮して、明徳太妃様おばあさま御許おんもとでお仕えすることになっております」

「じゃあ、明徳太妃ははうえの前で鎮魂の舞を踊って王様を怒らせたという、ラゴの娘というのは彼女?」

 弦朗君は眉を上げ、いっぽうレツィンは眼を丸くした。あの剣舞に王様が怒っておられる?何故?

「王のお怒りとは?伯母上」

 公主はにやりとした。

「あら、しらばっくれなくても良いじゃない?…もっとも、あなたもおつむの血の巡りが悪いのかと思っていたら、王宮の人間として段々ものがわかってきたようね」

「伯母上こそ、よくご存じで。戯班ぎはんをとっかえひっかえ自邸に呼びつけ、芝居を演じさせて楽しくお暮しの割に、楽しくないことにも通じておいでですね」

「この生意気なことといったら、随分な言い草じゃない?まあ、皮肉もお上手になったわね。――そうそう」

 そして、声を潜めて、

「太妃様はあえて鎮魂の舞を所望して娘に舞わせた、それは鄭要明ていようめいらの処刑に対する太妃様の、孫である王への『ご意見』もしくは『ご非難』であるとのもっぱらの噂、そして王は祖母君に心中お怒りだとも」


 ――知らなかった!あの時起きたことの裏には、そんな事情があったなんて。


 自分の責任ではないにせよ、レツィンは落ち着かなくなったが、公主自身はそれ以上の関心はないようで、案内された後房に座り、茶で唇をしめらせたあと、おもむろに切り出した。


「それはそうと、あなたもそろそろ身を固める時期じゃない?弦朗君」


 弦朗君は、またその話かと言いたげな顔をしたが、茶の盆を持って侍立するレツィンはどきりとした。

「まだ若輩者ですから、それどころでは……我が府の先行きもわかりませぬし」

 公主は呆れた声を出した。

「何だか弱気ねえ、いつも。まったく苛々するわ。それに、若輩者といったって、あなたはもう二十歳はたちになるはず。王から賜婚しこんがあってもおかしくない年齢よ?」

「いえ……当面のところ、王様は私には賜婚をなさらないと思いますよ」

「なぜ?……ああ、なるほど」

 公主は一人で疑問を発し、一人で納得してしまった。

「そういうことです」

 弦朗君も頷き、茶菓子をさして賓客に勧めた。


 そうして、一陣の突風のごとく、安陽公主は去っていった。

 レツィンは初対面だったがその気迫に押され、空の茶器を下げながらも脱力感と疲労感がおさまらない。

 弦朗君もそれは同じだったようで、椅子に腰かけたままレツィンの動きをぼんやりと眺めており、ふと彼女と眼が合うと、きまり悪げな笑みを浮かべた。


「…今日は君も疲れたろう、私も疲れたよ。伯母上はいつもそうなのだ、結婚しろだの何だのうるさい。……まあ、悪気はないし、頼りない私を心配してくださってのことだと思うが…」

 レツィンは、いつもならはきはきとした調子で主君に言葉を返すのに、今日は曖昧に笑うばかりだった。

 彼女は井戸のそばで茶器を洗いながら、自分はなぜあの時――公主が主君に結婚のことを持ち出した時に、胸が痛んだのだろうと考えた。その答えは一つしか見つからない。そして、決してそれを考えてはならぬこともまた、彼女はよく知っていたのだ。

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