第29話 振り払われた手

 さらに五日後、再び東の市が血に染まる時を迎えた。


 今日、敏は沐浴を済ませたら素服そふく(注1)を着るはずだ。処刑は中午に行われるから、それまでに彼は東の市に赴いて父親の処刑を見届け、遺体を引き取ってこなければならないだろう――。

 

 そんなことを考えながら、レツィンが水の入ったたらいを手に後房に赴くと、弦朗君が白い麻の服を着た敏を座らせ、自身は櫛を口にくわえながら敏の髪を結っているところだった。

 主君はいささかぎこちない手つきで髪をまとめ、まげを紙紐で結ぶ。死に赴く人間、あるいはそれに関わる者を送り出すとき、目上の者が髪を結ってやるのは烏翠の旧い慣わしということだった。鬢付びんつけ油の香りがレツィンの鼻腔をくすぐる。


「さあ、できた。……行っておいで」


 敏は眼を伏せて深く一礼し、一言も発さず部屋を出て行った。入れ代わりに入ってきた家令と、盥の水で手を清めた弦朗君は、難しい顔つきで言葉を交わしている。

 レツィンは、鬢付け油の壺や櫛などを並べた盆を下げようとし、立ち止まった。主君の顔にいつもの優しさと温かさが戻るのは一体いつのことだろうと、彼女は胸がちりちりと痛んだ。そして敏は――。


「――せめて荷車を府から出してやれないのかい?」

「恐れながら、我が府の荷車には、みな徽章の焼き印が押してございます。王宮からは、謀反人の係累のなすことに、一切関わってはならぬときついお達しで…」

「焼き印など、削りとってしまえば良いのでは?あるいは新たに荷車を買ってこさせるとか?」

「後ほど詮議の種となれば厄介ですぞ。このたびの件で主君の御尽力は並々ならぬものがありますが、これ以上庇い立てなさいますと、御身とこの府も危険です。問題は、荷車云々ではありませぬ」

「然り。やれやれ……王族の府にあって、荷車一つ自由にならぬとは」

 そこでレツィンは「あの…」と遠慮がちな声をかけた。

「何だい?」

「荷車とは、何のことでしょうか」

 侍女が主君の会話に口を出したので、家令は渋面じゅうめんとなったが、弦朗君は咎めなかった。


「父親の斬首が済んだら敏はその遺体を引き取ってこなければならないのだが、あいにく遺体を載せる荷車がない。実家は王命により封印されて中のものは一切、かまどの灰まで手をつけることはできず、かといって我が府から表だって手助けするわけにもいかないのだよ。困ったことに…」


 レツィンも主君につられて嘆息したが、はっと閃いたものがある。

「でしたら、私の荷車をお使いくださいませ!」

「君の?どこにある?」

 思ってもみなかった申し出に、弦朗君の細い眼は限界まで開かれた。

「私がここに参ったとき、身の回りのものを積んできた荷車があります。古ぼけていますが、頑丈なのでまだまだ使える筈。どこにも印がついていないから、出所もわかりません。まだ処分されていなければの話ですけれども…」

「おお、それならば三の蔵庫ぞうこにしまったままです」

 家令も手を打ってそれに応えた。弦朗君は気づかわしげに、真剣な眼差しの侍女を見る。

「いいのかい?レツィン。その荷車を使わせてもらえればありがたいが、二度と用はなさなくなる。河原で火葬に付すとき、一緒に燃やしてしまうことになろうから」

「かまいません」

 レツィンは勢いよく頷いた。


 そして、敏は荷車を引いて、人目をはばかり裏門から光山府を出た。

「全てのものを見ておきなさい」というのが口癖の弦朗君も、今度ばかりはレツィンに見に行けとは言わなかった。

 この間、承徳はどうしているかというと、弦朗君が光山府への出入りを一時差し止め、柳家に彼の厳重な監督を申し入れた。いま彼は実家に幽閉同然の身となっている。もし承徳が親友を思うあまり何か早まったことをしでかせば、柳家もただではすまぬためであった。


 レツィンはしきりに太陽の動きを気にしながらも、いつもの用事をこなしていった。そして処刑の時刻には、夏だというのに中午の太陽は青白く、冷たく見えた。


 日も傾く頃になって、門の外がざわめき出した。往来の人々の声がかますびしい。

「――引き取ってきたかな」

 書見をしていた弦朗君は窓外に目を転じた。だが、腰を上げようとしない。光山府の門も閉じられたままだった。

 傍らに控えていたレツィンはたまらなくなり、「失礼します」というなり、主君の許しも得ずに正堂を出た。まっすぐ門に向かったが、門番は槍を構えたきり、正門はおろか、脇門すら開けてくれない。


 押し問答に見切りをつけたレツィンはふと思いつき、いったん自室に引き返して侍女の服を脱ぎ、元宵節のそぞろ歩きで使った庶民の地味な服に着替えた。

 それから人のいない場所を探し、邸の塀を「ふん」と鼻をならして睨むと、塀際に生えた松の木をよじ登り、そこから塀のてっぺんに指をかけた。一声上げて塀に飛び移り、外を見下ろせば、そこは横道である。幸い、人々は大路に集まっていて、誰も自分に気が付かない。七尺はある塀だが、擦り切れた裳裾を翻して降りると、レツィンは大路に向かって駆け出した。


 すでに敏は自分に背中を見せ、こもに包んだ遺体を引きながら、光山府の前を西に突っ切っていった。瑞慶府を西に出た先、蔡河の岸には身分に応じた焼き場があり、そこまで父を運んでいくのだ。身分低い者と罪人は、最も遠くの焼き場まで行って焼かねばならない。

 周りの人びとがひそひそ話こそすれ、誰も石を投げていないということは、それなりに敏の父親は人望があったのだろう。本当に、趙翼は冤罪だったのかもしれない。


 レツィンは足早に追いかけ、敏に追いつくと荷車の後押しをしようとした。だが――。


 敏は荷車を止めると、その後方につかつかと歩み寄り、荷台に置かれたレツィンの手をはたいた。ぱしっという、乾いた音が辺りに響き、周りの囁き声も高くなった。 

 レツィンは呆然として、自分の手を払いのけた相手を見た。敏は額にも頤にも汗を滴らせ、悲しむような、怒ったような顔つきで、くるりと背を向けるとまた荷車のくびきを掴んだ。さほど体力がない彼にとっては苦行だろう、荷車は危なっかしい足取りでよろよろ進む。もとは騾馬に引かせていた荷車だから、それ自体が重いのだ。車体が傾くたび、こもの下から流れる血が大路にぽたぽたと落ちていく。


 取り残されたレツィンは声をかけることもできず、その場に立ち尽くしていた。人々も散り散りとなり、あとには死を誘うような赤い夕焼けだけが残っている。


「…勝手に持ち場を離れたばかりか、私の命を破って塀を乗り越えるとはねえ」


 のんびりした声が聞こえたかと思うと、いつの間に外に出てきたのか、弦朗君がレツィンの傍らに立っている。彼女は「申し訳ありません」とごく小さな声で答え、俯いた。そのまま主従二人は、今や芥子粒のごとく小さくなった敏の人影を見送る。彼の後ろ姿を、陽炎がにじませていた。


「敏を恨むな……君を守るためだよ」


 その言葉を聞き、レツィンの心の堰がついに破れた。彼女は唇を、わななく指で押さえた。

「恨んでなんかいません。わかっています――私に累を及ばせぬためだと。でも私……同輩なのに……こんな時、何もできないなんて…」

「荷車をあげたじゃないか、ん?」

「いえ、そうではなくて――!」

 主君にしがみつき、頭を撫でられながらしゃくりあげて泣く侍女を、烏が見下ろし一声啼いた。


***

注1「素服」…凶事に用いる喪服の一種。染めない麻布で作る。

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