第33話 萩と貴公子
それからの日々はあっという間だった。
レツィンは「女官にして女官にあらず」の待遇だったから、個室が割り当てられたという特別扱いはあったものの、他は普通の女官同様、太妃に仕えて毎日の仕事に追われた。
女官のなかには、異なる民族のレツィンを爪弾きにして、侮蔑の視線を投げてよこす者もいたが、レツィンは気にしないことにしていた。それに、食事など束の間の休憩には、親しくなった同輩達と同じ皿の菜や点心をつつき、酒ならぬ茶を酌み交わして、宮仕えの緊張と疲れを紛らわせることもできた。
気がつけば、入宮したのは秋の初めだったのに、もうすっかり空が高く、青々と澄み渡る季節となっていた。
――あら。
明徳殿に戻る途中のレツィンは、立ち止まって耳を澄ませた。どこかで誰かの泣き声が聞こえてきたと思ったのだ。
だが、回廊から庭を見渡してもしん、としているばかりである。気のせいだったかとまた歩き出したが、数歩も行かぬうちにまた周囲を見回す。
すると視界の隅、散りかけている萩の一群れの向こう側、地面に近いところで黒色の動くものが見えた。どうやら泣き声の主はその黒色の何からしい。
萩を回り込んでいくと、その根元に黒い上着を着た十四歳ほどの子どもが座り込み、膝を抱えてすすり泣きを漏らしている。後宮にいるこのくらいの年齢の子といえば、王の公主たちか、弟君ということになるが、髪型と服装からいえば弟君であろうか。
このような、人目につかぬ場所で泣いているとは、何か事情があるのかもしれないが、見てしまった以上そのままにするのも憚られたので、レツィンは思い切って声をかけた。
「もし、恐れ入りますが、どうかなさったのですか?」
子どもは声を止め、顔をふっと上げた。男の子だった。そのとき、レツィンはあっと声を上げそうになった。
涙に濡れたその瞳は、左右どちらも深い紫色をしていたからである。
――王の弟君はお身体に異変があるという噂で、ほとんど宮中よりお出ましにならない。
以前、敏がそう言っていたのを思い出した。そして、入宮した後も、何かと「邪眼」の弟君の噂は耳にしたのだ。となれば、この方は…。
「…誰?」
色の薄いその唇が動いた。
もっともな質問だと思ったので、レツィンは片膝をついて男の子の前にかがみこみ、微笑んだ。
「驚かせてしまいましたか?王様の弟君。私はラゴ族の娘であり、また明徳殿の女官でもあります」
「…ああ、お祖母様のところにラゴ族の姫君がいるとか。そなたか?」
「はい……ところで、どうして泣いておいでだったのですか?」
弟君はまた下を向いてしまった。どうやら答えたくないらしい。それ自体にはさして気も留めず、レツィンは後を続けた。
「さあ、ここにいらしてはお体が冷えてしまいますよ。御殿までお送りしましょう」
「いや、いいんだ!」
やや激しい調子で弟君は拒絶したが、その拍子に彼の袖口が大きくめくれた。レツィンはひゅっと息をのむ。
弟君の手首から肘近くがむき出しとなったが、そこかしこに
「これは…」
弟君はぱっとレツィンの手を払って、自分の両腕で自分をきつく抱きしめた。
――まさか。
レツィンは、数日前に太妃殿で聞いた嫌な話を思い出した。王が弟君をしばしば折檻なさっている、しかも場合によっては鞭を使って。実母の慈聖太妃もなぜか弟君を庇おうとせず、王のなすがままに任せている。というより、むしろ慈聖太妃が弟君に冷たく当たっているのだ、と。
同輩の
「でも、このままではいけません。お手当をいたしましょう。私、薬と包帯を取ってきますから…」
「いや、それもいいんだ」
弟君は、今度は静かに、だが悲しそうな笑顔で首を横に振った。
それ以上かけるべき言葉も、なすべきことも見つからず、彼女はただ跪いたまま見守るしかなかった。
「…大丈夫だから。もう少しすれば殿に帰れるから、そのままにしておいて。そなただって、早く戻らないと怒られてしまうよ」
では弟君さま、お大事になさって、お早くお戻りを――やむなくそう言い置きレツィンは立ちあがったが、数歩行ったところで後ろから呼び止められた。
「ええと、ラゴ族の…」
「海星と申します、もとの名はレツィン。以後お見知りおきを」
弟君は思いつめたような表情、すがるような眼をしていた。レツィンは弟君の前に再び跪いた。
「…レツィンは、私の眼が怖いか?」
それを聞いて、レツィンはにっこりと笑った。
「どうしてでしょう?」
「皆は、この眼を邪眼という」
「あなた様は、夜のしじまより深く、とても高貴な色の眼をお持ちなのに。私は烏翠の伝説についてよく知っているわけではありませんが、開国の君は尋常ならざる色の瞳をお持ちだったと伺っています。また、烏神のお妃様の眼も。……烏翠の人々は、時としてラゴ族のことを恐れ、また『蛮族』と呼びます。では、あなた様は私のことを蛮族とお思いですか?」
「いや…」
「もちろん烏翠に来て以来、好意だけに囲まれてきたわけではありません。それに…私もこのことで過ちを犯したので、人のことは言えません。侮蔑を受け激しく対立したこともありますし、それが元で人を傷つけたことも――いえ、比喩ではなく実際に」
レツィンはそう言いながら、敏との刃傷沙汰を思い出して胸が締め付けられ、思わず喉元を撫でた。
「でも同じくらい、烏翠もラゴもなく、私を慈しみ守ってくださった人も大勢います。部族や瞳の色、些細な違いで人を忌み蔑むことに、どれだけの意味があるのでしょう?それに、弟君は殿舎に戻るのが遅れた私を気遣ってくださった。そのように優しくご聡明な御方が、邪眼の持ち主の筈はありません」
そしてすっと立ち上がると、改めて弟君に深々と拝礼して踵を返した。
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