第22話 燕君
「…青磁の象嵌の杯二つ、壺一つが八両
へし折られた銀と漆塗りの
それに、歪んでしまった七宝の
破損した
後房の書斎では、行ったり来たりする弦朗君が、歌うように勘定書きを読み上げていた。その前には、床に跪いた承徳がうなだれている。顔を上げもしないのは、羞恥心はむろんのこと、
「…しめて百二十二両と三」
読み終えた弦朗君はにっこりし、手にした紙切れを
「まあ、よくもこれだけ費やしたものだ。私は妓楼に行ったことはないが、やはり音に聞く
承徳はますます縮こまり、もうすぐこの世から消えてなくなりそうな風情である。
「ふふ、嫌味ではないよ、素直に感心しているだけさ」
「…恐れながら主君、これはこの府で払うべきものと筋が違います。だいたい女将の無礼なことといったら、勘定書きの請求だけでもけしからぬのに、恐れ多くも山房への書状を函にも入れず……よほど破って捨てようかとも思ったのですが」
「まあまあ敏、あちらは私達の出方を見ているのさ。破り捨てなどしたらそれこそ向こうの思う壺だよ。ほら、この紙をご覧。正式な書簡でもないたかが書付に、ここまで良い紙を使っているということは、相手は楼の威勢を示すとともに、金銭が問題ではないと言っているんだよ」
「ですからそれが余計に無礼な……主君のお気持ちを試すがごとき…」
「もういいから」
怒る敏を軽くいなして、弦朗君は真顔になった。
「だがこれは困ったね、どうやって支払う?楼の人間が費用回収のためにここまでついて来ているのだろう?」
家令が頷いた。
「はい、いま馬廻りの詰め所におります」
「では、あまり待たせておくわけにもいかないね。私の府から出せぬこともないが…」
「それは違います!」
叫んだのは敏でもレツィンでもなく、承徳本人だった。
「筋が違う話であることは、俺でもわかります。それは俺が必ず支払います。だから…」
「といっても、そなたの俸禄ですぐ払えるのか?」
承徳が俯いたのは、ちょっとやそっとの俸給では請求書の額には足りないからであろう。弦朗君は頷いた。
「では、こうしよう。家令は明日にでも
「ですが、まんいちそれらが光山府由来であると暴露されでもしたら…」
「敏の言う通りです、我が府と主君の名誉が損なわれてしまいますぞ」
しかめ顔で異を唱えた敏と家令に、弦朗君はくすりと笑った。
「その心配はないだろう。ああいう稼業は何より信用が大切で、秘密を守ることは絶対だ。もし青黛楼がうかつにも漏らしたら、なまじ貴顕を顧客にしているだけあって、あっという間に信用を失い楼の看板を降ろさざるを得なくなる。質舗とて同じこと、やはり秘密を守るのが商売の要であるのだから、滅多なことにはなるまい。烏翠いちの質舗、と私が条件をつけたのはそのためだよ。私は光山府の当主だが、承徳の上官でもあるのだから、その監督の責を取り、返済が終わるまで我が名誉を青黛楼に預ける」
「主君…」
承徳はうるんだ眼で弦朗君を見つめた。
「これで、そなたは何が何でも楼に返済しようという気にもなる筈だ。……承徳、そなたはなまじ名家に生まれてしまったがために、息苦しい思いをすることもあるだろう。だけれども、ここには敏もレツィンもいて、昨夜はみなそなたのことを心配していた。もしどうしてもその燕君のことが気になるのであれば、政務に早く慣れて階梯を上がり、いずれ高官として燕君を身請けして――馴染みの関係になるかはさておいて――妓籍から解放してやるのも手だね。でも、これはあくまで次善の策に過ぎない。上策とは承徳、いったい何だと思う?」
承徳は下を向き、黙り込んだままである。
「では敏は?」
問われて敏は少しの間考えたが、まっすぐ主君の眼を見て答えた。
「政道を正しく行い、燕君のような惨い眼に遭う人を国中からなくすことだと思います」
それを聞いた承徳はぐっと息を止め、一瞬後にわあっと泣き崩れた。
さて、誰かお節介な人間が、承徳の妓楼での一件を瑞慶府の官衙に注進したものと見え、
また、直属の上官として、
さらにその処分が下った翌日、敏とレツィンは二人して正堂に召し出された。堂の階下を見れば、なぜか青黛楼に送ったはずの例の家財道具が荷車に積まれ、戻ってきている。ふたりは顔を見合わせながら、入り口にかけられている
弦朗君に報告していたのは、青黛楼に行ってきた家令であった。主君は思案気な表情である。
「では、あの家具は燕君という娘が返してよこしたのかい?」
「ええ、彼女が言うには、『正式に年季勤めが始まったら、自分が承徳様へのすべての請求を肩代わりする、だからこれは光山様にお返しする』と」
「えっ…」
レツィンは思わず声を出してしまった。
「まあそういうことだから、二人とも
拝命しながらも、敏がぼそりとつぶやいた。
「承徳は、これを聞いてさぞ落ち込むでしょうね…」
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