6-5

 風が強かったから嫌な予感はしていた。

 瀬戸さんが紐を解き、僕と古寺さんで垂れ幕を一枚ずつ回収していた。本来は先生と古寺さん二人でやる予定の仕事だったし、実際宮崎先生も『二人では』やるなと言っていた。三人いれば大丈夫だろうと思っていたのだ。

「これで最後ね」

「結構結び目が固いです」

「ちょっと待ってて。手伝うわ。立花君、垂れ幕押さえてもらっていい?」

「わかりました」

 古寺さんが立ち上がって様子を見に行こうとした時だった。

 急に立ち上がったからだろう。若干の立ちくらみが彼女を襲い、同時に突風が吹いた。僕は目にゴミが入り、瀬戸さんはスカートを押さえ、僕達は同時に顔を伏せた。

「風強いですねぇ、今日──」

 のんびりとした口調で話し出した瀬戸さんが黙った。

 気になって、僕も、ゆっくりと目を開けた。

 古寺さんの姿がなかった

「あれ? えっ? あれ? 会長は?」

 狼狽している瀬戸さんをよそに、僕は急いで校舎下を覗き込んだ。

「古寺さん!」

 しかし地面に古寺さんの姿はなかった。一瞬ホッとしたが、すぐ我に帰る。彼女はどこに行ったのか。

「た、立花君……」と弱々しい声が返ってきて気付いた。

 三メートル程下で、古寺さんは垂れ幕にしがみ付いていた。強風に煽られ垂れ幕が揺れる。今にも落ちそうだ。

 垂れ幕の近くに窓はなく、地面までの距離は十メートルを超えている。助かるには彼女が垂れ幕を伝って下に降りるか、引き上げるしかない。

「助けて……」声が震えていた。掴みどころが悪いのか、今にも落ちそうだ。降りるのは無理だろう。

「大丈夫です。待っててください、今引っ張り上げます」

 僕は垂れ幕の端を掴むと慎重に引き上げを開始した。分厚い生地だが、急な負荷で今にも破れそうだった。

「わ、私先生呼んできます!」

 背後で瀬戸さんが走って行くのが聞こえる。間に合うだろうか。

「絶対に手を離さないでください」

「う、うん」

 何とか返事をしているが余裕はなさそうだ。かと言って急いでもかえって負担になりかねない。僕は極力幕を揺らさないよう、全力で引っ張った。

 一メートル、二メートル、あと少しだ。何分経ったか分からない。一分も経っていない気がするし、一時間くらい経っている気もする。

「古寺さん、あと少しです。頑張ってください」

 自分の後背筋が疲労しているのが分かった。握力もきつい。ここが踏ん張り時だ。今までの筋トレはこの為にあったのだ。そう言っても過言ではない。

 汗が額から滴り落ちる。古寺さんの怯えた瞳が僕の視界をまっすぐに捉えている。

 やがてお互いに手を伸ばせば彼女を引き上げられそうな位置まで来た。僕は自分が落ちないよう十分配慮しながら、片腕で垂れ幕を押さえ、しゃがみ込んで手を伸ばす。

「手、取れそうですか」

 ぶんぶんと首を振る。手を離すのが怖いのだろう。

 腕を掴むにはもう少し引き上げるしかない。

「覇王!」

「立花っ! 古寺っ!」

 屋上入り口から宮崎先生と瀬戸さんの声が聞こえてきた。まだ予断は許さないがひとまず安心できる。

「古寺さん、もう少しですから」

「うん……」

 再び垂れ幕を引き上げ、完全に手が届く段階まで来た。

 僕は、彼女の手首に手を伸ばす。後は掴むだけ、その時だった。

 布地の破ける嫌な音がするのと同時に僕の手は空を切った。古寺さんが掴んでいたすぐそばの布地が体重の負荷で耐久力の限界に達しており、屋上の角の部分と擦れて破れたのだ。

 世界が揺れた様な衝撃と共に、古寺さんの姿が小さくなっていく。スローモーションでビデオを再生したように、ゆっくりと、着実に。目を見開いた彼女の瞳はただ一心に僕を映しておりその瞳の奥には恐怖とも驚愕とも取れる感情が宿っている。限界まで開かれた口からは悲鳴も出ず、後頭部から地面に向かって落ちる彼女の姿はその生還を絶望的な物にしていた。

 僕は、何も考えていなかった。

 だから飛び出した。

 いつか冴香が言っていたっけ。陸上部の話。短距離は足の回転が大事なのだと言っていた。後ろに流すのではなく、前に腿を引き上げ地面を叩く。その下動力で回転を作り前に進めるのだと、そんな話を嬉々として話してくれていた。

 僕は壁を走っていた。

 古寺さんが落ちるよりも早く、彼女を抱きかかえる為に。

 一歩、一歩と確実に地面を叩く。前──地面に向けて体重をかけることで体が浮きそうになるのを阻止する。足が地面にめり込むのが分かった。校舎に次々と僕の足跡が刻まれる。

 風より速く駆けろ。

 命を燃やせ。

 僕は古寺さんを抱きしめた。勢いが激しい。このままでは助からない。せめて彼女だけでも。

 僕はそのとき、下に木が生えている事に気がついた。

 結構離れている。届くかどうかは分からない。でも地面までまだ距離がある。

 もしかしたら飛べば届くかもしれない。

 僕は思い切り校舎を蹴り飛ばすと、木に向けて飛んだ。それと同時に古寺さんを包むように、身体で覆う。

 物凄い衝撃が僕の全身を打った。地面にぶつかっているのか、木々に絡まっているのかすら分からない。バキバキと、何かが折れる音が響く。それが枝なのか自分の骨なのかどうかすらも分からない。

 肩に今まで感じた事のない強い衝撃を受けて、僕達は地面に投げ出された。

 瞬間、世界から音が消えたかのような静寂。

 何が起こっているのかわからなかった。

 でも、僕の目の前には青く雄大な空が着実に広がっていた。

 分厚い雲が空を走っており、流されていく。

 生きていた。

 生きている。

 腕の中で、古寺さんの浅い呼吸が聞こえた。そこで自分の意識がだんだんハッキリするのを自覚する。

「覇王!」

「立花! 古寺!」

 遠くから叫び声が聞こえた。よく分からないが、僕は右手を上げる。左手は動きそうになかった。折れてるか、肩が外れてるかしているかもしれない。まるで他人事の様だった。

「古寺さん」

「たちばな、くん?」

「生きてます?」

「多分……」

「怪我とかは」

「私はない、みたい。でも、君は」

「いや、よく分からないです。もう、なんだか」

 なんだか不思議と笑けてきて、僕は空に笑みを放り投げた。

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