6-4

「もしかしたら誰か来るかもしれないから、もう少し教室で様子を見てから向かいます。もし集会が開けそうでしたら覇王をお呼び致しますので」

「すいませんが、よろしくお願いします」

「いえ、大丈夫です。こちらこそよろしくお願いいたします」

 瀬戸さんを一人教室に残して僕と古寺さんは先に屋上へと向かった。

「瀬戸さんって、立花君の同級生なのよね?」

「はい。どうしてですか?」

「いや、やりとりが取引先同士みたいだったから……」

 屋上に入る扉の前で待っていると間もなく鍵を持った生徒指導の宮崎先生がやって来た。入学式の時に校門で僕を呼び止めた先生だ。彼は僕を見ると驚いたように目を見開いた。

「なんだ、立花も居るじゃないか」

「栄華祭の準備でたまたま学校に来てたみたいで。手伝ってもらう事にしたんです」

「そりゃ助かる」

 屋上の扉を先生が開くと風が校内に入り込み、埃っぽい空気を一掃した。広い青空が天一杯に広がる。校内の各施設は勿論、町並みまで遠く見渡す事が出来て思わずため息が出た。

「今日は風が強いな」先生がぼやく。

 屋上には少し低めの柵があり、柵の向こう側は約一メートルほど歩ける幅がある。僕と宮崎先生は柵を乗り越えると垂れ幕の回収にかかった。垂れ幕はそれぞれ近くの柵に結び付けられている。

「とりあえず古寺が紐を解いて、立花と俺が一本ずつ巻き上げる。立花、結構重いから気をつけろ。ゆっくりやれ。そして俺が落ちそうになったら助けてくれ」普通逆じゃないか。

 今年は部活動が優秀だったらしく、全国大会に出たところも多かったらしい。その分垂れ幕の数も多い。一本巻き上げるのにも時間が掛かった。

「結構しっかりした横断幕ですけど、このまま処分ってなんだかもったいないですね」

「何言ってんだ。栄華祭が終わったらまた設置するんだぞ。そしてしっかりした布地は裏写りしないから来年は裏側に文字を記載して垂らすんだ」

「そっちの方が予算が安いんですって」

「へぇ……」随分けち臭い話だ。


「宮崎先生、神宮高校の田崎先生からお電話来てます」

 三本目を巻き上げた段階で他の先生が宮崎先生を呼びに来た。「すぐ行きます」と宮崎先生が答える。

「じゃあ少し休憩だ。危ないから、二人ではやるなよ」

 先生はそう言うとそそくさと屋上を後にした。僕は柵の内側に戻ると、ホッと一息つく。随分汗をかいた。結構重労働だ。良い筋トレになる。

「お疲れ様」

 柵を背もたれにして座り込んでいる僕に古寺さんが優しく声を掛けてくれた。

「なんだかこうやってゆっくり話すのは久しぶりだねぇ」

 その口調は薬局で出会った古寺さんの物だった。

「そうですね。何度か薬局に行きはしたんですけど」

「最近はずっと忙しくてバイトも出てなかったからなぁ。今代理の人が入ってるんだよ」

「そうなんですか」

 その口調は、やっぱりまるで別人で。スイッチを入れ替えたみたいに人が変わってしまっている。そんな気がした。

「受験勉強ですか」

「うん。と言っても、推薦枠は取れてるから論文とか、面接の勉強ばっかりだけど。今は最後の栄華祭を無事に成功させることが先決、かな」

「生徒会、大事なんですね」

「ずっとやってきた事だから」

 彼女にとって生徒会こそが、彼女の青春そのものに違いないのだろう。冴香にとっての陸上、花咲さんにとっての新聞がそうであるように。

「実を言うとね、まともに学校に通いだしたのは最近なんだ。だから、推薦もらえるなんて本当は思ってなかった」

 僕はそこで、彼女が昼間の薬局でレジを打っていたことを思い出した。

「学校サボってレジ打ってた事、黙ってくれててありがと。正直助かった」

「僕こそ、平日の昼間から買い物に来ている僕に何も聞かないでレジを打ってくれる古寺さんには随分救われましたよ」

 すると古寺さんは「ふふっ」と笑みを漏らした。

「仕事だったしね。余計な事には首突っ込まない性分なの。知ってる? 君は気付いていないだろうけど、私は君の存在に随分励まされていたんだよ」

「僕に?」

 励ますような事をした記憶はない。でも、古寺さんははっきりと頷いた。

「生徒会の活動に誰も興味なんか示さないって話したの、覚えてる?」

「ええ」

「でも、生徒会長の人柄には皆興味持つんだ。優美とか、淑やかとか、そんなよく分からないイメージを先生だけじゃなくて、クラスメイトや、友達からも抱かれるようになった。もちろん、そんな勝手なイメージなんて無視すればいいんだけど、自分なりの処世術だったのかな。長い期間生徒会を続けるうちにいつしか周囲が抱く生徒会長のイメージに染まってしまってた」

 古寺さんは柵に身体を預けて空を眺めた。

「それまで学校サボってレジ打ってたのは、学校で生徒会長を演じるのに疲れていたから。体調が悪いフリをして早退してた」

「よくばれませんでしたね」

「学内での素行は良かったし、周囲のイメージに沿った生徒会長を演じるうちにか弱いお嬢様像が出来上がってたみたいで誰も疑ったりはしなかったんだ。皮肉な事だけどね。親に連絡がいかなかったのはおばさんのお陰かな。いっつも私の味方してくれてた。家に帰るわけにもいかなくて、おばさんの親切に甘えて、薬局のレジカウンターに逃げ込んでたんだよ」

「僕が買い物に行ったのはそんな時なんですね」

「うん」古寺さんは頷く。「最初君を見た時、すぐに学校行ってないって分かったよ。君は明らかに私より年下だったし、顔色も悪くてひ弱そうだった。一念発起して身体を鍛える事にしたのかなって」

「実際、そうでしたよ」

「でも筋トレなんてそう続くもんでもないし、すぐやめちゃうだろうなって思ってたんだ。でも君は私の予想を裏切った。どんどんでかくなって行くんだから驚いたよ。背も抜かされて、体格もがっしりして、今じゃどっちが年上かわかんないくらい」

 それは褒め言葉なんだろうか。

「この人はめげずに闘ってるんだって、私も負けてらんないなって」

 そして彼女は学校から逃げ出さなくなった。

「入学式の時もずっと目が合うなって思ってました」

「うん。一目で立花君だって分かった。凄いよね、鉄バットで殴られても傷一つ負ってないなんて」

「鍛えといて良かったです」僕はお腹をさすった。

「不登校だった子が、復学して受験までして、自分と同じ学校にやって来て。凄いと思ったよ」

 凄くなんかない。

 僕は闘っていた訳じゃない。逃げ道がなかっただけだ。追い込まれて、追い詰められて、死ぬか筋トレするかしか道が見出せなかった。

 死ぬ勇気もなかった。だから僕は筋トレした。

 外に出た時、愕然とした。僕が逃げている間、冴香がずっと矢面に立たされていた。僕が受けた仕打ちを、彼女も受けていた。自分が逃げた皺寄せが自分を助けてくれていた人のところへ来ていたのだ。

「僕はもう逃げるわけにはいきませんから」

 自分の為じゃない。

 自分を認めてくれる人の為に、守りたいと思っている人の為に。

「覇王、遅くなりまして申し訳ございません」

 瀬戸さんだった。屋上の入り口で息を切らしている。走ってきたのだろうか。

「大丈夫です。それで、他の人は」

 彼女は静かに首を振った。やはり誰も来なかったらしい。

 それを見て古寺さんは「じゃあ」と声を出した。

「片付けの続き、しましょう」

 その口調はもう生徒会長の古寺正枝だった。


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