3-5
帰宅してからプロテインを飲むと牛乳が切れてしまった。いつもは小遣いで買った豆乳を利用しているのだが、それもなかったので家族用の牛乳に手を出してしまったのだ。いけない。これでは翌日の朝食父さんが牛乳を飲むことが出来ない。
シャワーを浴びて夕食を取ると僕は財布を持った。
「幸久、どこいくの?」
「牛乳、飲んじゃったからちょっと買ってくるよ」
「そう。夜遅いから気をつけ……なくてもいいわね」
コンビニで豆乳と牛乳を買い、すっかり暗くなった夜道を歩く。そっと吹き付ける夜風に気持ちよさを覚え少し遠まわりして帰ることにした。しばらく歩くと前方に行きつけの薬局が見えてくる。夜九時。見覚えのある人が、ちょうどシャッターを下ろすところだった。
「どうも。こんばんは」
上体の姿勢をピンとしたまま静かに腰を曲げるようにしてお辞儀をする。すると相手は「立花君」と声をあげた。よく会う薬局のお姉さんだ。長い髪を後ろで束ねて、妙に色っぽい人だ。
きっと大学生……いや? 何故か疑問を抱いて首を傾げた。
「どうしたの?」
「何でもないです」
「こんな時間に散歩?」
「ええ。買い物のついでに。気持ちのいい天気だったので」
「そっか。じゃあ暇?」
「ええ」
「見ての通りもう店閉めるから、ボディーガード、お願いしていいかな」
一瞬意味が分からなかったが、一緒に帰って欲しいという意味だと気づく。なんと刺激的な誘い文句だ。
店の前でしばらく待っていると勝手口からお姉さんが姿を現した。エプロンを外しただけ、特に荷物らしきものも持っていない。
「手ぶらですか?」
「うん。家近いから。立花君もこの辺?」
「ちょっと歩きますけど、遠くはないです。近くの公園を抜けた住宅街で……」
「ああ、あそこらへん全然コンビニ無いよね」
お姉さんとは僕が筋トレを開始した際に知り合った。あの薬局に度々プロテインを買いに行き、レジを打ってもらった。
登校拒否期間中は同級生に会わないよういつも学校がある平日昼間にプロテインを買いに行っていた。あまり目立たない、個人経営の薬局。そこのレジ番をしていたのが彼女だ。
平日昼間に中学生が買い物に来る。誰が見てもそれは異質だったろうが、彼女は怪訝な表情一つせずに僕に接してくれた。
やがて常連となりお互い会釈する仲になり、いつの間にかこうして会話するようになった。ただ、こうして一緒に帰るのは初めてだ。
薄暗い夜道を二人で歩く。肌寒さも、湿っぽさもない季節。空気だけがやわらかく澄んでいて、どこか遠くから虫の声が聞こえる。
「そう言えばこうしてお会いするのも久々ですね」
「うん。昼間にバイト入るの辞めちゃったから」
「僕も昼間にお店に行かなくなったのでちょうど良かったのかもしれません」
「栄華高校に通ってるんだよね」
「どうして知ってるんですか?」
「高校は楽しい?」彼女は僕の疑問には答えない。
「まぁ、それなりに」
「彼女とか、出来ちゃったり?」
「いえ、残念ながら」
「友達は?」
「ええ、妹のおかげでどうにか」
「妹?」
「実は僕、一年浪人して高校に入ったんです。栄華高校を選んだのも妹がプッシュしてくれたからで。今では妹が僕のクラスメイトです」
「へぇ。なんていうか、変わった青春を過ごしてるね」
「でもおかげで上手く居場所を作ってもらえました。だから僕は妹には頭が上がらないんですよ」
「なるほどね。じゃあ妹さんは立花君にとっての救世主だ」
「そうなりますね」
「部活に入ったりはしないの? 先輩と仲良くなれるかもよ」
「今のところは考えてません。でも、先輩と言えば学校の生徒会長さんが僕に良くしてくれてます」
「仲良いんだ?」
「どうでしょうね。そこまで深く知り合っている訳ではないので。でも、少し不思議な事があって」
「どうしたの?」
「何と言うか、初めて会った気がしないんですよね」
古寺さんと昼食を取った際、初対面の人と面した時に起こりがちな居心地の悪さを抱く事がなかった。ずっとどこかで知っている気がしていたのだ。
そこでお姉さんは不意に噴き出した。急な行動をいぶかしんでしまう。
「どうかしましたか。何か変な事でも?」
「いや。そこまで話していて本当に気づかない? 立花君」
「気づくって何を──」
言いかけて、口を閉じた。
妙な空気の中、彼女はある家の前で立ち止まる。少し小奇麗な一軒家。表札には『古寺』の二文字。
まさか。
「やっと分かった?」
「あなたは、古寺さんの……」
「さんの?」
「お姉さん、ですか」
すると堰を切ったかのように彼女はくっくと笑い始めた。
「違います」
「えっ?」
「私がその古寺さんです」
一瞬、空気が止まった気がした。いや、止まっていたのは僕なのだろうけれど。
「えっ?」
馬鹿な、どうかしている。これだけ長く接していて、学内でも一緒に食事をして、こうして一緒に帰宅して、そこまで交流を果たして気づかないなんて事があるものか。鈍いとか言うレベルじゃない。
「立花君。すごい顔してるよ」
面白おかしそうな、いたずらっぽそうな、そんな様子で彼女は僕の顔を覗き込んできた。とは言え薄暗くて彼女の表情は詳しく知れない。いたずらっぽいと感じたのは僕が勝手にそう思い込んでいるからかもしれない。声のトーンとか、発せられる空気とか、そう言ったものから総合して判断したに違いなかった。
「変な冗談言うからですよ」
「冗談じゃないよ」
彼女は言うと束ねていた髪を解き前髪を左側へ流す。月明かりに照らされた髪は艶やかだ。綺麗な黒髪だった。流された前髪から覗いたのは見覚えのある太くしっかり整った眉と、古寺正枝その人の姿。
「どう? これなら分かるでしょ?」
薄暗くても、その顔ははっきりと見分ける事が出来た。目が暗闇に慣れてきたのかもしれない。確かに古寺さんだ。間違えるはずない。
「あれ、古寺さんこんな夜ふけにどうしたんですか? 奇遇ですね」
「現実逃避しない」わき腹を軽く叩かれた。「どうして気づかないかな。声とか、顔とか、一緒なのに」
「いや、だって……」
「だって?」
言いかけてよどんだ。言っていいのだろうか。
まるで別人じゃないですか。
姿じゃない。
人が。
中身が。
「バイト中のエプロン姿しか見たことなかったので」
結局濁す事にした。
「君は一体どこで人を認識してるのさ」彼女はおかしそうだ。
「すいません」
僕が謝罪するのと彼女が家の門を開くのはほぼ同時だった。彼女は門に手を掛けたまま、ゆっくりとこちらを振り返る。
「まぁいいや。学校の皆には内緒だよ? 私が薬局でレジ打ちしてるって事」
「ええ。……薬局って、資格とかいるんじゃないんですか」
「レジだけなら要らないよ。薬剤師は別にいるし、まぁ私のおばさんなんだけど」
「ああ、なるほど」
「とにかくこの事は私たちだけの秘密って事で」
「わかりました」
「ありがとう。送ってくれて。図々しいかもしれないけれど、また頼んでもいいかな?」
「ええ、もちろん」
「やった」
彼女は嬉しそうに少しだけ体を跳ねさせると「それから」とすこし落ち着いたトーンで付け加えた。
「ごめんね、ありがと」
どういう意味の「ありがと」なのだろう。何に関しての謝罪とお礼なのだ。
返答に詰まっているうちに、古寺さんは門を抜け玄関へと入って行った。別れ際、少しだけ手を振られる。僕はそれに会釈で応えた。
ドアの向こうへ彼女の姿が消えてから、ゆっくりと考えをめぐらせ、家路に着く。
僕が引きこもりをしていた時、同級生に見つからないよう昼間にプロテインを買っていた。その時レジをしていたのが彼女だ。当時は、というかついさっきまで、僕は彼女が大学生か何かだと思っていた。でも違った。
学校のある昼間、彼女はレジのバイトをしていた。学校をサボっていたという事に他ならない。
彼女は一年の頃から生徒会長をしていると言っていた。
そんな人が、何故学校をサボっていたのだろうか。
分からない事だらけだった。よっぽどさっき尋ねてしまえば良かったかもしれない。ただ、それは気が引けてやめておいた。全部知る必要はないと思ったからだ。
人には適切な距離感がある。近すぎてもいけないし、遠すぎても縁がなくなる。家族だって知らない事があるのだ。僕は冴香が中学時代、具体的にどんな目に遭ったのか詳しく知らない。現在、彼氏がいるのか、好きな人がいるのか。一緒の学校に通い毎日会話しているのに何も知らない。でもそれでいいと思う。そんな事を知っていようがいまいが、僕達の仲は変わらないからだ。近すぎるからこそ、知らないほうがいい事だってある。知って欲しければ自ら語りだすだろう。真摯に話を聞く事が、僕に出来て僕がすべき一番の事だ。
そこまで考えて先ほどの「ごめん」と「ありがと」の意味に気がつく。
隠していて「ごめん」。
聞かないでいてくれて「ありがと」。
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