3-4

 日課の腕立て腹筋背筋を終え、握力・スクワット、そしていよいよデザートの懸垂に取り掛かろうとした時、帰宅する冴香が僕の前を通りかかった。

「冴香」

 声を掛けると彼女の肩がびくりと跳ね上がる。僕の姿を見てホッと胸をなでおろしていた。

「あ、お兄ちゃんか。変な人だと思って焦ったよ」

「お帰り」

「ただいま。それで、何やってんの……?」

「筋肉トレーニングだよ。見て分からないか?」

「それは分かるんだけど……どうして家じゃなくて公園でやってるの」

「家でやろうとすると母さんが拒むんだよ。汗で水溜りが出来るのを恐れているんだろう」

「それは確かに嫌だけど……。家帰ってからずっとやってたの? もう六時だよ?」

「む、もうそんな時間か。通りで空が赤いわけだ。少し物足りないが、今日はこれくらいにしておこう」

「それで物足りないんだ……」

 冴香が表情を固くする。まさかな、そんな、引いてるはずないじゃない。

 僕がウォームダウンと軽いストレッチを行っている間、冴香は傍で待っていてくれた。時間を掛けた事を謝罪しつつ、共に帰路につく。並んで立つと、自分が随分大きくなった事を改めて実感する。数年前の僕達にはこんな身長差はなかった。

「筋トレ、今日早速やらされたけど嫌になったよ。明日筋肉痛確定」

「何言ってるんだ。筋肉痛は嬉しいもんだぞ。筋肉が超回復してより発達するからな」

「そんなもん喜ぶ人類はお兄ちゃんくらいだよ。大体私は女子なんだから、筋肉もりもりになんてなりたくないんだよ。筋トレなんて何が楽しいんだか」

「楽しいって言うのとは少し違うな。なんていうか、筋トレをしていると考えなくてもいい事を排除してくれるんだよ」

「どういうこと?」冴香は首をかしげる。

「冴香は明るいから、あまり物事を引きずらないだろうし、ちょっと共感しづらいかもしれないな」

 どう上手く説明したものだろう。僕は少し思考する。冴香はその間何も口を挟まず、静かに待ってくれていた。

「自分が他人に迷惑を掛けているかもしれない、不快にさせているかもしれない、そういうネガティブな気持ちが昔から僕にはあるんだ。他人と自分を比較して落ち込んでしまったり。人の視線や評価が気になる。そういうことって、冴香はないか?」

「そりゃあないって言っちゃ嘘になるよ」

「僕もそうだ。多分冴香の何倍も、その事を気にしてしまう。人の評価を気にして行動ができなくなってしまったりするんだ。小学校の頃、よく声が小さいって冴香から怒られてただろ? あれもそれが原因なんだ。大きな声を出して、周りの迷惑にならないか、浮いてしまわないか、恐れていたんだよ」

「へぇ、そうだったんだ。でも今のお兄ちゃんは声も通ってるし、堂々として見えるけど?」

「内心では分かってるんだ。自分の考え過ぎだって。だから、気にしないようにしてる。でも、疲弊してる部分もある」

 無理をしてしまっている。そんな気がしてならないのだ。恵まれた体格から覇王と呼んでもらってはいるが、その内心は酷くもろいものだという事は自分が誰よりも知っている。

 だから僕は鎧を纏っているのだ。筋肉を。でないと、また負けてしまいそうだから。

 かつての自分に、今の自分に。

「疲弊し続けたらやっぱり人間倒れちゃうだろ? だから僕にとって、筋トレが必要なんだよ」

「今の話の流れでそれ?」

 僕は空を見上げる。宵が近いのか、徐々に夕闇が差し迫っている。わずかではあるが星が遠く空に瞬いていた。

「何かに失敗してしまった時、嫌な事があった時、ぶっ倒れるまで筋トレをするんだ。イライラして壁を殴ってしまう人の様に、僕は自分の中から悲観的な考えや自らを卑下する思考が消えうせるまで筋トレをする。ひたすら、我武者羅に、目の前の事に集中するんだ。するといつの間にか疲れてそんな考え消えうせてしまう。筋肉痛? 上等だよ。痛ければそれに気を取られてそんな馬鹿な考えも浮かばないしね」

 きっとこのついた筋肉の量は自分の弱さその物だ。それだけの弱さを僕は持っていた。抱えていた。いや、いる。今もなお。

 冴香はしばらく僕の言葉について考えていた様だったが、やがて「なるほど」と手を叩くと何故か愉快そうな顔でにんまりと笑みを浮かべた。

「つまりお兄ちゃんは筋トレする事で自分の弱さをぶん殴ってるって事だよね。さすが覇王。やる事が違う」

 長々と語った自分の考えがたった一言にまとめられ、きょとんとする。そうか、つまりはそう言う事か。

「冴香はやっぱり頭いいな」

「え、何急に」

「いいんだ。それより、陸上部はどうだった? 部活の話も聞かせてくれ」

「聞いてよ。陸上って奥が深いんだよ。体の軸をしっかりさせて地面を叩いて足の回転を生むのが大事なんだって」

「へぇ」

 思い出したくもない過去が僕にはある。ひょっとしたら、誰にだってあるのかもしれない。でもそれが無駄だったなんて思っていない。思いたくない。

 あの頃があったから今の僕で居られる。冴香とこうして、いい兄妹でいられる。

 僕はそのことに深い感謝の念を覚えるのだ。

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